<14>
アーティスは静かに木の下で微睡んでいた。冷凍睡眠から目覚めたばかりでまだ眠い。そんなことをいったら、またドクターに笑われてしまうだろうか。
大きく伸びをすると森の空気を吸い込んだ。濃い緑の香りに、幸福なため息が漏れる。本物の森の香りだ。アーティスに向かって吹く風の先頭には、きらきらと輝く生命体がいる。仲間たちはその存在を精霊と呼んだ。
惑星エデンは、アーティスから見ると魔法の星だった。生きとし生けるもの総てが生きる喜びに満ちあふれていた。風には風の精霊が舞い、海には水の精霊が泳ぎ、土には土の精霊が歩き、燃えさかる炎の中では炎の精霊が暴れ回っていた。地球とはあまりに違うエデンでは、そんな精霊たちが『聞く者』である五人を優しく受け入れてくれたのだ。
滅び行く地球の呪いと悲鳴しか聞くことが出来なかった五人は初めて、自分たちに与えられた『聞く力』が、自然に宿る生命たちの象徴である精霊たちの声を聞く能力であったことを知ったのである。
それを初めて知ったアーティスは、涙をこらえることが出来なかった。『聞く者』は呪われた存在ではなかった。生きている自然と共に生きるために与えられた、生命の声を聞く能力だったのだ。
西暦二五九四年。あの事件から既に三十年という年月が流れていた。
結局アーティスは、仲間に全ての真実を話さなかった。アサギとエネノアの出自と、何故超人を作ろうとしたのかだけを話し、暗黙の了解でアサギだけに罪を押しつけた。それが一番簡単だったからだ。アンジェラは守りきれず死なせてしまったことにした。彼女がエネノア本人のクローンだったなんて言えない。
多分に嘘が入り交じったアーティスの説明をみんなは分かってくれていただろう。本当のことがどこにあるかも察してくれていたかも知れない。でも誰も何も言わず、アーティスの嘘を信じたふりをしてくれた。みんなアサギとエネノアの狂気が理解できたのだ。まかり間違えばそれは自分たちの姿だったかも知れない。
分かっているけれど、悪役となったアサギを悪し様に言ってみても、本当は誰も本心から憎むことなど出来なかった。それでも喪失感と孤独感を埋めるためには、ただ誰かを憎まなければやりきれなかった。
アンジェラの遺伝子である髪は、凍結保存し大切に封印した。アサギの遺伝子が残されていない以上、二人の幸せを見る夢は叶わないから、アンジェラの髪のことは忘れるしかない。やはりアーティスはどう足掻いてみたとしても、ピグマリオンになれそうにない。
同じ神話の登場人物であるならばピグマリオンよりも、一瞬の躊躇いでアンジェラの手を放してしまったあの瞬間を思えば、愛する妻を信じ切れずに失ってしまったオルフェウスの方が合っている気がする。
オルフェウスとは違って竪琴を奏でるような音楽センスはないけれど。
事件後に全員総出で大陸に降りて調べてみると、作られた超人類は六種族いることが分かった。その全ての人種が惑星エデンの一番大きな大陸に存在している。惑星エデンは大陸が少なく、海が多い星なのだ。海上に浮かぶ無数の島々の大きさは千差万別だが、大陸と言えるようなものは、その大陸しかなかった。
彼らはきちんと棲み分けがされており、彼らはお互い出会うことが少ないようになっていて、ほとんどは『聞く者』としての能力を備えていた。人間から生まれた『聞く者』同士の掛け合わせで『聞く者』が生まれる可能性は低いが、クローンニングで生まれた彼ら新人類の同士の間に生まれた子供は例外なくその能力を引き継いでいるようだった。子供を持てないエネノアが、自分の子供を生き物として成り立たせると言っていたのはこういうことだったのだ。
当然ながら『聞く者』の能力を持たない種族もいる。彼らはその代わり人間を遙かに凌ぐ強靱な肉体を持っていた。人間を超えた存在。これがアサギとエネノアの言う進化なのだろうか。
採取した遺伝子サンプルから見て、エネノアの遺伝情報が全ての人類に反映されていたが、エネノアの直系と言うべき濃い遺伝子を持っているのは一種族だった。そしてエネノアの種族と同じようにアサギの遺伝子を色濃く持つ人類も存在していた。調べてみると他の種族のほとんどが、ここにいる五人の遺伝子を元に作られていることが分かったのだ。
どうやらエネノアは自分の遺伝子を元に第一世代を作り、第一世代を元にして他のメンバーの遺伝子を追加しつつ種族を作ったようだった。そのことから人間を憎んでいたエネノアが、仲間だけは大切に思っていたのだということ知り、少なからず救われたような気がした。
