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 アーティスは自室のベットに横になっていた。冷凍睡眠用のカプセルは壁面に収納され、今はそこに普通のベットとデスクが置かれている。殺風景ではあるが、航宙船の中では贅沢も言えない。窓はないが、その代わりにモニターが一台壁に設置してあり、『箱舟』に命じれば様々な映像を見ることができる。望めば窓のように現在の外の映像を見ることすら可能だ。アンジェラがいた頃は、地球の様々な風景を映して楽しんだが、一人でそれをするのも虚しい。

 クローゼットの中に収められた、デニスに負けず劣らず懐古趣味な紙の本やゲームもあるのだが、何もする気が起こらない。何をしてもその記憶は、アンジェラに結びついてしまうのだ。痛いくらいにリアルに思い出すくらいなら、何もしないでぼんやりと彼女の想い出を追っている方がまだましだ。冷静さが戻ってきたせいか、多少投げやりな気分でそう思う。

 だが彼女の想い出を追うということは、自身の後悔を幾度もなぞるということに他ならない。そのたびにどうしようもなく苦しくなる。

 ベットの上をゴロゴロ転がりつつ地球標準時刻を確認すると、もう真夜中になっていた。実質的な謹慎を命じられた二十四時間まで、まだ十五時間以上ある。とても長く感じるが自分には冷静になれる時間が、確かに必要だった。少しのことで動揺せずに、きちんと任務をこなせるためにはとにかく落ち着かねばならない。少なくともデニスの冗談でいつも通りに笑えるくらいは。

 ふと先ほどのデニスの顔を思い出した。あの去り際に見せた何とも言えぬ痛ましげな顔。相当心配を掛けている。他の仲間も同様に心配しているだろう。今まで何かがあれば必ず相談して解決してきたのに、こんな風に一人で抱え込んでいるのは初めてだ。こんな事件が起こらなかったら、おそらく仲間と陽気に話していたのだろう。今日は『約束の日』だったのだから。

 アーティスはのろのろと体を起こした。今日初めて見たあの惑星エデンを、再び見てみたくなったのだ。モニタールームでなら地表が見られるが、ここからでは遠景で我慢しなけらばならない。それでも自らが育てたあの緑の星を見れば、それだけで少しでも心の慰めになるかもしれない。今のエデンは、おそらく生活プラント同様の状態にまで進歩しているはずだ。

 そう思いながら体を起こし、隣のモニタールームに向かった。椅子に座って『箱舟』に命じ、エデンの現在の画像を呼び出すと、瞬く間に惑星エデンの遠景が画面いっぱいに広がる。目の前に浮かび上がった緑と青に彩られた美しい星が、暗かった部屋を青い輝きで満たした。

「綺麗な星だな……」

 一人呟いてみた。初めて見たときの、あの緑一つ、命の息吹一つ感じられない赤茶けた星と同じとは思えない。今地表には人間によって汚される前の清浄な空気が満ち、スヴェトラーナの蒔いた植物が森をなし、デニスとケイファによって再生された動物たちが溢れている。自分たちが作ったがこの船の中にある森林と違い、土の上に根付いた、生きている本物の自然だ。

 アンジェラに見せてあげたかったのにと、切実にそう思った。生活プラントを一緒に見に行ったときアンジェラに、本物の自然がどういうものなのかを問われたのに上手く答えることができなかった。もしここにアンジェラが共にいたなら、説明下手なアーティスの言葉よりも、この映像一つが彼女に真実を教えただろう。

 一緒にエデンを見たあの時のことは、よく覚えている。あの時、感慨にふけるアーティスにアンジェラは『悲しいの?』と聞いた。もし今同じ事を聞かれたなら、こう答えるだろう。君がいなくて悲しいよ……と。

「アンジェラ、綺麗だろ?」

 無意識のうちに、アンジェラがいたときの定位置で、今は誰もいない空間に向かって問いかけた。『箱舟』は『箱舟』と呼びかけなければ反応してはくれないから、答えが返ってくるはずなどない。案の定、沈黙が返ってきた。

