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泡沫の涙

作者: 紬希


 ────……ある遠く深い海の底に、美しい姫たちが棲んでいました。


 姫たちは腰から下が美しい光沢を放つ、煌びやかな魚の身体を持っていました。


 長い髪を(なび)かせて、長いひれを靡かせて泳ぐ姿は、それはそれは美しいものでした────……






 あるところのある城に、ひとりの王子が住んでいました。


 この王子は努力の人で、国を治める帝王学も、国を守るための武力を修得するための努力も惜しまない王子でした。


 この努力家の若い王子は好奇心も旺盛でした。国には水軍があります。王子はこの水軍の船に乗るのも好みました。最初こそ波に揺られて大変な思いもしましたが、すぐに馴染みました。


 刹那の(とき)もない波の形に、どこまでも吹き抜ける風に、潮の自然な匂いに、海や空で生きるものの気配に……王子はどんどん魅了されていきました。


 そうして幼い過去に、母親が語ってくれた物語を思い出すのは自然な流れでした。


『──遠く深い海の底、果てしなく澄んだ海の底に、美しい姫たちが棲んでいました。姫たちが棲む宮殿もとても美しいものでした』


 王子の母、つまり王妃が語る物語が頭の中に甦ります。少し低い王妃の声が優しく王子を包みこんでくれていました。


『6人の姫たちは、15の成人の歳を迎えると海の上に行くことを許されていました。末の姫は、今か今かと自分の番を待ち望んでいました』


 白くうねる波が、煌めく飛沫が想像を描き立てます。波の隙間から美しい姿が見られるかもと期待が膨らんでいきます。王子は時間の許す限り甲板に出て遥か彼方を見つめました。


 物語だと判っていても、王子は海に棲む姫に会いたくて堪りません。今日は会えるか、明日なら会えるかと期待に胸を熱くしていました。


 そんな折、嵐に見舞われた夜の海で異変を見付けました。波の隙間に、人影を見たのです。見間違いかもしれません。けれど、一度そう思ってしまうともうそうとしか思えませんでした。海の掟として、遭難者を発見した場合、どんな国の者でも速やかに救助しなければなりません。王子はその方角に船を向けました。


 暗く黒くうねる水面を必死に探しました。時折キラッと光る場所があります。きっと遭難者が身に着けている物の反射でしょう、その箇所を入念に探しました。余りに必死に探しているうちに、最悪の事態が起こってしまいました。


 王子が甲板から転落してしまったのです。


 船の中は騒然となりました。落ちたのは自国の王子です。将来の王なのです。真っ暗闇の海面を必死に捜索しました。何艘も小舟を出して、水夫は何度も潜水しました。それでも王子は見付かりません。


 海面は真っ暗なあぎとで、四方八方から襲い掛かってくるような凶暴さを剥き出しにしてきました。






 王子は海の中から海面を見つめていました。海中で上へ下へと押し流され、海面だと思っていたものは海面ではなかったのかもしれません。とにかく闇雲にもがきました。


 薄く目を開けた時、何かが見えました。真っ暗な波の闇から、白いものが見えます。辺り一面に全く光がない中、それは白く輝くほどでした。


『初めて海の上に行くことが許された末の姫は、嵐によって投げ出された王子を見付けました。それはとても美しい王子でした』


 無意識に白く輝く方へ手を伸ばします。伸ばしたそれは、驚くほどしっかりとした力で握り返されました。


『末の姫は一目でこの美しい王子に恋をしてしました』


 何か柔らかいものに包まれ、王子の身体は海上に向かいます。途中で王子は必死に目を開けました。飛びそうになる意識を死物狂いで繋ぎ止めます。会いたくて堪らなかった姫なのかもしれないのです。


