視察でも女装 5
この世界の夜は気象条件が揃えば、淡い緑色に発光した月のような星が見られる。
その明るさは想像以上のもので、見通しの良い平原では松明を持たなくても進むことが出来る程だ。
今夜は随分と天気も良く、乾いた空気の為星が良く見える。
疾駆する馬上で、そんなことを悠長に考えていると件の彼女が口を開いた。
「お嬢様、休憩は必要ありませんか?」
「ちょっと身体が痛むだけよ、大丈夫」
「無理はなさらないで下さい。本当なら、アーカスに戻りたいのですが……」
今や十騎の兵が護衛として同行し、再び視察地へと向かいつつあった。
結局、リーアが察知した音の正体は巡行する警備隊員で、ノーシア山脈方面からやってきたと言う。
そして、その一騎は北上していた執事長で彼もまた、どこか釈然としない顔をしていた。
「何故戻らない?」
俺の素朴な疑問に、リーアも困ったように溜息を吐くと声を潜めた。
「例の闇商の件で、通行証の問題は片付いたと言うのが警備隊の見解でして……。それに、あの鎧を見た者が私たちだけで、彼らにそれを言っても取り合ってもらえるか分かりません」
「あの宿舎の惨状は?」
「それも執事長が先に警備隊員と確認をしたようですが……」
「……?」
「死体どころか、血痕一つ残っていない奇妙な状況だったそうです」
俺は一つの可能性を思い浮かべていた。
いや、俺だけでなくリーアも同じことを考えただろう。
魔法だ。
「どちらにしても普通の事態ではないのに、どうして態々現場を通ってまで北に向かうんだ?」
「執事長と二人でそのことを再三確認したのですが、どうにも要領を得ない回答しかなく……。確かに通行証を始めとする、各種手続き上の問題が生じる恐れがあるので無暗に引き返すのも気は引けますので」
「もやもやするな……魔法のことが気軽に言えれば進まずに済むのに」
そして更に不可解なのは、この夜間の時間でも北上を強行していることだ。
聞けばそれも宿営の装備が無いとか、星の明度が高いので夜間行軍も問題無いといった実に身勝手で不自然な言い訳めいた言い分以上の言葉がないと言う。
これらを無視して一日目の宿舎へ戻ることも視野に入れていたが、その場合は彼らは同行しないと言う上に宿泊の権利は認められないとまで言い添えられてしまった。
「……お嬢様へのご迷惑と身体の安全を両立することを考えますと、取り敢えず従っておく他なく……。申し訳ございません……」
「リーアは悪くないさ。それより、こいつらにも注意が必要だな」
「執事長も事態を知らないので、後で説明しておきます」
こそこそと話をしていると、斜め後方を走る執事長の馬が自然な加速で追い着き、瞬く間に俺たちと横並びになった。
「リーア。他の供の者はどうなっている?一人は馬の下敷きとなって死んでいたが……」
普段から厳つい顔付きだが、今は一層その色を強めている。
どこか焦燥が混じっているのが見て取れ、状況の全貌が見えずに困惑しているようだった。
「曲者の襲撃がありました。一日目の宿舎に恐らく二人生き残りが居るでしょうが、残りは死にました」
「だが、あの宿舎に死体は一つも無かったぞ。争ったような跡も、何もかも……」
自分でそう言いながら、今にも頭を抱え出しそうだった。
「では彼らは寒さに耐えかねてアーカスに戻ったとお考えですか?」
「いや……」
「ともかく、私としましてはお嬢様の身辺の警護を怠ってはならないと考えますので、ここからは一時もお嬢様から私を引き離さないようご配慮をお願いします」
どちらの立場が上なのか分からない遣り取りに普段の執事長ならお冠の筈だが、案外こう言った事態には慣れていないのだろうか、一切リーアの言葉を否定せずに鵜呑みにした。
よく見てみれば、周囲の一般の隊員も不安げで浮かない表情をしている。
問題の隊長は先頭を務めており、一切速度を緩めることなく馬の快足を存分に発揮させていた。
急な出撃だったようで、彼らの士気は低い。
「あの……良ければ、自分が小休止を進言して来ましょうか」
「お願い出来ますか」
不信感や閉塞感の漂う空気に耐えかねたか、一人の隊員がリーアにそう声を掛けるとこれを快諾。
間髪入れずに隊員が隊長に近付くが、その手振りは明らかに拒絶を示していた。
隊員を追い払うようにした後、一瞬だけだが隊長が視線を後ろ、即ち俺とリーアの方へ向けた。
明らかに不機嫌で、面倒事を言うなと言わんばかりに睨み付けられるも、リーアはどこ吹く風と言った様子で手綱を握る。