「寂しいな……やっぱり。君がいればよかったのに」

 どうしようもない寂寥感にため息混じりに呟くと、思いもよらないところから小さな声が返ってきた。

「……いるよ」

「……!」

 回りを見渡しても誰もいない。ついに幻聴が聞こえ始めたのかと、頭が混乱する。アサギには正常だといったが、やはりどこかおかしくなっているのではないだろうか? 咄嗟にカウンセラーのマサラティ個人に通話を繋ごうとしたが、その手を阻止するかのように膝下から伸びてきた手に掴まれた。

「ひっ……」

 思わず声が漏れた。恐る恐る掴まれている自分の手を見ると、アーティスよりも小さな手は、しっかりと手首を掴んでいる。この感覚、恐ろしくリアルだ。幻影や幻覚であるわけがない。

「いるよ、アーティー」

 柔らかく、そのくせ心細そうなその声には、聞き覚えがあった。手が伸びているのは、モニターの下からで、今座っている椅子の奥になる。身をかがめて恐る恐る覗き込むと、金色の髪が目に入った。大きな瞳いっぱいに涙を溜めてアーティスを見上げるその顔は、まだ十代のあどけなさを残している。

「……まさか、アンジェラ?」

 尋ねると、少女はこくりと頷いた。あり得ない。先ほど彼女が死んでいるのを確認したのだから。白く滑らかな肌は、陶器のように冷たく、堅くなっていたというのに……。驚きと混乱で黙ったままのアーティスの膝にそっと手が乗せられた。服を通してアンジェラの手のひらの体温が伝わってくる。とても温かい。少なくとも昔話によく出てくる『幽霊』というものではなさそうだ。だとしたら一体何が何だか……理解ができない。

 落ち着くために目を閉じて深く息を吸い込んだ。それをいつも以上にゆっくりと吐き出す。何度か深呼吸を繰り返してから、先ほどいわれたアサギの『科学者として理性を一番に保て』という言葉を思い出す。

 冷静に現状を把握し、最上の対処を考える。今目の前にアンジェラがいる。おそらく生きているようだ。体温のことを考えると幻覚ではないらしい。アンジェラであるならば、アーティスが警戒する必要は何もない。それよりもアンジェラの話を聞いてあげたい。もう二度と、手が届かないもどかしさで歯ぎしりするような後悔はしたくない。

 そう考えると徐々にではあるが、この現実を受け入れる心の余裕ができてきた。うっかりしたら蹴り飛ばしてしまいそうなので、アンジェラを傷つけないようゆっくりと椅子を後ろに下げて、床に直接座った。アンジェラの目の高さになることで、ようやくアンジェラの状況が見えた。窮屈な空間のそのまた隅に体を押しつけるように、彼女は縮こまって座っていた。よく見ると小刻みに震えている。大きな瞳が不安そうにアーティスを見つめていた。

「出ておいで」

 優しく手を差し伸べると、アンジェラは怯えたように小さく首を横に振る。何を恐れているのか、出ること躊躇っているのが分かった。

「どうしたの? 僕が怖い?」

 顔を覗き込むように窺って頬にそっと触れると、アーティスの手に一回り小さな手が重ねられた。確かめるようにアーティスに触れながら、アンジェラは不安を隠せぬまま小さく尋ねる。

「……アーティーだけしかいない?」

「いないよ」

「本当? モニターにもいない?」

「うん、いない。大丈夫だよ」

 それでもしばらく考え込んでから、アンジェラはようやく出る決心をしたようだった。アーティスが手を貸すと、その手に引かれるようによろめきながら立ち上がる。出てきたアンジェラは、アーティスの記憶とそれほど代わることのない姿のままだった。流石に少しは年をとっていたが、それはほんの数個にすぎない。眠りについた直前は十四、五歳だったが、今は十七、八歳といったところだろうか。

