<9>
アーティスとアンジェラは、二人並んで自室のモニターに映し出される惑星エデンの地を眺めた。謹慎状態だったアーティスにとってそれは、待ちわびた瞬間でもある。何よりも、あの死の惑星に見えた最初のエデンを知っているアンジェラと共にこの惑星を見たかったのだ。
今隣には、そのアンジェラがいる。そして画面いっぱいに広がるエデンは、彼女にに見せたいと思った、溢れかえりほどの生命の輝きに満ちていた。
「すごいね。これがエデンなんだね」
感動に満ちた小さなささやき声が、アーティスの耳に入った。隣を見ると、アンジェラが目を見張って画面に見入っている。
「これがアーティ達の家なんだね」
「そうだよ」
初めて会った日に自分はそういったのだ。『ここが僕たちの家になる』と。それをアンジェラは覚えていたのだろう。再び画面に釘付けになるアンジェラの横顔から、モニターへと目を移す。言葉で言い尽くせないほど、綺麗な星だと心の底から思った。
まるで昔、資料映像で見た地球のようだ。水は青く、地は緑に輝いている。
スヴェトラーナの選んだ植物はこの世の春を謳歌し、デニスが生息地域を定めた動物たちが所狭しと地上を駆けめぐる。ひとたび青く輝く海に目を遣ると、そこには色とりどりの雑多な生命空間が広がっていた。
アサギが言うように、磁気の都合でみられない土地も少々存在した。それは大森林の一部であったり、山岳地帯の一部であったり、海岸線の一部であったりしたが、特にそれを気にする必要もなかった。見るべき場所は沢山あったからだ。それこそ、見切れないほどに。だがこの三日間を無駄には出来ない。
「アンジェラ、好きなだけ見ていていいからね」
モニターから離れて寝室へ向かうと、困った顔でアンジェラが振り返る。
「アーティーは?」
「ちょっとやることがあるんだ」
「何か悪いよ。私ばかり見てたら」
「悪くないよ。そうだ、操作方法教えるね」
「……うん」
まだ見足りない様子のアンジェラにカメラの操作方法を教えて、自分は自分のやるべき事を始める事にした。こっそりとみんなの動きを調べるなんて心苦しい限りだが、仕方ないと割り切る。なにせアンジェラの命がかかっているのだ。
アンジェラが再びモニターに向かったのを確認して、自室に椅子を取りに行く。本当は彼女に見られたくないから隣の部屋で調べたいのだが、アンジェラを一人にするわけにはいかない。殺人者が誰であろうと、この部屋に入れる可能性があるのだから。
モニターに釘付けのアンジェラの後ろに椅子を持ってきて、自分の端末で『箱舟』のメインコンピューターにアクセスする。音声アクセスだとアンジェラに気が付かれるから、もちろん手動だ。
まず誰でもが使える共用部分から、副管理責任者のパスワードを入力する。訓練や試しで使ったことはあったものの、本当に使用するのは初めてだ。まさか使用するとは夢にも思っていなかった。アサギに何かあるなんて、完全に想定外なのだから。
もしアンジェラのことでアクセスしようと思わなければ、副管理者権限など宝の持ち腐れだったろう。今はその権限を与えてくれたアサギに感謝だ。御陰でこうしてこっそりアクセスすることが出来る。
音声認識を切ってあるから、やがて暗い画面に鮮やかな緑で文字が現れた。『パスワード認識/副管理責任者アーティス・オズマンド』と表示されている。どうやら上手くいったらしい。マニュアルを思い出し、コンソールに直接指で入力しながら、一つ一つの動作を確認していく。
ようやく全ての設定が終了し、この端末からのアクセスが可能になった。これで格段に『箱舟』へのアクセス権限が増えたはずだ。
「さて……」
小さく呟きながら、一番気になっているエネノアの事件当日の情報を呼び出す。本来ならかなりプライベートなことだが、生体反応をずっと追っている『箱舟』なら、それが可能だ。
『箱舟』は性質上、学者しかいない船だ。万が一の事態を想定して一応不審者に対する訓練は受けているし、武器として電磁拳銃も備え付けられてはいるが、正直に言ってそれをきちんと使える自信は皆無だ。みんなも同じだろうと思う。だから不審者がいても、反撃できる人間などいないといっていい。その為にこの生体反応管理システムが必要なのだ。仮に乗組員七人以外の侵入者がいた場合、その人物がどこで何をしているかが、侵入した瞬間から全て記録される事になっている。そのシステムが反応しなかったとなれば、アサギの苛立ちは当然だろう。
