視察でも女装 1
勅使メリトアンネの帰国と父親たちの出国を見届けた後、リーアの主導にて慌ただしく準備が始まった。
アーカス北部、通称ノーシア山脈山麓部への視察が決定されると、すぐさま父親名義の申請が発行され開発当局であるアーカス総督府に届け出がされた。
通常であれば審査の手順の煩雑さがあることや危険性を考慮し、許可が下りるとしても数ヵ月要すると聞いて居たものの、何の力が働いたのか数日後には審査が終了すると聞かされた。
そして俺はと言うと、十日余りの外泊となるため衣服や各種物品の購入のため商人を呼び寄せ、あれやこれやと指差して買い物をしていた。
それだけ聞けば何ともない寧ろ楽な作業かと思われるだろうが、一着の服を選ぶだけでも商人のセールストークが止まらず、また同席するリーアの差し込むようなアドバイスと言う名の圧力に挟まれへとへとになってしまった。
そんな日が三日も過ぎ、大半の物品を買い揃えた夜、いつも通り食卓に着くとリーアも同じように席に着いていた。
「……あの、リーアさん、今日のご飯はどこでしょう?」
夕方までの買い物で疲れていたのか、全く支度をする様子もなくずっとリビングでボーっと過ごしている。
日が落ちる頃に室内灯であるランタンに火を灯す以外、特に席を動くことがない。
「あー、大丈夫です、いつでも食べられますよ」
「えっと、特に準備してた様子は特に……あ、本館に行くのかな」
俺は数日前の朝食会以降、黒色のチョーカーを常に巻いている。
どういう訳か、このチョーカーを巻いている間は普通に話すだけで女性の声が発せられるのだ。
そのお陰で、屋敷の内外を問わず普通に話すことが出来るようになった。
これでリーアに頼むことなく、本館や別館に顔を出して用事やお願いをするようになり、何処か居辛かった空間にも足を踏み入れやすくもなり万々歳だ。
「いえ、ここにあります」
そう言いながら足元を探るような仕草を見せると、やおら机の上に何かを置いた。
「この、うーん、その、茶色い固形の物体は……?」
「干肉です。色は漬け込んだ調味料の色ですので問題ありません」
「ほう……?」
乾き物は基本的に裕福な層が口にする機会は少ない。
各種食材は新鮮なものを取り揃えそれを材料にした料理が基本のため、保存食はそれらの食材に手が届かない貧困層の主食と認識されている。
ただし、高級な食材を態と加工した酒肴などに用いられる乾き物も存在する。
「初めて見たが……どれ」
予想よりも水気がある歯ざわりだが、何より特筆すべきはその味の濃さだった。
一口で口内が塩分や凝縮された旨味で一杯となり、すぐに水気が欲しくなる。
「どうぞ、お水です」
「っ、っ、ぷはー。すまん、助かった」
「最悪の場合、視察先ではそれを齧りながら一日中歩いて逃げ回ることになりますので、その予行練習です」
「……冗談だよな?」
「はい。視察先では軍の上級士官臨時宿泊舎を借用する予定なので、調理は出来ると思いますのでご安心を」
そう言いながら、リーアも自分の分と思しき干肉を齧る。
何故だかその仕草がやけに様になっているように見えるのは、気のせいだろうか。
「それなら良いけど、偶にはこういうのも悪くないかも」
「では簡単ではありますけど、これを使ったサラダを作りますので少しお待ちを」
「うーい。ところで、向こうのスケジュールとかってどうなってんだ?」
「ああ説明していませんでしたね。主に現場視察ということで坑道入り口付近まで近づきまして、現場責任者や警備担当者と対話になります。そこで、産出されている鉱物の詳細やその産出量などを聞いて、あとは報告書を作成しまして後日当主様に報告して終わりですね」
「それだけで十日も……?」
「移動日を含んでの計算ですので、その程度になるかと。往復に六日、三日の視察に予備日が一日の配分です」
「観光もするってことか」
その時、リーアの目に怪しい光が宿った。
「こちら、サラダです」
「ありがとう……で、何を観たいんだ?」
「向こうは向こうで、小規模ながら歓楽街があると聞きます。……現地の様子を知るにはもってこいだと思うのですが、どうでしょう」
実はリーアに対して黙認していることがある。
帝國では青少年育成の目的で飲酒に年齢制限が設けられていて、十八歳以下は飲酒禁止であり最悪罰金や罰則が執行される。