「……よかった、覚えていてくれた」

 目に涙を浮かべて、アンジェラが抱きついてきた。ふわりと髪が頬をくすぐり、暖かく柔らかな体がアーティスに縋り付いている。子供っぽいアンジェラのそんな行動も、アンドロイドだと思っていた頃なら平気だったが、人間だと分かっているから思わず意識して体が堅くなる。だがここで今までと態度を変えるのもおかしいし、下手に不安を与えたくないから、多少ぎこちないが今までのように抱きしめた。

「覚えてるよ。僕にとってはアンジェラと別れたの、つい昨日のことだからね」

 腕の中でアンジェラが大きく安堵の息を吐いて、体の力を抜いたのが分かった。小さな体をこんなに強ばらせるくらい何かに怯え、緊張していたのだろう。

「私にとってはもっと前のことだもの」

「……どれくらい?」

「うん。時々記憶がなくて分からないんだけど、ずっと前」

「記憶がないの?」

「そう、二年とか五年とか。私おかしいのかな?」

「うーん……」

 曖昧に言葉を濁して、アンジェラ背中に回したままの腕を組んだ。可能性として考えられるのは、誰かによってアンジェラの意志と関係なく、冷凍睡眠をさせられていることくらいだ。自分たちの中にそれをやっている人間がいるのだろうか?

「この船の乗組員で、僕以外に会ったことがある人は誰?」

 しばし考えた末にあえて自分の知っている事を抜きにそう尋ねると、腕の中で目を閉じていたアンジェラが顔を上げた。まだ怯えた目をしているが、アーティスの問いには小さな声で素直に答えた。

「スヴェータ」

「それ以外は?」

「……知らない。本当よ」

「そうか」

 面識がある人間なら、睡眠薬などで眠らせてから冷凍睡眠カプセルに入れて、起きる時間をセッティングすれば、簡単に彼女を冷凍睡眠に誘うことができる。だがこの前提は苦しい。もしこの仮説が正しければ、アンジェラを勝手に眠らせ、勝手に起こしているのは自分かスヴェトラーナしかいなくなる。自分ではないとしたら、スヴェトラーナしかいない。だが彼女がそれをするとは到底考えられない。

 口の利き方こそぞんざいであるが、彼女がメンバーの中で一番優しいことをアーティスは知っている。彼女が木々と語らっている姿は、まるで女神のように慈悲深く、そして暖かい。

 それにこの仮説には根本的に無理がある。アサギが言ったように予備の冷凍睡眠装置は使われた形跡がなく、冷凍睡眠装置を作れるのはアサギとアーティストマサラティの三人だけなのだ。アサギは不確定要素のアンジェラを冷静に処分しようとしたし、ドクターはあの遺体に何の感慨も抱いていないようだった。一番怪しいのは間違いなくアーティスだが、アーティスは自分自身をよく知っている。

 冷凍睡眠が駄目だとしたら、このままでいるアンジェラに何の手段が考えられるだろう。

「気が付くと、森にいるの。一緒にピクニックに行ったあのプラントに」

「生活プラントか……」

 あんなところに冷凍睡眠カプセルはない。そうなると事態はもっと複雑だ。どういう可能性が考えられるのだろう。再び考え込もうとすると、アンジェラがきつく体にしがみついてきた。

「どうしたの?」

 考えることをやめて、そう尋ねながら背中をさすると再び小刻みに震えているのが分かった。

「あの場所を思い出したら怖くなって……」

 語尾が小さくなって消えた。アンジェラはあの生活プラントの何かに怯えている。それに気が付いてアーティスは自分の至らなさを責めた。アンジェラの話を聞きたいと思っていたのに、どうしてアンジェラがここにいるのかを分析する方に気をとられてしまっていたのだろう。再びアンジェラを失いたくないと思っていたのに、これでは前と変わらない。

「ごめん、アンジェラ。何があったかを僕に話してくれないかな?」

 できる限り優しく尋ねると、アンジェラは大きな緑の瞳を真っ直ぐにアーティスに向けた。

「……時間がかかるよ?」

 小さく呟いたアンジェラの髪を優しく撫でながら、二人で過ごした二年間と同じようにアーティスは微笑んだ。アンドロイドでも人間でもアンジェラであればそれでいい、そう思うと微笑むことは難しくなかった。