このシステムは、『箱舟』の警備システムにも応用されていて、もし不審者がいた場合はこのデータを元にして不審者を警備システムに登録し、不審者排除プログラムを動かすことだって出来る。そんなシステムだから、不審者以外の乗組員の異常事態が生じた場合を想定して、七人全員の生体反応を追うことも勿論できる。不測の事態を想定しているこの船では、警備システムよりもむしろそちらの方が重要だった。何らかの原因で事故や急病が起こってもシステムが直ちに必要な救援者を起こしてくれるのだ。
「あれ? 駄目か?」
エネノアの情報にアクセスしたが、撥ねられてしまった。色々な想定を元に、アーティスの権限で見られるデータのはずなのに情報が見られない。試しに自分の情報にアクセスしてみたが、それさえも見ることが出来なかった。
「……何で?」
呟きながら全員の生体情報をチェックしてみたが、誰の情報にもアクセスすることが出来ない。これではここから、誰がどこにいるかさえ把握できない状況だ。自分の権限でアクセスできなくなっているということは、アサギの権限でなくてはならないということだろうか。
そういえば緊急招集の際にエネノアが、アンジェラとフォリッジの生体反応が拾えなかったことに関して、アサギに苦情を言っていた覚えがある。あの緊急招集のあと、アサギは中央制御室に籠もったままだ。もしかすると今、アサギがこのシステムを停止、もしくは休止して調べているのかもしれない。そうなると自分の権限は通じないに決まっている。アサギの管理者としての権限の方が格段に上だ。
せっかくアクセスしたのに何も出来ないことが面白くないから、他にもアーティスがアクセスできるはずのいくつかのプログラムやシステムに無作為にアクセスしてみた。結果、いくつかがアクセス不能になっている事が分かった。小さなものは標準時の設定変更から、大きいものでは作業用アンドロイドや警備ロボットの位置情報まで、色々だ。
完璧主義者のアサギのことだから、徹底的にやっているのだろうが、アーティスにとっては困った以外の何ものでもない。おそらくアサギが全てのチェックを終えるまでどうすることも出来ないに違いない。完全に手詰まりだ。こういうとき、副管理者権限は不便だ。管理責任者なら、易々と欲しい情報を手に入れられるだろうに。
「あ~あ、いい案だと思ったのになぁ」
思わず声に出して呟くと、アンジェラが振り向いた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっとね」
まさか君のために仲間のデータをこっそり調べてるんだ、ともいえない。アンジェラに微笑み返しながら、覗かれてもいいように、慌てて今表示している画面から、違う画面に切り替え、適当に誤魔化す。アンジェラは不思議そうな顔をしたが、小さく息をついてエデンのモニターカメラに戻った。今は森の中の映像を見ているらしく、モニターいっぱいに緑の森が見える。まるで目の前に森が広がっているみたいだ。
地上に設置されたカメラは少ないが、高々度カメラよりも地上をリアルに感じることが出来る。アンジェラは全体を見られるカメラより、この地上のカメラが気に入っているらしい。しばらくアンジェラの後ろ姿を見ていたが、何も不審がられなかったようだ。それを確認して、再び端末に目を遣ると、どこをどう押したのかこの間保存しておいたフォリッジの死体を発見したときの画像が流れていた。
手の先から画面に映りこみ、やがてゆっくりとその体を捕らえていく。見開いた瞳が、閉じることなく光を反射するのを見ると、彼女が完全に死んでいるというのがよく分かる。もし彼女が生きていて死んだ振りをしているのなら、光があんな風にあたって瞬きしないはずがない。ため息を付きつつ、その画像を閉じる。何度見たって気持ちのいいものじゃない。
パスワードを入れたついでに、医療室への出入りのデータも調べてみたが、ここも大本を辿れば生体反応管理システムだ。メンテナンス中の生体反応管理システムのデータが見られるわけもない。完全に生体反応管理システムの外部アクセスは、禁じられてしまっているようだ。アサギが生体反応管理システムを修理し終えるまで待つしかないだろう。
副管理者権限を使った設定を終了し、普通のモードに戻すと一気に力が抜けた。大きく息を吸い込むと、端末を膝に置いて大きく伸びをして、息を吐きながら肩の力をがっくりと抜いた。慣れないことをすると肩が凝る。
「アーティー」
呼ばれて顔を上げると、アンジェラが真っ直ぐにこちらを見ているのと目があった。気が付くとモニターは切られて画面は黒く代わり、鏡のようにアンジェラと、その後ろに座る自分を映していた。