 やがて、王子は海の中の岩場に寝かされました。海水を飲んでしまい、せて吐いて、頭痛も酷く、頭も霞み掛かっていました。けれど──


 自分を助けてくれた者の手を、放そうとはしませんでした。


 その手は白く美しく、王子の手より小さくて華奢でした。海に棲む姫だと、美しい魚の姫だと確信しました。


 目に映る姫。闇夜にも判る煌びやかな鱗。人間には有り得ない──魚の身体。


 王子は姫の柔らかな手を、冷たい肌を、真っ赤な唇を記憶に残して……意識はそこで途絶えました。







 目が覚めた時、ひとりの姫が王子の顔を覗き込んでいました。王子が抱いた思いは落胆──あの魚の姫ではありませんでした。


 あの姫とは違う唇……違う感触の手指。


 様々に沸き起こってくる感情を何とか抑え込もうとしていると、王子の顔を覗き込んでいた姫が何かを捲し立ててきます。


 曰く、何か胸騒ぎがしてこの海岸に来たと。来てみたら王子が波打ち際で倒れていたこと。供の者に命じて、陽当たりの良い場所まで運ばせたこと。


 良く見ると、姫は海を挟んだ隣の国の姫でした。肖像画で見た、王子の政略結婚の相手です。王族の結婚というのは、戦略の駒の筆頭でした。


 それからは、恐ろしいほどの勢いで物事が進みました。王子としてはまだあまり気の乗らなかった縁談も、相手の姫が王子を助けたとあっては(ないがし)ろにすることは出来ません。姫本人も、どうやら王子を好いているようでした。


 けれど、王子の心には既にあの魚の姫が棲み着いていました。


 見たのは一度。会ったのはたった一度。しかも暗い海の中です。せめて一目……せめてもう一度……と、会いたくて堪らない気持ちがどんどん膨らんでいきます。


 王子は身体が回復したあと、海岸近くにある姫の別荘でしばらく過ごすことにしました。王子の自国に連絡したところ、王からもそのようにせよ、との返事でした。縁談相手の姫と交流を深めよと言っているのです。


 王子は海岸沿いを散歩するのが日課になりました。最初は一緒について来たがった姫も、身体の鍛練も兼ねての散歩は嫌気が差したのでしょう、すぐに辞退してきました。


 これは王子にとって、何よりの朗報でした。


 海岸の岩場の影、険しい岩々が並ぶ隙間に、追い求めた顔を見たからです。


 王子は駆け寄りました。危険な岩場を転ばずに駆けれたのは日頃の鍛練の賜物です。身を翻して海に入ろうとする姫の腕を捕らえました。


 この手です。


 白く美しく、冷たくて小さな手。顔を見ると、あの闇の中で見えた真っ赤な唇。


 ────逃げないで、怖がらないで。姫。


 王子は囁きます。捕らえた手は震えていました。害を与えることはしないと、ただただ会いたかったと、想いを込めて囁きました。


 腕に抱き締めた姫の顔を見つめると、魅力的な唇が何か形作ります。発せられた音声は、王子の耳では聴き取れないものでした。それは当たり前のことかもしれません。陸に生きるものと、海に生きるもの。両者は何もかもが違って当然でした。


 王子は姫の言葉が聴き取れなかったことに落胆しましたが、それでもこうして再び会えた喜びは大きいものでした。


 それからというもの、王子はこの岩場の影で魚の姫と会うようになりました。言葉は通じませんが、王子も姫も互いを想い合っていることは解りました。


 姫は美しい歌声を聴かせてくれます。岩場に腰を掛け、海の宝石を冠に戴き、細やかな鱗は複雑な光沢を放つ──魚の姫。総てが違和感なく調和し、人間では放ち得ない魅力をこれでもかと王子に魅せつけてきます。


 王子はその奇跡の瞬間を、潮騒と一緒に堪能しました。一瞬といえど、視線を外すことは出来ませんでした。


 けれど、王子には判っていました。


 決してこの美しい魚の姫と自分は結ばれることはないと──否、結ばれてはいけない……と。


 陸のものと、海のもの。相容れるはずがないのです。


 しばらく蜜月を過ごしたあと、魚の姫は王子の前から姿を消しました。王子は激しい焦燥に駆られながらも、この現実を受け入れるしかありませんでした。


 どんなに恋焦がれても、あの姫は魚の姫。人間の自分とは結ばれることはないのです。王子は姫に、政略結婚の相手が居ること、ここに滞在しているのも限りある日数でしかないこと、を伝えていました。言葉が通じないので意味を成さないことかもしれませんが、それが王子なりの誠意でした。