「時間はいっぱいあるよ。僕は今謹慎中なんだ」

 冗談めかしてそういうと、気持ちを切り替えたアーティスの態度の変化に気が付いたのか、アンジェラは小さく頷いた。そっと腕の中からアンジェラを放し、隣の自室に促す。モニタールームは殺風景だし、座るところも一つしかないから、二人でいるには居心地がよくない。促されるままに俯きながら、アンジェラはゆっくりとアーティスと一緒にいたときの定位置に腰掛けた。当たり前のようにアーティスがデスクの椅子に座る。そんな動作の全ても驚くほど今まで通りで、一瞬だったがまだ西暦二三八四年なのではないかと錯覚してしまった。

 室内に備え付けてあるポットから二つ分のマグカップにお湯を注ぎ、特殊加工されたティーパックを放り込む。詳しい原理は知らないが、理論的にはパック詰めされた茶葉が何百年も持つというありがたい代物だ。

「はいアンジェラ。熱いから気を付けて」

「ありがとう」

 両手でカップを受け取ったアンジェラは一口飲んだ後、しばらくぼんやりと立ち上る湯気を見つめていたが、やがて安堵のため息を漏らした。黙ってそれを見守っていると、アーティスの脳裏に先ほどまでアンジェラだと思い込んでいたあの死体が浮かんだ。画面越しに見た最初の衝撃的な映像が鮮やかに蘇る。助けを求めるように伸ばされた指先と、下草にまみれて乱れた金の髪、差し込む光に何の反応も示さなかったあの緑の瞳。小さな端末越しではあったが明らかに分かる死の影。

 冷静に思い出してみても、あの姿はアンジェラであるとしか思えなかった。だからこそあんなに取り乱し、混乱をきたしたのだ。なのに彼女は生きている。一体何がどうなったのだろう。

 無心に紅茶を飲み続けるアンジェラをちらりと横目で確認してから、アーティスは自分の端末で『箱舟』に通信をした。音声認識以外でも『箱舟』の資料を手に入れることはできる。いつもは面倒だから使わないが、今は怯えているアンジェラの手前おおっぴらに『箱舟』を呼び出すわけにもいかない。

 『箱舟』に先ほどアンジェラだと思われる死体を発見したエリア16の映像をもう一度呼び出して貰い高速で確認して、死体発見からその全身像を捕らえるまでの短い映像と、転送されてきた総てのデータを端末にストックした。医療データにアクセスしてみたが、今はまだ『箱舟』のメインコンピューター内に詳しい死体検案書はない。

 端末を閉じるとアンジェラがこちらを見ていた。手元のマグカップには、殆ど紅茶は残っていない。本当に喉が渇いていたのだろう。

「おかわり、いる?」

 優しく尋ねると、アンジェラは小さく首を横に振った。

「そっか。じゃあ話してくれる?」

「……うん」

 ベットサイドの小さなテーブルにカップを置くと、アンジェラはアーティスを真っ直ぐに見つめた。まだ怯えの残るその顔には、ひとかけらの決意のようなものがある。

「私の記憶がいつもどこかで途切れているの。どこでどうして途切れるのか、私には全く分からないけど、いつもいつも記憶の始まりは同じ場所。まるでぐるりと廻っていつも元の場所に戻ってしまったみたいで、怖くなるわ」

 アンジェラの話をまとめると、こういうことだった。

 彼女が目を覚ますと、いつも通り生活プラントの森にいた。アンジェラの記憶では彼女の記憶が正常なのは、アーティスと過ごしていた二年間とスヴェトラーナと過ごした二年間だけだった。その後もたまに記憶があるのだが、夢か現実かの区別さえも付かない短い期間のことであったそうだ。しかも孤独のはずの彼女が、夢みたいに沢山の人と共にいたような幻覚も見ていた。まだ人間がいないこのプラントで。だがそんな幻想も夢も何らかの原因で途切れ、気が付くと誰もいない生活プラントの中にいる。その繰り返しだった。