「どうしたの?」
平静を装いながら椅子から立ち上がって近くに行くと、アンジェラが申し訳なさそうな顔で謝った。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「私がいることで、問題が起きているんだもの。ずっとそれを気にしているでしょう?」
真っ直ぐにこちらを見る瞳に、圧倒される。アンジェラは何も気が付かずにエデンを見ている、とばかり思っていた。まさかこちらを窺っていたなんて、全く気が付かなかった。そういえば自分は熱中すると周りがいまいち見えなくなる事があるのだ。
「……気が付いてた?」
決まりが悪くなって小さく尋ねると、アンジェラはコクリと頷いた。
「犯人を捜そうとしてたでしょう?」
「何でそう思う?」
「だって、眉間に皺が寄ってたもの」
「……」
顔出ていたとは気が付かなかった。必要以上に力が入っていたのだろう。
「もう犯人は探さないようにしようって、さっきの会議で話してたのにアーティーがそれをするのって、私のせいでしょう?」
じっと自分を見つめるその真剣な表情を前にすると、下手に誤魔化す事も出来ない。正直に頷く。
「私がいると辛い思いをさせちゃうね」
「そんなこと!」
「ないって言えないでしょう?」
ゆっくりと噛んで含めるように、アンジェラはそういった。
「アンジェラ……」
「ごめんなさい。謝ること以外、何もしてあげられない」
「して貰ってるよ。アンジェラがいるだけで僕は結構幸せだし」
慰めとも何ともつかない言葉を口にすると、どことなく大人びた顔で、アンジェラは微笑んだ。
「でも私がいなければ、親友や大好きな仲間達を疑わずに済むんだよ?」
「それはそうかもしれないけど」
何と言ったら分かって貰えるだろう。あまり取り繕っても仕方ない気がして、アーティスはため息を共に本音を打ち明けた。
「もう君を失いたくない」
彼女が死んでしまったと思ったときの喪失感は今考えても大きかった。仲間を疑うことは辛い。だが仲間なら話せば理解し合えると信じている。だから今、アンジェラが生きて、ここにいることの方がアーティスにとっては重要なのだ。アンジェラに出会うまでは、仲間より大事なものはないと思っていたが、初めてそうではないことも有り得ると気が付いた。
「ありがとう」
気持ちが伝わったのか、アンジェラは微かに微笑んだ。アーティスの告白にも、決して嬉しいとは言えない表情を見せる。そこにあるのは、悲しみに似た感情だった。その悲しみに満ちた微笑みを目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。アンジェラと仲間の一人の顔が一つに重なっていく。初めて気が付いた。
――アンジェラは、エネノアに似ている。まるで生き写しのように……。
思わず一歩下がった。今までは昔の子供っぽくて何も知らないアンジェラのイメージしかなかったから、そんなこと考えても見なかった。だけど年相応の表情を見せる今のアンジェラは、本当にエネノアによく似ている。髪の色、髪の質、目の色は違うが、他の部分は本当に酷似している。
いったいこれはどういう事なのだろう。エネノアとアンジェラの間に何かがあるのだろうか。七人しかいないこの船に正体不明が二人、しかも同じ顔だなんてと、招集の際いっていたエネノア。だがその同じ顔の中に、エネノアまで入るなんて理解不能だ。
あまりの驚きに声も出ずにいると、アンジェラは立ち上がって、画面が消えたモニターに手を触れた。
「本当はね、私がここにいるべきではないって、分かっているの。でもそれならどこに行くべきなのか全く分からないし、見当も付かない。頭の中に靄がかかっているみたいに、本当に大事なことが何なのか分からない……」
黒い画面に鏡のように二人のアンジェラが映る。それさえもアンジェラとエネノアに見えてしまい、思わず目を背けた。どうしてこんなに似ているのだろう。まさか自分が二人を重ねてしまっているから、似て見えるということではないだろうとは思う。だが、それにしては似すぎている。そう、声さえも……。
「アーティー、私が怖い?」
考え込むアーティスに幼さが残る声と柔らかな口調で、だがしっかりとアンジェラはそう口にした。その声で我に返った。アンジェラから後ずさるなんていうことは、彼女を一番傷つける事ではないか。アンジェラに目を向けると、途方に暮れたような、不安そうな顔でこちらを見上げている。そんな表情をさせてしまったことに深く後悔した。
