『酔いどれ柘榴』は誰なのか? ゐるむつ SS
睦月は読み書きができない娘だった。
生を受けてこの方誰の手にも触れられず、長きに渡ってあの冷たい牢獄に囚われていたのだから当然と言えば当然だ。そもそも、とりわけ女子はそこまで識字率が高いわけでもない。
涼音屋に来て、睦月は俺と共に働くようになった。とは言っても、万全を期すためにお客様とはあまり直接触れあわない裏方業務ではある。食事前の食堂で配膳を行ったり、五十はある客室の床の間の模様替えをしたりしているようだ。睦月はあの細かい作業が好きなようで、いつも楽しそうに話してくれる。常に季節感を感じられる内容だから、睦月の心にとっても良い仕事だと思う。
だが、一方の俺は浴槽の掃除や薪割りなど体力が要る力仕事が多い。適材適所で仕事内容に不満はないけれど、睦月の仕事場とは遠く離れている。加えて仕事が仕事だけに休憩時間はまばらで、どうしても噛み合わない日はある。
睦月は一人きりの時間に何をしていいかわからないらしく、ただぼんやりと座っているだけだった。不慣れな自由を持て余している睦月を見て俺は悩んだ。余暇の使い方。女子だったら編み物とかなのだろうか。最初はそう思ったけれど、あいにく俺にはそのような器用さはない。次に、自分が一人きりの余暇を持った時を思い返してみると、本を読むのはそれなりに好きだということに気付いた。
だから俺は合間を縫って睦月に読み書きを教えるようになった。俺自身もそこまで学がある方ではないけれど、一応これでも役人の端くれなので基本的なことはできる。それに編み物だって読書ができるようになれば自分で学べるだろう。俺がそんな提案をすると、睦月も喜んで応じてくれた。
だが、実際にやってみるとわかるが、物を教えるというのは結構難しい。体術や剣術なら見よう見まねが効くけれど、座学となると教える側の工夫が大切だ。幼少期を思い返しながら睦月の前で文字を書き、共に発音する。就寝前の時間しか取れない日は、睦月の隣で本を一冊音読することにした。これが適切な教え方なのかは全くわからない。だが、そんな俺の下手な指導でも睦月は目を輝かせてついてきてくれたのは何よりも幸いなことだった。
さて三ヶ月ほどが経過したくらいには、睦月は平易な本なら一人で読み切れるようになった。休みの日には古本屋に立ち寄って本を選ぶのがもはや日課である。そこで購入した本を読んで、折り紙や編み物もするようになった睦月は作った物を時折俺に見せてくれる。
ここまで来たら、手取り足取りの指導は煩わしいだけだろうと思ったが、今でも睦月は本の音読をねだる時がある。その程度のことで睦月が喜んでくれるなら、俺に断る筋合いはないだろう。それに俺も睦月に物をねだられるのは嬉しいし、何より隣に座る睦月の暖かさが何物にも代え難い。
霧の帝都の文化に則って、クリスマスには蝶の形をしたガラス製の文鎮とステンドグラスのような装飾が施された栞を贈った。すると、睦月から渡されたのは、どこか不器用さの残る一本のマフラーだった。睦月はこの日のために手編みしてくれていたのだろう。
この話で終えてしまうと、なんだか俺が見返りを求める人間のように映るが、そんなつもりはないことは断っておきたい。
でも。睦月に読み書きを教えて良かった。それは本当に思っていることだ。
***
ある日の晩。旅館周辺の見回りを終えて、俺は睦月の部屋を訪れようとしていた。
軽く声をかけると反応が返ってきたので、階段を上って屋根裏部屋へ。月がちょうど天窓にすっぽり収まっている。睦月は寝台に腰掛けて、お待ちしてました、と言ってくれた。
その手元には一冊の本。
「睦月、何読んでたんだ?」
「『恋と青春の酔いどれ柘榴』です。この前の休日に古本屋さんで買った……ゐるさんがいらっしゃる前に、と読み直していたんですよ」
「……ああ、あれか」
俺自身は読んだことがないが、帝都の女学生の間で流行している恋愛小説らしい。睦月も読み直しているくらいだからよほど面白い内容なのだろう。
とても興味深かったです。睦月はその口角を上げながら話す。
「主人公は女学生の方で、とある殿方に恋されているのです。その方も主人公さんに尽くしてくれて、記念日も忘れずにお祝いしてくれる忠実な男性。それでいて霧の帝都の文化にも精通していて、お洒落な『かふぇえ』や『ばあ』に連れて行って下さるのですよ」
まあそれなりによくある恋愛小説である。男である自分から見るとそいつは若干鼻につく奴ではあるが、こういう小説の男というのは往々にしてそうだから仕方ない。女性の理想というのは高いのだ。
ですが、と睦月はそこで顔を曇らす。
「実はこの男性は多くの女性に手を出されている方で……主人公がご友人と楽しんでいた秘め話で出てくるそれぞれの想い人は、全て同一の男性の話だったのです。主人公を含めた女学生たちは学級裁判でその不実を解き明かし、その判決として女学校の窓から植木鉢を落として、その男性の頭をかち割るという……そんなお話でした」
「……へえ……」
女学生の趣味というのは存外残酷なのだというのはよくわかった。これが流行り本。頭部は守っていかなければならない。
「全て読み通して気付いたのですが、題名の『柘榴』というのは、この、最後に制裁を下された男性の……」
「睦月、わかった。それははっきり言わなくていい」
睦月の見識が広がることはいいことだし、俺に止める権利はない。
だが、それでもやっぱり俺は軽くため息をついて、睦月の隣に座る。自然とすり寄ってくる睦月はかわいいので、頭を撫でる。
「やっぱり、経験を積んでる男性というのは紳士的で、器用なのですね」
「まあ、そういうもんなんじゃないか……?」
周りにそういう奴はいないので、俺の返答も若干疑問系になる。そういう男というのは本当に実在するのだろうか。都心に行けばいるのかもしれない。
あの、と睦月が控えめに訊いてくる。
「それで私、気になったのですが」
「なんだ?」
「ゐるさんは、どういう恋愛遍歴をお持ちなのですか……?」
一瞬理解が停止して、謎の間が挟まる。
「えっ?」
「あ、いえ、お話されにくいことでしたら良いのです。そうですよね、こんなこと伺うなんて失礼ですし、はしたないですよね……」
だから無理されなくて良いのですよ……? と微笑む睦月。睫毛が長いのがよくわかる。だが、その奥ではガラス玉のような瞳がこちらを見ていた。
それ、どういう目なんだ。
俺は若干狼狽しながらも本当のことを答える。睦月に訊かれたからには誠実でいなければならない。
「俺、は、初恋もつい半年前にしたばかりだし、睦月と共にする時間が人生で何より楽しいし、他に身近な女性は姉くらいしか……あ、いや女性客の対応はしたことあるが、それは仕事のうちで……」
「へえ……」
「……同室の奴か、若旦那に訊いてみても良いぞ。同じことが返ってくるから」
「いえ、ゐるさんを疑っているわけではないのです」
睦月がそっと手を重ねてくる。心なしか、少し冷たい気がする。
「私は一度心に決めた『殿方に』植木鉢なんて……そんな、そんな……」
睦月が伏し目がちに微笑む。淡い月光と蝋燭の灯りで、肌の白さが際立つ。俺は少し目を泳がしてから、そうか、としか言うことができない。
読書を通じて、睦月は心が豊かになった。やっぱり、それに違いはないと思う。