リーアは十七歳であるが、密かに屋敷のキッチンスペースの収納スペースの一角には帝國本国で生産されている酒がストックされており、夜な夜な飲酒をしていた。
初めてそれを見付けてしまったのは、二年前のこと。
夜間に催してしまいトイレへ向かおうとした時、従者部屋であるリーアの居室からガラスの触れ合う甲高い音を聞いた。
興味本位でその音の正体が何なのか、もし美味しいジュースでも隠れて飲んでいたのなら……と思いながら覗いてみると、見覚えのない色の濃い瓶と、同じように色の濃い液体の入ったグラスが目に飛び込んだ。
そして、頬を赤らめながら強張った顔をしたリーアが押し黙って床に座っていた。
グラスの中の液体を呷って、空になればまた液体を注いでじっと押し黙る。
その繰り返しだけだが、異様な雰囲気を醸す彼女を俺は怖いと思ってしまった。
それが酒だと確信したのは、翌日のリーアの吐息が晩餐会などでよく臭う酒気と同じだと気付いたことによるが、見てはいけないものを見たような気がしてしまい、指摘出来ずここまでやってきてしまった。
「……まあ、美味い飯とかあるかもしれんしな」
良心の呵責、と言うほど立派なものではないが、そこに突っ込んでしまえばリーアの深い部分へ踏み入ることになる予感があるだけに濁したような答えになってしまう。
普段は飄々としている彼女でも抑圧しているものがあり、その解放には酒が必要だと言う図式が成立しているのなら、酒を取り上げてしまえばどうなるのか。
いや、取り上げずともそれを咎めるというだけでもどんな変化を齎すのか。
俺は怯えていた。
彼女の奥底に在る仄暗い何かに。
「北方は地質がこの一帯よりも豊穣なので農作も盛んな土壌はあるものの、気候そのものは寒冷なので育つ作物も限られているんですよ。宜しければ、出発前に郷土料理なんかもお調べしましょうか?」
「あ、ああ、頼む」
「……」
「な、何だよ?」
「ご主人様は、地酒なんかに興味はありませんか?」
ドキリと心臓が跳ねた。
「いや……あんまり」
「そうですか。当主様へのお土産にどうかと思うのですが……」
「ま、まあ現地に行ってから考えれば良いんじゃないかな」
サラダにフォークを突き刺し口に運ぶと、新鮮な葉物の水気と干肉の塩気が混ざり合い丁度良い塩梅となっていた。
ドレッシング等は使っていないようで瑞々しい。
「さて、もうすぐ許可も下りるでしょうし、足の手配も再度確認しておかないといけませんね。今から少しだけ本館に行って来ますね」
「え、もう日も落ちてるけど……明日で良くないか?」
ふと、キッチン奥の収納スペースを思い出す。
一週間前の酒の残量は、かなり少なくなっていたように感じた。
そして、この数日は随分と忙しく常に俺に引っ付いていたため、落ち着く間も無く酒を補充するタイミングも無かった筈だ。
あくまで予測だが、何かの予定にかこつけて酒を本館から運び込みたいのだろう。
「……いえ、やはり確認しておきます。ご主人様にはお茶を淹れますのでごゆるりと寛いでいて下さい」
「あ……」
さっさと席を立ったリーアは、有無を言わさぬ態度で部屋を出ると、その足で玄関から出て行ってしまった。
すかさず、収納スペースに足を運んで中身を確認する。
「……やっぱり」
酒瓶は、全て空だった。
見事に一滴も残ってはいないため、どうしても今日中に新しい酒を仕入れたかったのだろう。
酒に頼らなければならない程、追い詰められているのだとしたら、一応距離の近しい俺が何か出来るのではないだろうか。
特に、今回のメリトアンネの件は彼女のお陰で助かったのだ。
「うむ……その為には……」
見た目よりも重量感のあるガラス瓶をに持ち上げ、栓を抜くとアルコールの強い香りが鼻腔を満たした。
しかし何処かクセのあるすえた匂いも混じっているところを見るに、それが特徴の名産なのかもしれない。
とにかく、リーアを理解するにあたってまずは少しでも酒が飲める方が良い筈だ。
早速一口舐めてみよう、と指先に一滴垂らす。
一層匂いが強くなったが我慢して舐めようと舌を出す。
「――ご主人様っ!」
と、悲鳴のような声が背後から聞こえた。
思わず振り返ると、焦燥を露わにしたリーアの姿がそこにはあった。
「は、早いな。いや、早すぎる……」
