恋の風
部屋にアコースティックギターの音が響く。
ソファーに座りながら、何も考えずに、好きな音を鳴らすのが好きだ。
職もなく、親からの仕送りでこんな生活を続けている僕を人々は世間に蔓延る言葉を使って僕を嘲笑うだろう。
でも、そんな僕を笑わない人がいた。
隣の部屋で暮らしている女性だ。
時々、僕の部屋に来ては、僕の歌を聴いて、僕に小さな幸せをくれる。
一度だけ彼女にこんな質問をしたことがある。
「どうして僕の歌を聴いてくれるんですか?」と。
彼女から返ってきた答えはこうだった。
「完璧じゃないからです。完璧な歌じゃないから聴くのが楽しいです。」
そんな事を思い出して、僕は思わず呟いた。
「完璧じゃない……か。」
すると、インターフォンが鳴った。
こんな平日のこの時間から尋ねてくるのは一人しかいない。
僕はひねくれた僕の心のようなドアを開いた。
「また聴きにきちゃいました。」
彼女は小さく笑って言った。
「バイトは?」と僕が聞くと、彼女は「休みです。」と答えた。
彼女は大学生で、バイトをしながら自分で生活をやり繰りしているらしい。
彼女はキッチンに無造作に置かれたビールの空き缶を見て、「駄目ですよ。お酒ばっか飲んでちゃ。」と僕に言ったので、僕は小さく「気をつけます。」と答えた。
僕はソファーに座り、アコースティックギターを手に取った。
彼女がさりげなく隣に座って来たので、小さな小さな電流が身体中に走った。
とりあえず、最近聴いているシンガーソングライターの曲を弾いた。
女性の歌なので自分が歌っても似合わない気がしたけど、それでも一生懸命歌った。
「うん。凄くいいですね。」
彼女はいつも通りの感想を口にした。
僕は聞いてみた。
「まだ完璧じゃない?」
彼女は驚いて目を丸くしてから、小さく笑って答えた。
「前にも言いましたよ?完璧じゃないから好きなんです。あなたの歌が。あなた自身が完璧じゃないから好きなんです。」
「そっか…。」
完全には理解出来なかったが、僕は理解したふりをした。
すると突然彼女はこう言った。
「話してください。あなたのこと。ちゃんと聞きますから。」
僕は聞き返す。
「僕のこと?」
彼女は真剣な目で僕を見て言う。
「そうです。あなたのことが聞きたい。」
僕は一瞬悩んだがすぐに話し始めた。
「僕は小さい頃から何一つ上手く行きませんでした。習い事もいっぱいしたけど続いたのはギターだけで、他はすぐにやめてしまいました。バイトや学校もそうです。人と関わるのが怖くてあの街から逃げ出してここに来ました。誰も僕のことを知らない街に来たかったんです。そこであなたに出会いました。あなたはこんな僕の存在に気づいてくれました。凄く嬉しかったです。この先何をすればいいか、どう生きればいいかとても不安なんです。不安なんですけど、あなたと居るとそんなことを忘れちゃうんです。」
それを聞いた彼女はクスッと笑ってこう言った。
「私と同じですね。」
僕は思わず聞き返す。
「え?」
彼女は少し俯きながら話し始めた。
「私も自分の居場所が見つけられなくてこの街に来ました。進学って理由もありました。でも、どこか違う世界に行きたくて遠くの大学を選んだんです。私も同じです。あなたと居るととても落ち着く。ずっと一緒にいたいです。」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
僕は夢を見ているのか?
暗い闇の中に突然差し込んだ光のような彼女に僕は今すぐにでもすがりたかった。
だけどその光は僕の暗闇を更に照らした。
「私と付き合ってくれませんか?」
自分の耳に押し入って来た言葉に僕は怯えた。
ずっとずっと人を避けて生きてきた。
みんな他人だ。
僕と関係のない人間だ。
僕は一人で生きていく。
そう思っていたはずなのに、僕は目の前にいる彼女に寄り添おうとしている。
「は、はい。」
感情がごちゃ混ぜになったまま溢れた言葉。
そして僕の闇と彼女の闇、僕の小さな小さな光と彼女の小さな小さな光が重なろうとしていた。
不意に押し付けられる彼女の唇、目の前に迫る彼女の肌、ごちゃ混ぜになった感情、震えたまま彼女をそっと抱きしめていく自分の手、そう、僕らにこの時、恋の風が吹いたんだ。