仲間たちはみなエネノアを敬愛していたし、彼女の力になりたいと思っていたからだ。
それ以外にも明らかに人間の、奇形だと分かるような生物も存在していた。彼らはアサギの遺伝子を受け継ぐ種族のいる地域に集められて、アサギの血を引く一族によって保護されていた。自分たちと同じように人体実験の末に生み出された種族を、アサギが哀れに思っていたのだろう。
完璧主義のアサギは、本当は優しい人だった。
その超人類の行く末を一種族につき一人、担当者を置いて見守ることに決めた。自分の遺伝子を受け継ぐ種族を担当するのが割り振りとして楽だったからそうなったのだが、アーティスには自分の遺伝子を反映させた一族が存在しなかった。
おそらく彼らが作られた時、もうアンジェラと出会っていたアーティスにアサギが何らかの配慮をしたのかもしれないが、アサギがいない今、本当のことは分からない。
だからアーティスはそのうちの、長寿命を持つ二種の超人類を担当することになった。エネノアの一族と、アサギの一族だ。彼らの遺伝子を調べてみると、千年近くの寿命があることが分かったのだ。長い長い間の監視になるだろうけれど、それは彼にしかできないことだった。何故なら彼は地上へと降ろした『箱舟』を出来るだけ長く生かし続ける役割を引き受けたからだ。
他の仲間は、残った受精卵を再生して生まれた、たった百人の人類を連れて彼らの導き手として地上で彼らと共に暮らすことになる。彼らは二度と『箱舟』に戻ることなくこの惑星に永住する事を決めたのだ。彼らにとって辛い思い出の残る『箱舟』は、もはや振り返りたくない過去になっていたのかも知れない。
でもアーティスは『箱舟』を離れずにいることを決断した。数百年のスパンで冷凍睡眠から目覚めながら、惑星の行く末を見守り続けるのだ。寿命の度にエネノアがしたようにクローンに自分の人格を移植して永遠に生き続けるのが、アーティスの役目となったのだ。
この世界を守るために。
再び過ちの歴史を繰り返さぬよう、最後の人類を監視するために。
そう、それはまるで遠い神話の神のように……。
「アーティ、ここにいたか」
壮年の男が、アーティスに片手を上げて見せた。年は五十歳を過ぎているだろうか? だが口調ですぐに誰だか分かった。
「おはよう、デニス。すっかりおじさんだね」
からかい口調に苦笑しながら、デニスはアーティスの隣に座った。もう昔のように絡んでこないのが少し寂しい。
「お前が若すぎるんだ。いつまでも若いままいやがって」
「はは、同い年じゃん、僕ら」
アーティスは年を取っていない。まだ二十代も前半といったところだろう。あの事件以後、全ての段取りを決めてすぐ、まるで逃げるように冷凍睡眠に入ったからだ。考えることが無くなることが恐ろしかったから、慌ただしく仕事をしてそして長く眠った。少しでも自らの苦痛を忘れたかった。その間、デニスは新しい人類の指導者として人類を率いていた。マサラティも、スヴェトラーナも、ケイファも、みな指導者として人類を約束の地へと導こうとしているのだ。
「明日、行くんだよね?」
分かっていけれど、そう尋ねてしまった。
「ああ」
小さくデニスが頷いた。視線がアーティスの後方に向けられる。
そこには白銀の機体をさらす巨大な『箱舟』があった。まだ人類が入植していないこの地には、この巨大な航宙船を着陸させる場所がいくらでもある。
箱舟の周囲で訓練を行っていた彼らも、いよいよ自分たちの土地を目指して旅立っていく。そうなればもう『箱舟』の姿を見ることはないだろう。
箱舟は全員を見送った後、アーティスを乗せて大陸中央にそびえる巨大な山脈の頂点に停泊し、永遠にそこにとどまることになるのだ。人々の目には見えないように、ただひっそりと、空から人々を見守る。それがアーティスに与えられた使命だ。
「そっかぁ。ついにお別れ、かな?」
「あっさり言うなよ、相棒」
「ごめん」
素直に謝るとデニスは肩をすくめた。そんなところが変わらなくて嬉しい。
「この船を無事に接地し終えたら、会いに来いよ」
デニスは遠くを見たままそういうと、黙った。気を使っているんだということがすぐに分かる。アンジェラを失って、その上この船でたった一人、永遠に生きなくてはいけない自分に。