「すいません、自分の力不足で……やはり帰投するまでこのままと言うことです……」
「そうですか、残念です」
全く残念さを感じない返事をすると、リーアがより俺に身体を密着させた。
「……お嬢様、今から眠くなると思いますが、抗わずにどうぞお眠り下さい」
思わず振り返り、説明を求めようとしても彼女は小さく微笑むだけ。
「気軽に使ってる、ってことにならないのかよ」
「この先のことを踏まえた上で、必要と考えたからです。一睡もせずにまたあのような襲撃があってはいけませんから」
「……分かった」
実のところ、気絶をしていたとは言え既に夜は深まり普段の生活であればとっくに夢の世界に居る時間帯だ。
それを長時間強い緊張状態を強いられ、今も安穏とは程遠く馬上で疲労と睡魔が俺の中で鎌首をもたげている。
嫌でも寝ておかなくては、明日以降の行動に支障を来すのは明白だ。
その点実にリーアの心遣いは細やかで、安心感を得られる。
「おやすみなさい」
不意に遠退く意識の中で彼女の優し気な声が聞こえた、その刹那だった。
「貴様か、薄汚い血族の末裔は」
まるで耳元で囁かれたようなその言葉は、心臓を鷲掴みされたかのような衝撃と驚きを与えた。
半分だけ開いたままの眼で必死にその声の主を探すと、執事長とは逆側の側面を並走する隊員の顔が在った。
若い男の筈なのに、その声音は不自然に重く低い。
「私の作品と交戦して生き延びられる者はそう多くない。殊に一矢報いられる者はさらに限られる」
「ッ!」
若い隊員が、手を此方に翳すような仕草を見せると、リーアの手綱を操るリズムが変わった。
距離を取ろうとするが横には執事長が居るため、速度を上げて隊列の前方へと躍り出ようとする。
隊員たちはそれを特に阻害するような動きを見せなかったが、隊長は明らかに敵意を以て進路を塞ごうとした。
「このっ、売国奴め!」
悔しさを込めた罵倒も無視し、馬を真正面に着けられ万事休すかと思いきや、サッと執事長が腰の剣を抜いて大外から鋭く切り込む。
後ろに気を取られ抜剣が遅れた隊長は身を捩って躱そうとするが、距離が十分に詰まっていたため剣先がしっかりとその身体を切り裂いた。
「っがぁぁぁ!」
悲鳴を上げて尚、馬の位置をずらさないため、もう一撃執事長が加えようと剣を振り上げようとしたところ、その剣が宙を舞った。
余りに不自然な現象に唖然とする執事長の視線の先にはあの若い隊員。
リーアも後方に注意を向けながら、必死に進路を確保しようと馬を走らせる。
「ふっふっははは、そう慌てて逃げずともすぐに殺しはしない。少し話をしようじゃないか、剣や暴力は不要だ」
「黙れ!」
「主人想いなのは見上げたものだが、私の意志一つでその主人が死ぬことになるぞ?」
あの鎧を生み出した存在であることを仄めかし、男は交渉を迫った。
武器を失った執事長も成り行きを見守ることに徹する様子で、リーアも苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ言葉を失った。
どうにも判断をしかねる様子で固まってしまい、俺は諦めたようにリーアの手を握った。
「言うことを聞く他無さそうだし、指示に従おう。それとも……振り切れそう?」
「……申し訳ございません」
謝罪の言葉を口にしたリーアはゆっくりと手綱を握り直し、少し馬の脚を緩ませ男と並走するところまで後退する。
男は満足げに頷くと
「馬を止めよう、彼の治療もしたいからな。総員、止まーれー!」
隊列に下知し、下馬するとすぐさま隊長の下へ駆け寄った。
傷は見た目以上に深く、出血が止まらない程であった。
苦しげに呻き冷気で吐息が白い中でも、多量の脂汗を浮かべている。
「小芝居に付き合わせて悪かった。よもや貴族の私兵が、ここまで強硬手段に訴えるとは流石の私でも予想していなかったのでな」
それは俺たちに向けてなのか、治療を受ける隊長を始めとする隊員たちに向けたものなのかは分からない。
そもそも、心からそう思っているようには取れなかった。
「それで、君たちは海運に携わる家の者であって採掘には手を広げていない筈だが……何故ノーシアを目指す?」
「将来的な展望を踏まえた上で、知見を深めるためです」
それを聞いているのかいないのか、男が隊長に指先を向けると、傷口周辺が微かな赤光を帯びてやがて、消えた。
たった数秒のことであったが、隊長の乱れた呼吸に落ち着きが戻り出す。
