19.ネリアの実家
夜。ネリアの実家、食堂。
「……………………………………………………」
夜になるとネリアの父が仕事から戻り、ついにジャンも夕食に招かれた。
執事に案内されて食堂へ着くと、既にネリア、セス、ネリアの父が待っていた。
ネリアから「私のパパ♡」と紹介されたのは、多くの魔物を屠ってきた貫禄を漂わせる厳つい初老男性で、ネリアとは祖父と孫ほど歳が離れていた。
挨拶のときは唸るような恐ろしく低い声で「娘から話は聞いている」とだけ言ったきり、後はネリアの言葉に頷くばかりであったが、落ち窪んだ目を鋭く光らせながらジャンを真っ直ぐに見据え続けていた…………そして、今も。
「……………………………………………………」
ネリアの父は度々食事の手を止めて、何か言いたげな……しかし何を考えているのかわからない表情で、ジャンをじいっと見つめてくる。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
非常に食べにくい。
テーブルマナーについても問題無く身に付けていたジャンだが、最早料理の味もわからないほど緊張していた。
食堂はロクサーヌの家の食堂より広く、食卓も大きくて互いの距離も充分開いているはずなのに、その眼差しは息のかかりそうなほど間近に迫って感じられる。
「でねっ、パパ! 彼ったらダンスだけじゃなくてヴァイオリンもすっっごく上手なの! 弾いてる姿も素敵で惚れ直しちゃった〜〜♡ 指も長くて綺麗で……」
ネリアが咀嚼の合間にパーティの感想やジャンの魅力を父親に伝えたりもするのだが、向こうは「うむ」「そうか」などとしか返さず、ネリアが話し終わるとまたすぐジャンの方を凝視してくる。
食事が始まってからずっとその繰り返しだ。
「あの素晴らしい演奏、パパたちにも聴かせたいな〜。食後にどうかなっ? 勿論演奏してくれますよね♪」
「⁉︎ お聞かせできるようなものでは……」
ネリアの急な無茶振りにジャンは凍り付いたが、セスは名案だとばかりに盛り上げようとする。
「館長夫人の前でもそう言って謙遜した後、プロ級の腕前を披露したそうじゃないか? さっきネリアから聞いたぞ〜。俺も是非聴いてみたいな!」
「セスが聴くならパパも聴くよね。ねっ、パパ?」
甘えた声で尋ねる娘の顔を見て、それから強張ったジャンの顔を見て、ネリアの父はゆっくりと口を開く。
「……………………遠慮しておこう」
「え〜〜」
「明日も仕事で朝早い……………」
「そっかぁ、残念……パパ、お仕事頑張ってね♡」
「うむ……………………………………………………」
再びの気まずい沈黙と眼差しに喉の渇きを覚えたジャンはグラスに手を伸ばす。
一方、セスは新たな話題の提供を試みる。
「ネリアたちが参加したパーティの規模には到底及びませんが、俺がいる村でもこの季節には広場で色々と催しがあるんですよ。月見祭や収穫祭、少し前には旅の劇団が芝居をやったり。今月末には精霊祭もあって、毎年教会の神父さんが作るお菓子が好評で、村の子供たちは今からもう楽しみにしてます。先生もあの神父さんと面識がありましたよね? あの人は今……」
ガチャン!
不意に食器の音がセスの言葉を遮り、皆の視線が音の方向へ集まった。
「っ……申し訳ございません……」
緊張した空気の中、おそらく誰よりも緊張し続けていたであろう男の狼狽えた声が響いた。
飲み終えたグラスを置こうとしたジャンが、うっかりグラスを倒してしまったのだ。
控えていた給仕がすぐに片付けて替えを運んでくる間、ネリアはジャンではなくセスを睨みつけて責め始める。
「今のはセスのせいだよね?」
「え……倒したのは自分で……」
「いや、すまんっ。ネリアの言う通りだから、君は気にしないでくれ……」
「ねっ! 気にしないでいいですからっ」
「でも……」
自分を庇ってくれるためとはいえ何故セスのせいにするのか? そしてセスも何故それを受け入れるのか?……ジャンには意味がわからなかった。
ネリアとセスはアイコンタクトをして、2人だけで通じ合うことがあるのだと言わんばかりである。
ネリアの父親はというと、そんな2人の顔を交互に見た後、やはりじっとジャンを見つめてくる。
「……………………………………………………」
「本当に申し訳……」
「2度も謝る必要は無い…………………………」
「……」
「パパも全然っ怒ってないから大丈夫ですよ〜」
「そうそう、先生が怒るときはもっと鬼神のような気迫があるもんな!」
「ねー! 私たちが子供の頃、教会でふざけてたときなんかさー……」
その後も恋人がその幼馴染と思い出話で盛り上がる隣で、ジャンは恋人の父親から無言の注視を受け続けた。
ひたすらに耐えがたい居心地の悪さだった。
***
日付が変わって深夜。ジャンの泊まる客室。
コンコンコン!