「そんなこと……」
謝ろうと思ったが、何といっていいのか分からず、思わず口ごもる。
「いいの。分かってる。正体が分からないんだもん、本当は嫌だよね」
「違う、そうじゃない!」
エネノアとアンジェラの間に何があるのか、それは今の段階では何も分からない。いくら考えてもそれはきっと予測だけで、真実がどこにあるかなど見当も付かない。それにもし分かってしまえば、何もかもが終わってしまうような、そんな嫌な予感もする。だからといって今のアンジェラから手を放すなんて、出来るわけがない。
「私……スヴェータの所に行ってた方がいい?」
返事をしない自分に気を使ったのか、微笑みを浮かべてアンジェラはそう尋ねた。
守ると決めたくせに、動揺しては距離を置く……どうして最後まで貫ききれないんだろう。ましてや失いたくないといった直後に、これだ。自分が情けない。こんな自分は切り捨てなければ、彼女を守ることなど出来やしないだろう。
いくら彼女がエネノアと似ていても、それは彼女のせいではない。もし誰かが彼女をそう作ったとしても、生まれたアンジェラには何の責任もないのだ。彼女はエネノアではなく、アンジェラだ。今手で触れられる、ここにある事実は、目の前にアンジェラという大切な女の子がいて、ここに自分がいると言うことだけ。
彼女の正体や記憶といった真実は闇の中にあるが、二人でいる大事なこの時間に真実を見極めなければいけない事など、一つもない。今、この瞬間に仮説を立て実証していく科学は一つも必要ではないのだ。必要なのは……確かなこの感情だけだ。
立ちつくすアンジェラの元に歩み寄り、そっと抱きしめた。
「怖くない。本当だよ」
抱きしめる腕に力を込めた。腕の中のアンジェラが小さく吐息を漏らした。それが安堵なのか、苦悩なのか、仲間以外の女性と接したことがないアーティスにはいまいち分からない。黙ったままの彼女を抱きしめて、言い訳めいた謝罪の言葉を口にする。
「研究所育ちで、仲間以外との接触にあまり慣れてないんだ。だからこうして君を傷つけちゃうね。謝るのは僕の方だ」
ふわりと柔らかい髪を優しく撫でる。アンジェラに会うまで、事実や真実よりも大事な感情があるなんて、考えても見なかった。気持ちが大事だというのは感情論だから、それを自分が持つなんて思っていなかった。初めて感じる新鮮な感情に戸惑いつつも、それは悪い感覚ではないことを初めて知った。
しばらく抱き合ったままじっとしていると、アーティスの胸に顔を埋めるようにしていたアンジェラが、小さく呟いた。
「本当は私、自分が怖い」
「自分が?」
「うん。もし記憶が戻ったら、何もかもが自分じゃなくなるような、そんな予感がするの」
ため息混じりのやるせない言葉が、胸に突き刺さった。
「だけど、記憶を取り戻さなければならないことも分かってるの。そうしないと、何も始まらないし終わらない」
「何のこと?」
「分からない。ただ頭の中で何かがそういうの。このままじゃいけない、始まりは私の中にあるって。それが何の始まりで何の終わりなのか、私には分からない」
夢を見るような、それでいて苦痛を隠せないようなその声に、彼女の顔を見ようとしたが、彼女は顔を伏せたまま動かない。
「アンジェラ、僕を見て」
小さく囁くと、アンジェラが不安に包まれた顔を上げた。あまりに悲しげな表情に、かける言葉が見つからずにいると、そんな気持ちを察したのか、アンジェラがまるで花が綻びるように徐々に、その表情を微笑みへと変えていった。
「もしも私の真実がどんなものであっても、私の記憶が戻って今の私を失っても……今の私があなたを一番大事に思っている事だけは、絶対に忘れないでね」
切ないまでのその言葉と表情に、アーティスはアンジェラの体を強く抱きしめた。何度決意しても、動揺すれば一歩引いてしまう、そんな情けない自分だが、それでも今感じている彼女に対する思いだけは本物だ。
「そんな悲しいこと、考えないで。僕は君を一番大事に思ってる。これからもずっとだよ」
「うん」
少しだけ腕の力を抜くと、アンジェラがこちらを見上げた。柔らかく滑らかなアンジェラの頬に手を触れる。
「好きだよ、アンジェラ」
「アーティー……」
静かに目を閉じたアンジェラに、アーティスはそっと唇を重ね、柔らかく愛おしいその身体を強く抱きしめた。彼女がどんな存在であろうと、その体は温かく生きている事を実感させてくれる。だからこそ、もう二度と彼女を放したくない。弱くていつも逃げてしまうアーティスだけど、彼女を守ることが今最も大事なことだった。