魔法を使用したことはすぐに分かったが、魔法には疎い執事長は元よりリーアですら僅かに目を瞠っている辺り、相当に高等な術なのだということが理解できる。
リーアの答えに男はどこまで興味を持ったのだろうか、作業を終えてゆっくりと視線を巡らせてからポツリと口を開いた。
「物見遊山……或いは政治的な布石か。まあ何れにしても……」
その焦点を俺、そしてリーアの順に合わせた。
「もう交錯し、容易には解けないところまで来てしまっている。君らにしても嫌でも巻き込まれることは明白。どうだ、我らと手を取り合わないか」
「今そのように申し出るのなら、襲撃をせずとも良かったのでは?」
「ふふ……順序が逆転しているのは単純に、君らが私に抗えるとは思っていなかったからだ。このような辺境、いくら帝國領内とは言え直接的な影響力が海を隔てた分薄くなる以上、不慮の事故で死亡と言うのは有り触れているが、逆に言えばそれだけ当たり前に受け止められると言うこと」
そう言いながら浮かべた笑みは邪悪さを湛え、好意を一切感じさせなかった。
「しかし、同族たる君を端から排除していては来る時に困りかねない。どうだ、そこのお嬢さんを担保にするのも忍びないことだし、ここは素直に頷いてはくれないかね」
「頷くも何も、目的の欠片も知らないようでは判断のしようもありません」
「目的……そうだな。君たちはこのノーシア山脈の果てを御存知かな?」
俺たちは顔を見合わせ、代表するように執事長が口を開いた。
「北方は峻厳な山脈が連なるばかりで、その果ては海すらも凍る凍土が続いている。人間を含めた全ての生物が暮らすことの出来ない、国際的にはどの国の領土でもないというのが一般的な解釈だ」
「実に、後世的な見識だな、見事だ」
態とらしく手を叩きながら称賛する男は、星の淡い光の下に右腕の手袋を脱ぎ去り晒した。
「ところで君は、先程の私の魔法に面白い程驚いていたが……自らが教わってきたことと、実際に目にしたことの一体どちらを本当だと信じる?」
指を指された執事長は言葉を詰まらせ、一歩後退る。
目を細めながらその指先を、次は俺に合わせると妖しく嗤った。
「お嬢さん、君は少なからず魔法が実在しその行使が可能であることを驚いてはいなかった。では、これも魔法であり、現実であることが受け入れられるか?」
瞬間、男の指先に小さな光が灯った。
蝋燭と変わらぬ程度の大きさで、明るさも相違がない。
だが、その場の全員が殆ど同じ面相で硬直していた。
「て、て、て…………」
隊員の一人が定まらない視点のままで、震える声を絞り出した。
俺は一瞬男の肌が露出している手首から先が、急激に痩せたように見えた。
だが、その様子は全くの間違いでぼんやりとした光に映し出されたのは、乳白色に若干の紅が付着した『骨』だった。
まるで人体模型のようで現実感が無い。
だが、目の前で小刻みに指先を折ったりする様は、確かに男の意志で動いている『手』そのものだ。
「隊員諸君は見たことが無いのかね、人間の骨を」
滑らかに指先を曲げ伸ばしする光景に生理的な嫌悪を覚えつつ、意識が遠退く感覚に耐えていると、最も耐性があると思われるリーアが俺の盾となるように前に立ち位置を変えた。
「亡霊め……その悍ましい姿をお嬢様の前に晒すとは!」
「はっははは、やはり知っていたか。益々、君を此方に引き入れたくなったな」
炎を掴んで消すような仕草を行うと、その右手は周囲の人間と同じように皮膚があり、厚みと柔らかさを感じさせた。
「お嬢さん、この子は幾らなら譲ってくれる?金が気に入らなければ物でも地位でも良い、望むものを遠慮なく言ってくれ」
「馬鹿なことを……」
思いの外震える声でその要求を突っぱねる。
油断すれば、今でも胃液が逆流しそうな感覚を我慢するのに精神力を割かれ、俺は既にいっぱいいっぱいだ。
それでも許せないこと、譲れないことはハッキリとさせなければならない。
「お嬢さん、口にする言葉一つですぐ先の未来にも大きな分岐が訪れることもある。よく考えてから喋った方が良い」
「お嬢様は既にお答えになった。もう良いでしょう、貴方はここで私がきっちりと始末します」
完全にリーアが男から俺に注がれる視線を遮ると、臨戦態勢に入った。
体勢から何が変わった訳ではないが、最早言葉を交わそうとはせず意図的に最後通牒として強い言葉をぶつけたことから、一触即発の状態に突入したことが理解出来た。
どうすればリーアの助けとなれるか。
そう考え始めたところで、男が徐に右手を小さく挙げた。