「目が覚めるたび生活プラントが大きくなっていくの。初めてアーティーとあそこへ行ったときは島みたいだったけど、次に目が覚めたときはもう三分の一くらい森になってた。その後すぐにスヴェータと会ったの。何度も目を覚ますうちに生活プラントはもう完全な森になってた」

 意識を取り戻すときは決まって前に見た時よりも森が広がっている。混乱しつつもそれで彼女は時間の経過を実感していたのだという。自らが持つ時間感覚は全く役になど立たなかったらしい。

「私が目を覚ましたのは今日。いつも通りあの生活プラントの中にいたの。ああ、またここなんだってぼんやりとそう思っていたら、あの人が来た……」

 痛みを堪えるような顔で、なくなってしまったカップを覗き込んだままアンジェラは黙り込んでしまった。アンジェラが自然に話を続けるのを、すっかり冷めた紅茶を飲みながら待っていると、大きく息をついてアンジェラはその大きな瞳でアーティスを見上げた。

「私とそっくりな人だった。私より歳は上だけど、びっくりしちゃった。アーティーの部屋で見た鏡の中の私とそっくりだったんだもん。その人は、フォリッジって名前だったの」

「フォリッジ……」

 それがあの死体となった女性の名前……。

「何も分からなくて座り込んでいる私に、フォリッジは『あなたの望むところにお行きなさい』っていったの。怖いくらい真剣に『ここにいたら殺されるわよ』って」

「殺される……?」

 生活プラントがそんなに危険だとはどうしても思えない。殺人者などこの『箱舟』にいるわけがないではないか。考え込んでいる間もアンジェラの話は続いている。

「フォリッジは詳しいことは何も教えてくれなかった。ただ寂しそうに笑って、これも全て『約束の日』に決められた事だって」

「『約束の日』に殺されることが決まっていたって?」

「フォリッジはそういってた」

「そんな馬鹿な……『約束の日』はみんなが目覚める日ってだけのはずだよ」

 自分が待ち望んでいた日が、アンジェラを処刑すると決まっていた日だなんて、あり得ない。そもそも何故『約束の日』にそんなことを行う必要があるのか……いやまて、誰がそれを行う必要があるのだ? そんなことを行って『箱舟計画』メンバーのいったい誰が得をする?

「でもフォリッジはそういったわ」

「それはそうだけど……」

 何と答えたらいいか分からずに口ごもると、アンジェラは厳しい目でじっとアーティスを見つめた。怒りと悲しみを込めたその視線に射抜かれたように、目をそらすことができない。

「フォリッジは殺された。それが彼女が正しかったっていう証拠にならないの?」

「……そうだね。証拠になりそうだ」

 アンジェラは小さく吐息を漏らすと、目を伏せた。

「私も半信半疑だったの。でもあまりにフォリッジがいうから『どこに逃げればいいの』って聞いたの。そうしたら『一番信頼できる人の所へ行きなさい』って。私には一番信頼できる人といわれたら、アーティーしか思い浮かばなかった……」

 語尾は小さく消えたが、アーティスには分かった。だからここに来て、待っていたのだと彼女は言いたいのだろう。なのに疑われてしまったら、彼女はよりどころをなくしてしまう。アーティスは気持ちを固めた。アンジェラを信じる。決して疑わない。

「……アンジェラはフォリッジが殺されるところを見たの?」

 俯いたままの彼女にそう尋ねると、顔を上げずにアンジェラは答えた。

「うん。私に行けって言うくせに、フォリッジは動かないの。彼女から逃げるように小走りで走り出して、ちょっと離れたところから後ろを振り返ったら、彼女はまだ手を振ってた。でも手を振り替えそうと思ったら、そのまま声も立てずに笑顔のままで前のめりに倒れたの。まるで木が倒れるみたいにゆっくりと……」

 真っ直ぐに伸ばされた手は助けを求めていたのではなく、アンジェラに別れを告げていたのだ。瞳は無念さで見開かれていたのではなく、アンジェラを最後まで見つめるために開かれていたなんて。

