雪の花と淡き陽光 ゐるむつ SS
嫌な場所だと、まず最初に思った。
「お待ちしておりました、夜淵様」
帝都警察の連中が白々しいほど頭を下げる。敬称と恭しい態度は卑賤なる者と距離を取るためで、当て付けみたいなものだ。
その日の仕事は取締りにあった組織の後始末だった。帝都のとある路地裏にその入り口はあった。巧妙に隠し通していたようだが、見つかってしまえば些細な戸口である。警官らの形式張った説明を聞きながら、ゐるは一瞥する。
戸口をくぐる。生者には足の踏み場などない惨状だった。彼らの後に続いて、ゐるも一礼してから土足で畳の上を歩く。つんと鼻をつく臭いにはすぐ慣れてしまった。黄ばんだ襖と色褪せた畳には赤黒い斑紋が未だにしがみついている。ずいぶんと暴れてくれたようだ。
ごろりと転がった「それら」は無造作に放置されている。惨いな、なんて自分が思う筋合いは残ってないのだろう。
とある組織の本拠地なりに広い屋敷だった。しばらく歩いた後に一番奥の座敷に着く。だから一見、それは押し入れのようだった。だが、誘導する若い警官がそれを開けると、階段が薄暗くその脚を伸ばしていた。地下へと続く階段、どうやら隠し部屋のようだ。
警官らがゐるの視界からはける。どうやら先に行けと言うことらしい。
足音が反響する。蒸せるような臭い。じっとりと水分を帯びた苔がその歩を邪魔する。
ああなんだか。嫌な種類のあれだ。きっと地獄に続く階段より、ここの方がずっと陰鬱としているだろう。
足元に階段はもうない。後ろの警官がカンテラに火を灯したらしい、視界が明るくなる。そこは天井の低い地下牢だった。その鉄格子は錆び付いて、カンテラの淡い光を反射する力も残ってない。
ゐるは腰に下げた日本刀を正していた。
人殺しじゃない、など言い逃れする気持ちもない。人の屍の上で飯を食べるのが、自分たち夜淵家の務め。
でも、せめてこの立場を驕るとするならば――運に見放された人々を、この世の苦しみから解放する、それが自分の仕事だ。
おい、と、警官が手前にあった鎖を引いて、牢の暗がりを呼びつける。錆び付いた鎖の音を引き連れて、暗がりが動いた。動き慣れていないのか、ゆらゆらとその影が陽炎のように揺らめく。
ゐるは吐いた息を、再び飲むことになる。
それは雪の花のような娘だった。
陽光を知らず、春の訪れを知らず、ただ曇天の空から静かに舞い落ちるひとひらの無垢な雪の粒。何も知らぬまま、小瓶に押し詰められて手酷く扱われた脆き雪人形のような娘。
その瞳は静かにこちらを映している。焦点が合っているのかもわからない。きっと長い間暗がりに押し込められていたためだろう。
囚人を手にかける前に、瞳を見るのは止めろと言われてきていた。そこに映し出されるのは、人の醜さと自分の弱さだけだから、と。
だが、ゐるは未だに、その癖が直せないでいた。
「――彼女の罪状は、なんですか」
警官が眉をひそめる。当然だ。自分は寸分狂わず日本刀を振るうだけの絡繰り。そのために生を授かり命を賭す一家の末裔。物申すほどの権利などない。
呪いですよ。上官らしき警官が言った。
「ひとつ触れれば四肢が痺れ、ふたつ触れれば心の臓が止まる。この組織の口封じに使われていたようだが……それにしても、『これ』は多くを殺しすぎた」
もはやその業は人ではない、と。きっと他人はそう言うのだろう。
嗚呼、でも。多く殺しすぎたというならば。
それはきっと、自分も同じ罪だろう。
少女は静かにその頭を垂れる。彼女自身の運命を辿るために。
だが、その首に宛てられたのは温かな手のひら。雪の娘は全身で陽光を受け止める。
「もし、この先、万一……彼女が、他の人間の生命を脅かした場合」
彼の喉を声が突く。――その紅き瞳が見据えるは目の前の警官どもか、それとも。
「私が……その責を、負いましょう」