2-5
フィートとの鍛錬も終わり、エリーシャは井戸で汗を流した後、真っすぐ家に帰ることにした。
家では母が晩御飯を作っているだろうから、早く戻って手伝いをしなければ。水に濡れた髪をタオルで拭いて、ふと遠くの山を見つめる。木々が揺れ、葉が音を鳴らしている。夕暮れ時の日差しは暖かく、鳥のさえずりはどこかもの悲しさを感じた。
子供の声はすでになく、村人の姿も見えなかった。畑や狩りに出ていた大人たちも、時期に戻ってくるだろう。 いつも通りの一日。いつも通りの終わり。
ああ、一つだけ、否一人だけいつもとは違うもの、出来事があった。
そのことを思い出したエリーシャは、足を止め長い溜息を吐いたのだった。
「何者なんだろう、あいつ」
突然現れた、傍若無人な旅人。輝いてみえた金色の髪に、見たことない質の高い服を着て、自分勝手に振るまう様は、この温厚な村に生きてきたエリーシャにとって、初めて見る生物と言ってよかった。
取り敢えず村へは招待したのだが、何か企みがあるのではとエリーシャは未だに訝しがっている。
この村の人以外の人間など、そもそも未知の生物である。第一印象は最悪。長旅大変ですね、なんて気遣いを忘れてしまうほどアルベルの態度は最低であった。
それでも出て行けなんて薄情な性格ではないエリーシャは、問題を起こさなければいいけれどと心配しながら今日を過ごしていた。
今のところ大きな騒ぎは起きていない。できればこのまま、大人しく村から出てくれることを願うばかりである。
「お帰りなさい、エリー」
「―――――げ」
エリーシャが家に帰ってリビングに顔を出すと、そこには例の旅人が椅子に腰を下して出迎えた。
「おい、人の顔を見て随分な態度だな」
言葉では言うが、あまり気にした様子もなく彼はテーブルに置かれたお茶に口をつける。
言動とは異なりその所作は優雅であった。
「何をしに来たのよあんた」
「お前、俺が今日ここに初めてきた旅の人間であることは知ってるな」
「ええ」
知ってるも何も、アルベルをこの村へ案内したのはエリーシャである。
生前のことは知らないが、少なくとも物心ついて以来、こんな人間がこの村へやってきた記憶もない。
「そして、この村には宿もない」
「そうね。それも知ってるわ」
「だからこの家に泊まることにした」
「それはわからない」
エリーシャは木剣を壁に立てかけ、テーブルを挟んだ彼の正面の椅子へ座る。
睨むような彼女の視線にも、アルベルは全く動じた様子はなかった。
「私が誘ったのよ。折角のお客様を外で寝かせるわけにもいかないでしょう」
台所からエリーシャの母、ナツが顔を見せた。
エプロン姿が似合う自慢の母親である。いつも優しい母であるが、怒らせると世界で一番恐ろしいこともよく知っている。
エリーシャは彼女に対して強気に出ることは決してできなかった。
「そうだけど…、こんな偉そうな態度のやつを家に泊めるなんて絶対大変よ」
「エリー、そんなこと言わないの。お客様に失礼ですよ」
「そうだぞ、大人しく謝ったらどうだ」
「いいからあんたは黙ってて」
うるさい外野を手で制して黙らせる。ただでさえ、鍛錬で疲れているのだ。この男の相手をする体力は今はない。
「いいですか、エリー。困っている人がいるのなら、助けるのです。ずっと教えてきたことでしょう。
その対象を気に入る、気に入らないで判断してはいけません」
お玉を持って、母親らしく子供を叱る。
アルベルはそんな光景を見て、自身の母を思い浮かべたが、怒られた時は圧倒的暴力を振るわれた記憶しかなく、苦笑いを浮かべた。
「でもさ」
「でもさ、じゃありません。まだ、何か迷惑を掛けられたわけではないのでしょう?
アルベルさんはこの村の、そしてこの家のお客様です。お母さんが決めたのです」
「むむむ」
何も言い返せず、ただ頬を膨らめせてアルベルを睨みつける。
その姿をみて、アルベルは鼻で笑うだけだった。
「好きなだけ泊まってくれて構いませんからね」
「ああ、悪いな。長居する予定ではないが、世話になる」
「はい。エリーも、失礼のないようにね」
「…はい」
ナツは困ったように笑って、台所へ戻る。
エリーシャは未だ納得していない様子でその後ろ姿を見送って、アルベルへ視線を向けた。この村の素朴さとは不釣り合いなその姿に、エリーシャはどうも受け入れがたさを感じてしまう。
「この家で絶対に変なことはしないでよ」
「変なこととはなんだ?」
「物をわざと壊したり、お金を盗んだりとか」
ここで性的暴行の言葉がでないあたり、彼女の純粋さが伺えたが、アルベルも当然そんなことは考えてすらいない。少し不愉快な態度でエリーシャに答えた。
「俺を誰だと思っている。そんな盗人のようなことをするかよ」
「その言葉を信頼する要素がないから言ってるのよ」
「そうか。無駄だとは思うが、まあ気にするのはお前の勝手だな」
アルベルは無駄に悠然とした態度でお茶を飲む。
アルベルは誇りある貴族であり、庶民のものを奪うようなことは絶対にしないのであるが、それを他人が納得するのかは別の問題である。
「あと、家や村の中を無駄に歩き回るのもやめて」
「俺は旅人だぞ。個性を殺す気か」
「村の人たちが不安になるからよ。何をしなくても、あんたみたいなやつがうろついてたら、気になるものなのよ。
村を歩き回るのなら、せめて私を連れていって」
「お前に何の権限がある。面倒だ。却下する」
「この家に泊めてあげているでしょう。無料で、しかもご飯付き。
街ではこんなことは当たり前なの? 恩を返さないことも?」
「…なるほど。確かに恩は返さないとな。
村に出るときはお前を誘おう。それでいいか?」
「え、うん」
あまりにあっけない了承に、エリーシャは面食らう。この自分勝手な人間が、恩義なんて考えているとは思っていなかった。
「お前が家にいなかったら、自由に家を出ていいのか」
「ダメに決まってるでしょ。私が家にいなかったら、戻ってくるまでは部屋で大人しくしてて」
せめて明日までは。この村には平穏なままでいてほしいのだ。
最後の1日をこんな男と過ごすのは本当に最悪だが、これも運命と思って諦めよう。
「自分勝手な女だ」
「あんたに言われたくはないわよ」
本当に相手をするのに疲れる男だ。フィートより年上とは思えない。
大人ではなく、手のかかる弟のような感覚だ。
「じゃあ、3分後に出るぞ」
「え?」
「え、じゃない3分後に散歩に行く。暇だからな」
「いやよ」
「おい、なんだそれは」
「さっきまで体を動かしてたから疲れてるのよ。散歩ならせめて、晩御飯を食べた後にして」
「仕方がないな」
アルベルはエリーシャの言葉に、呻いた後残念そうに項垂れた。
疲れているならしょうがない。無理に子供を連れ出すほど、アルベルも残酷ではないのである。
「じゃあ、私はお母さんの手伝いをしてくるから大人しくしているように。
くれぐれも、問題は起こさないでね」
「俺は子供か。黙ってさっさと手伝ってこい」
しっしっ、とアルベルに手で払われる。
エリーシャは心配そうな表情のまま、台所へ向かった。