 だがこの話には二つの疑問が残る。一つは殺されることが分かっていながら、フォリッジは何故逃げなかったかだ。もし自分なら、アンジェラの手を引いて真っ先に逃げるだろうに。二つ目は彼女の死因が分からない事だ。アンジェラの話だと、後ろから何らかの攻撃を受けた可能性が高い。だが倒れていた死体に外傷はなかった。それはマサラティが言っていたから知っている。

 非現実的すぎて手に負えそうにない。それに大切なのは仮説を立てることではない、アンジェラの意思を尊重することだと先ほど自分で決めたのだから、それを守りたい。

「アンジェラはどうしたい?」

「私?」

 戸惑ったようにアンジェラはアーティスを見つめ返した。

「うん。犯人を見つけて、フォリッジの仇をとりたい?」

「……そんなこと……考えてもいないよ」

「じゃあ……どうしたい?」

「このままじゃ怖いの。私、殺されちゃうかもしれない」

 不安と恐怖が入り交じったアンジェラの表情に、思わず椅子から立ち上がった。許可を取る前にアンジェラの隣へ座って、そっと肩を抱いた。アンジェラの頭がアーティスの肩にそっと乗せられる。

「殺させないよ」

「でも……」

「じゃあこうしない? 犯人を見つけて、それで殺すのやめて貰おう。相手が人間なら話して分からないわけないからね」

 多少おどけてそういうと、アンジェラはようやく顔を上げた。

「できるかな?」

「う~ん、僕一人じゃ無理かもしれないから、誰かに手伝って貰おう」

 どうも情けない言葉しか出てこないが、それがアンジェラにはよかったらしく、微かな笑みを浮かべた。

「そういうときは『僕に任せて』っていうんだって、前に聞いたけど?」

「ははは……。ごめん、そうだったね」

 一緒に過ごしたときにそういう冗談をよくアンジェラに言ったものだった。すっかり忘れていたのに、アンジェラはちゃんと覚えている。すごい記憶力だ。

「とりあえず、スヴェータに話をしない?」

 スヴェトラーナならアンジェラを知っているから、問題なく話が通るだろう。アーティスの提案にしばらく考え込んでいたアンジェラは顔を上げた。

「うん。スヴェータならいいよ」

 内心ホッとした。彼女がいてくれれば心強い。アンジェラを守りたいが、自分一人で完璧に彼女を守りきる自信はなかった。自分が完璧な人間だなんて幻想を抱いて大事な人を失うよりは、素直に手助けを求めるのも一つの選択だと思う。

「よし。それじゃ朝になったらスヴェータに連絡してみよう」

 時計を見るとすでに時間は午前三時。いくらなんでもこの時間にスヴェトラーナに連絡するのは非常識だろう。ベットから勢いよく立ち上がり、アンジェラの手からマグカップを受け取った。まだ喉が渇いているだろうアンジェラのために、新しい紅茶を作る。柔らかく紅茶の香りが漂うまで、アンジェラは黙ったまま考え込んでいた。きっと死んだフォリッジのことを考えているのだろう。だからあえて明るくマグカップをアンジェラに渡す。

「はい、僕の特製紅茶」

「特製紅茶?」

 怪訝そうに首を傾げるアンジェラに、アーティスはデニスを真似た口調で明るく言い切った。

「そう、思いやりがたっぷり入ってお得だよ」

「ふざけてるでしょ?」

 アンジェラは上目遣いにそういって、口を尖らせた。アンジェラがよく見せる、本来の子供っぽい表情だ。

「ふざけてないよ。思いやり以外ティーパックじゃ入れようないしさ」

 大げさにそういって肩をすくめると、堪えきれないようにアンジェラが吹き出した。

「もう、子供みたい」

 その口調と表情に、一瞬だけ既視感を覚えた。前に一度こんな事があっただろうか? いやそれよりもこの表情とこの口調、どこかで見たような気がする。それもすごく昔に。急に黙ってしまったアーティスに不安を覚えたのか、自分の名前を呼ぶ声で我に返った。