 惹かれ合っていても、愛し合っていても、越えてはならぬ一線があるのです。密かに涙を流す夜を幾晩も過ごしました。脳裏には姫の姿が描かれ、耳には遠い潮騒が姫の歌声を甦らせました。辛く苦しいけれど、出逢わなければ良かったとは思いません。心の奥深くに、大切に大切に暖めておく思い出にするのです。


 自分のこの思いはきっと姫にも伝わっている──そう考えていた王子は、自身の言葉は姫に届いていなかったことを思いしらされるのです。






 ────姫は。美しい魚の身体を持つ姫は。






 一体どんな魔法を使ったのか、人間の脚を手に入れて王子の前に現れたのです。


 それは、王子が自国へ帰る前の夜の晩餐会でのことでした。


 縁談を急かして進めようとする姫を、大切なことを性急を求めては良くないとやんわりと釘を差しつつ、まずは無事に自国へ戻ってからこの先のことを……などと宥めている時です。護衛騎士たちが(にわか)に騒ぎだしました。城に侵入者ありとの一報です。緊急事態に青褪める姫たちと、侵入者排除に向かう騎士たちとで晩餐会は騒然となりました。


 王子も騎士たちと一緒に騒ぎの元凶へ向かいました。そこに居たのは……


 真っ赤な唇を震わせて、白く冷たいはずの肌をドレスに包み、覚束おぼつかない足取りであちこちへと逃げる──()()()()()()()()だったのです。


 姫に似た誰かは、王子を見付けると嬉しそうな顔をして近付いてきました。警戒して剣を構える騎士たちを退かせます。混乱する場を、この姫は自分の知人だと押し切って、王子は自分に与えられている部屋に連れて行きました。


 王子の頭の中は疑問符で一杯です。どうやって人間の脚になったのか。あの魚の身体の中に脚があったのか。どうして一歩踏み出すごとにそんな痛そうな顔をするのか。あの美しい声が、どうしてそんな老婆みたいなしゃがれた声になってしまったのか。


 自身の思いは、何も伝わっていなかったのか。


 どれだけ尋ねても、姫はにこにこと微笑んでいるだけです。もちろん、王子は姫の覚悟を知りません。人間の王子を愛したがために、海を棄てたこと。千年以上生きていると云われている呪術師から、美しい声と美しい魚の身体を引き換えに人間の脚を手に入れたこと。本来の姿ではないのだから、一歩歩くだけで鋭い痛みが全身を貫くこと。


 愛しているからこそ、思い出を胸に離れようとした男。


 愛しているからこそ、今までの世界を棄てて一緒に居ようとする女。


 互いに確かに想い合っているはずなのに、思いは擦れ違ってしまいました。


 王子は、魚の姫の泳ぐ姿が好きでした。鱗が太陽に反射して、全身が光り輝くようでした。姫の伸びのある歌声が好きでした。海風の中、髪を靡かせて歌う姿は本当に綺麗だったのです。


 この姫は、海に棲んでいるからこその美しさを持っている姫でした。王子が愛した姫は、そういう姫だったのです。いつまでもいつまでも、海で、自分の居るべき場所で、本来の自分で過ごして欲しかったのです。本来の姿を歪ませてまで、自分の傍に居て欲しいとは思っていませんでした。


 王子が選んだのは、魚の姫が輝くことだったのです。


 姫はにこにこしたまま、王子の手を取りました。変わらない小さな手です。けれど、それはもう王子の知っている手ではありませんでした。


 何故か涙が溢れます。何かあった時のためにと、絶えず帯刀していた小さなナイフに手が伸びます。姫は目を見開きました。何かを考えていたわけではありません。一瞬で様々なことが頭を(よぎ)ります。自国のこと、この国のこと、自身の将来、姫の将来。縁談の行く末。


 帝王学を学んだ王子です。物心ついた時から忍耐と努力を強いられてきた王の後継者です。他者の前で涙を流して後先考えず行動するなどと、愚の骨頂です。それなのに──……


 愛していました。


 人間でない、そのままの魚の姫を愛しました。決して結ばれないと解った上で、自然に生きる姫との想いを胸に生きていこうと思いました。


 自身を歪ませてまで、一緒に生きたいとは思っていなかったのです。海に棲んでいる姫を求めていたのです。





 ────……冷たくなった姫の唇に、王子は唇を寄せました。






 冷たくなった姫に、温かい血が降り注ぎました。











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