「ついでに不足している食材も注文を出そうと思って、出たところで戻ったんです……」
「……そうか」
「あの、それ……」
「ああ、このお酒……」
俺の発した酒という単語にリーアは激しく動揺し、やがて観念したように力なく頭を垂れた。
「申し訳、ございませんでした……帝國法令を知らないわけでは無かったのですが……」
「えっと、それは俺も知りながら指摘しなかったので……責められないかなって」
「え…………その、知りながらって……」
「俺、何年も前からリーアが深夜にこうしてたのは知っててさ。でも、何か、言い難くて……ごめん」
このカミングアウトも堪えたらしく、片膝を着く。
「はーそうなん、ですね、そうなんです、か……」
「お、おい」
「…………ご主人様」
「は、はい」
頭を上げたリーアは、涙を流していた。
初めて見る彼女の表情に俺は呆気に取られてしまい、上下関係も思わず忘れてしまっていることにも気付かなかった。
「どうか!見捨てないで下さ”い”」
「うおおぉぉ……」
足早にやって来て足元に縋りつき号泣するイケメン美女。
正直、どう扱うのが正解なのか分からず俺は途方に暮れるしかなく、結局彼女が自然に泣き止むのを待つほかなかった。
「もう大丈夫、です……」
「そうか、ええと、これ使って」
ハンカチを取り出して渡す。
そういえば俺はハンカチを自分で使ったことがないので、清潔さは折り紙付きなのではないだろうか。
などと下らない事を考えていると、リーアが豪快に洟を啜った。
「水音で美人が台無しだな……」
「え、美人……」
思わず零れ落ちた言葉に俺は内心、「しまった」と舌打ちをしたものの、彼女は随分都合の良い部分だけを拾い上げたようで、固まっている。
「じゃなくて、俺はだな」
「あ……あの、ちょっとだけ心の準備を、させて下さい……」
「わ、悪い……じゃあ、終わったら声掛けてくれ」
足元で蹲るリーアはパパっと居住まいを正し、呼吸を整えゆっくりと立ち上がる。
目線を遭わせず、ゆっくりとリビングの方へ向かいそのまま室内をゆっくりと一周歩く。
壁や調度品を、まるで歴史的価値のある貴重な展示品を懐かしむように眺める。
やがて、意を決して俺の前にやって来ると、一礼をした。
それが、彼女なりの心の準備の完了を告げるものだということはすぐに理解出来た。
「……なんか、もう全部終わりみたいな顔してるけど」
「はい。ご主人様を欺き、帝國貴族の家中の末席にありながらその良識に背く行いを隠匿していましたので、当然の報いだと思います」
「別にどうこうするつもりはないんだけど……」
「今日限りで職を辞して――え?」
「寧ろ、そうならないといけなかった事に気付かなかった俺の責任かなって……。だからさ、俺もリーアが飲んでる酒を飲めるようになれば、少しは腹割って話せるかなと思って」
悟ったような顔がみるみるうちに困惑へと変わり、やがて呆れ顔に落ち着く。
「ご主人様、飲酒は駄目です。晩餐会でも十八歳以下の飲酒はしない、させないが不文律なのは、理解されてますよね?」
「いや、だからさ、俺もそこは監督者として同罪かなって……」
「……何を言っているんですか……」
「それにさ、勅使の件もリーアの助けが無かったら今頃どうなってたかなって思ったら、寧ろ俺が助けてもらわないと立ち行かないかなって」
「それは……」
「難しいことは抜きにしてさ、俺が傍に居て助けて欲しいからこれからもよろしくってことじゃダメかな?」
数秒の逡巡の後、リーアはまたしても溜息を吐いた。
「分かりました。ただし、お酒は私が見ているところで少しだけ、ですよ?」
「何だ結局飲むのか」
「……ダメ、ですか?」
不安そうな上目遣いは、男として揺さぶられるものがあった。
計算や打算であったとしてもグッと来てしまうのは、最早仕方がないものだろう。
「まあ、俺が見てるところなら……」
「はい、かしこまりました」
「全く……ほどほどにしておいてくれよな」
「分かってます。今度も繁華街や地酒も視察しないといけませんし、一緒に頑張りましょう」
すっかり声を弾ませる彼女を叱る気も無くなった俺は、本館へ喜々として酒を取りに行った彼女の背を見送り、見よう見まねの干肉サラダを作り始めたのであった。
夜は、まだまだ長い。