「どうしたの?」

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

「疲れてる? 私、急にここへ来たから……」

 アンジェラの表情がみるみる曇る。本当にコロコロと表情がよく変わる子だ。そんなところからも子供っぽさが感じられる。今はもう十代後半の年齢に成長したというのに、どうしても初めてあったときの少女のアンジェラのイメージが抜けない。

「違うよ、アンジェラのせいじゃない。ちょっと考え事をさ」

 奇妙な既視感を振り払うように、アーティスは無意識に予備のベットパットを壁の格納部分からとりだした。ベットは一つしかないから、自分はこれで寝れば何とかなるだろう。

「アンジェラも疲れてるだろ? お茶を飲んだらちょっとでも寝た方がいい」

 ベットパットを抱えて振り返ると、アンジェラが不思議そうな顔で見ているのに気が付いた。

「どうしたの? 何か変?」

 尋ねるとアンジェラはこくりと頷いた。

「どうしてベットパットを出してるの? 前にみたいに一緒に寝ればいいのに」

 不思議そうにいわれて思い切り虚をつかれた。頬が熱くなるのを感じる。何と言ったらいいか分からずに口ごもると、アンジェラは益々首を傾げた。

「前には一緒に寝てたよ?」

「いや、そうだけどさ。あの、やっぱアンジェラは女の子だし」

 前に起きた時は、まさか彼女が人間だなんて夢にも思っていなかったから、眠るときアンジェラがベットに入って来ても何も言わないでいた。今から考えると、アンジェラが十代前半くらいの歳と若く、その上アンドロイドだと決めつけていたからできた芸当だと、切に思う。しかも今回は成長して、大人の女性に近づいているのだ。この状況に動揺せずにいられるはずもない。

「……変なの」

「うん、ごめん」

 すごすごとアンジェラに背を向け、ベットパットを抱えて隣のモニタールームへ移動しようとすると、アンジェラに後ろから抱きつかれた。普通の女の子だと意識してしまうと、どうしようもなく動揺してベットパットを取り落とす。

「私のこと、嫌になったの?」

「そんなことない!」

 寂しそうな言葉と声に、思わずそう断言してしまってから、うかつな自分の言葉に呆れる。これでは何の理由をあげても彼女から離れてみても意味がない。案の定アンジェラはその言葉に嬉しそうに反応した。

「じゃあ一緒に寝ようよ」

「いや、それとこれとは……」

 口ごもるアーティスの背中に、温かな感触が伝わってくる。アンジェラの頬が背中に触れているのが分かった。愛おしさにも似た感情が、沸々とわき上がってくるのを感じる。たがアンジェラがポツリと呟いた一言で、心が決まった。

「……もしかしたらフォリッジを殺した人がどこかで見てるかもしれないし」

 体に回されたアンジェラの細い腕から、微かな震えが伝わってくるのが分かった。天井を見上げて大きくため息を付く。今日初めてあった他人から、殺されるから逃げろとせき立てられ、そういった人が目の前で死ぬ。そんな惨事を目の当たりにしてたった一人部屋で過ごせと言うのは、酷なのかもしれない。

 そっとアンジェラの腕を撫でるときつく自分にしがみついている手を優しく解き、その手のひらを自分の手で包みこんだ。震えが徐々に消えていく。今の彼女には頼れるものが自分しかいないのだ。そう考えると突き放すことなどできるわけがない。

 それにアンジェラが人間だと分かったときから、自分はおそらく……彼女に恋しているんだと思う。

 腕をゆっくりと自分から放して振り返と、そこには不安そうにアーティスを見上げる緑の瞳があった。その印象的な目に、優しく微笑みかける。

「分かった。今日は一緒に寝よう」

「本当にいいの?」

「明日からはスヴェータの所に泊まるってことでどうかな?」

「うん」

 嬉しそうにアンジェラが頷いた。おそらく緊張で一睡もできないに違いない。

 長い夜になりそうだった。

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