だからあえて微笑んで冗談を言って見せた。
「うん。ナノマシンを使って『箱舟』から各地へ繋がるトンネルを掘るつもりだから、それが出来たらのんびりとケイファとの夫婦げんかを眺めに行くよ」
「! 何で知ってるんだ?」
「あれ? 当たっちゃった?」
とぼけるとデニスは、真っ赤になって技をかけてきた。
「この野郎、鎌かけやがったな!」
「だって、絶対にそうなるって思ってたもんね。で、子供は何人いるの?」
「こいつ!」
しばらく二人で子供のように格闘技のわざのようなものを草の上で転がって掛け合った。きっと他人から見ると、父親と戯れる子供に見えるだろうなと、客観的にそう思う。
「ギブ、ギブ! 僕の方が圧倒的に不利だよ!」
「何でだよ。お前の方が若いだろ」
「何言ってんの。僕は起きたばっかだよ。体力ないからとにかく降参」
そういって降参すると、不意にデニスは真剣な顔をした。
「アーティー……ごめんな」
「え?」
「お前だけ、長い時間を一人で生きることになっちまう」
「……デニス」
「みんなもそう思ってる」
だからみんな自分を探しにこないのか。おそらくかける言葉が見つからなくて。
「僕のことは心配いらないよ。『箱舟』を降ろしたらちょっと世界を旅しようと思ってるし、その時みんなに絶対に会いにいく。約束するよ」
「本当だな?」
「うん。それにトンネル通すっていっただろ? 帰って来たくなったらいつでも帰ってきていいからさ」
アーティスが明るくそう言いきると、不意にデニスは起きあがって座り直した。黙って隣に座る。
「たぶん、俺たちはもう……『箱舟』に戻らないと思う」
「……うん」
分かっている。ただ言ってみただけだ。
仲間たちはみな幼い頃から色々な荷物をその背に背負い続けてきた。もう自由になることが許されるはずだ。
ただアーティスは自分を自由にすることが許せない。一瞬の躊躇いで放してしまったあの手を忘れてはいけない。アンジェラにはもう二度と許して貰えないのだから。
「ごめん」
「いいよ。僕にとってもエデンは本当に楽園だ。それを守れるなら何でもするさ」
あえて明るく言うと、デニスは一瞬顔を歪めてからアーティスを抱きしめた。暖かかった。こうして心許し合える友がいてくれることが、本当に幸せだ。だけどこれからは一人で生きて行かなければならない。
アーティスを放したデニスは穏やかに微笑みながら静かに言った。
「……お前が寝てる間に、みんなでこの大陸の名前を決めたんだ」
「なんて?」
「エネノア」
「え?」
「エネノア大陸。お前さえよければそれで決定だ」
エネノア……。
彼女が夢に見、アサギが命を賭けた超人類の王国。
憎んだ自らの身体を分解し、再構成して作り上げた、理想の楽園。
それでもここは彼女の大陸だ。
「いいね。うん、いいと思う」
「だろ?」
本物の風が柔らかく頬を撫でる。きらきらと輝く命の煌めきが、子供のように無邪気な笑い声を二人の耳に残した。
全てが終わり、全てが始まる。
しばらく黙っていると、デニスが小さな声で歌を口ずさんだ。もの悲しく美しいメロディだった。
「何の曲?」
尋ねると、デニスは小さく笑った。
「賛美歌。神を信じず、人身売買していた男が嵐に遭って死にかけて、初めて信仰を持って、神の愛を知り、作った歌だそうだ」
「……そりゃあ壮絶だね」
人身売買とクローンの売買、遠いようで近い。
だけどアサギは例え何があろうと、信仰を持つことなどしないだろう。
何故かそう思った。
「神はいないかもしれない。でも信じられるものがあった方が人は強くなれるよな」
信じられるもの。
それは人であり、信念であり、そしてやはり神なのかもしれない。
「ちゃんと歌ってよ」
「俺が?」
「デニスしかいないだろ」
「何だか恥ずかしいな」
「いいからいいから、頼むってば」
急かすとデニスは照れたように人差し指で鼻をこすった。
「じゃあ、最初で最後だぞ?」
「うん」
「デニス・クリフォードで『アメージング・グレイス』」
のちに、エネノア大陸には創世神話が出来た。
神を否定した人から作り出された人類が、神話を持つ。
しかも彼らが神々とあがめたのは、この七人の事であったことは、皮肉なのだろうか?
女神を中心とした創世神話はやがて、この世界を支える信仰の主柱となり、世界を動かしていく事になるのだろう。
彼らの悲しみを、知らず知らずのうちに受け止めながら……。