『ネリアでーすっ。起きてますかー?』
くたくたに疲れて寝ていたジャンを、時間を選ばない溌剌とした声が微睡から引っ張りあげた。
ジャンは仕方なく扉へ向かったものの、既に偽装を解除して半獣人の姿でいることを思い出す。
「ネリアだけか?」
「はいっ、私1人です」
「…………」
ガチャッ……
「ジャンさ〜〜ん♡」
ジャンがゆっくりと開ける扉の隙間から、ネリアは待ち切れない様子で暗い室内へ滑り込んできた。
そうして扉を閉め切るのも待たず、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる。
「わーい、今はいつものジャンさんだ〜。私はやっぱこっちの方が好きだな〜、モフモフ……」
「こんな時間に何の用だ?」
ジャンは扉の閉まったことを確認すると、無遠慮に耳や尻尾を掴んでくるネリアを引き剥がした。
ネリアは寝台の前へ進むと、纏っていたガウンをソファに投げ、コケティッシュなピンクのベビードール姿を露わにする。
「えへへっ、夜這いに来ちゃいました♡……ジャンさんって本当のお誕生日がわからないから、拾われてきた日が記念日だってロクサーヌさんに聞きました……今日がその日ですよね? 予想外に実家に連れ戻されちゃいましたけど、これから『プレゼント』受け取ってください♡」
そんな言葉を添えて我が身ひとつを差し出してくるネリアを前に、ジャンは肉汁滴る香ばしい最高級ステーキを胸焼け中にお出しされたような気分になる。
「ここでできるわけないだろ……別の棟に部屋を分けられている理由を考えろ。ネリアの親が許してない」
「私からジャンさんの部屋に襲いに来たんですから、パパだってジャンさんが悪いとは思いませんよ♪」
「悪いが疲れてる……午後には帰国するし、ゆっくり休みたい」
「私が動きますよっ。それならジャンさんも力加減を気にしなくて済みますし♪ どうせ帰りは移動中に寝てたらいいんですから……」
「俺は男娼じゃない。少しはこっちの気持ちを尊重しろ」
寝巻きを脱がそうとしてきたネリアを、ジャンはとうとう不機嫌さを隠さずに振り払った。
次の瞬間には酷く傷付いたネリアの表情がジャンに強い罪悪感を抱かせ、ジャンはそのことに不公平さも覚える。
「ネリア、祝ってくれようとした気持ちはありがたいと思ってる。でもこの先を考えれば軽率な行動でお義父さんの不興を買いたくはないし、本当に疲れてるんだ」
「すみません……私ったら、またジャンさんの気持ちも考えずに1人で勝手に舞い上がってました……すぐ帰りますっ。おやすみなさい……また明日っ」
ネリアは溢れそうな涙を拭いながらガウンを羽織ると、腰紐を結びながらそそくさと出ていこうとした。
追い返すのも可哀想で、ジャンはせめてこの部屋に泊めるべきかと考えたが、その結果を思うと呼び止め損ねてしまった。
***
朝になった。
ジャンはあれからしばらく煩悶して寝付けず、結局寝坊するはめになった。
今朝はネリアも自分と顔を合わせるのが気まずいだろう。周りに不信に思われれば別れさせられかねないし、なんと言って埋め合わせればいいのか……
執事に連れられて廊下を歩いていく間も、ジャンはネリアの傷付いた表情を思い出して胸が痛んだ。
ガチャッ
「だよねー、あのときのパパとセスったら……あっ! ジャンさん、おはようございま〜す♪」
「おっ? やっと起きてきたかー。おはよう、ジャン」
昨日よりも小さな食堂に通されたジャンの目に飛び込んで来たのは、家庭的なサイズの円卓を囲んで談笑しているネリアとセスであった。
和やかにジャンを迎え入れる2人の手元には、食べ終わったばかりの食器が残されている。
食堂には給仕の1人も控えてはおらず、ジャンが勧められた席に着くと、執事がカートを押して配膳を始める。
「パパは朝の訓練があるからもう学校に行ったし、こっちの方が堅苦しくなくていいかな〜って。執事さんならジャンさんの正体も知ってますからね。それにこっちの方が壁紙も明るくて、日当たりも良いんですよー。あっ、このジャムお勧めです♪」
ネリアは何事もなかったかのようにすっかり元気だ。
そんなネリアの隣でセスは眩しそうに欠伸している。
「お目付け役として国境近くまで俺も付き添わせてもらうが、仕方ないと諦めてくれよな。……大丈夫だ。先生には良い報告ができるはずだって、俺も信じてるさ」
どうしてネリアは上機嫌なのだろうか。
どうしてセスは眠そうなのだろうか。
どうして2人の椅子は自分とネリアの椅子よりも距離が近いのだろうか。
感覚低減状態でなければ真実を確かめることもできたかもしれない……
モヤモヤと浮かぶ疑心暗鬼をどう払えばいいのか、ジャンには良い案が思い付かなかった。
グラスが倒れたのは、セスが神父が不老不死かもしれないとネリアの父に伝えそうになったから、魔法の強制力で話せないように邪魔が入った。ネリアは自分で試したことがあるので、セスが話そうとしたことに気付いた。