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「こんなところに扉があったんだ……」

 設計図にはなかった扉の存在に、アーティスはため息を付いた。設計段階ではこの生活プラントの壁の向こうは農場プラントになっているはずだった。この二つを繋ぐ通路は別口で二カ所あり、こんなところに隠しておく必要は全くないはずだ。

「おそらく光は、ここからだね」

 そうアンジェラを振り返ると、彼女は心持ち暗い顔で頷いた。何だか彼女はこの扉を見付けたときからふさぎ込んでいるように見える。エリア16の最深部に着き、フォリッジの死体の映像を頼りにその扉を見つけ出すのに、数時間かかった。『箱舟』の機能を使わないことは、思いの外大変だったがそれでも使わないのは、半ば意地のようなものだった。

 フォリッジの死体があった場所に自分で寝転がって、アンジェラにフォリッジの映像と見比べて死体の向いていた方向を定めてから、光の当たった角度を計算して行き合ったところにこの扉があったのだ。注意してみなければ分からないように、その扉は木々と同じように塗られていた。

「大丈夫?」

 俯き加減のアンジェラにそう尋ねると、アンジェラは頼りなげに微笑んだ。

「変なの。この扉を見た瞬間に、懐かしいような怖い感じがして……」

「懐かしい?」

「うん。怖いなら分かるの。殺されかけたんだもの。でも懐かしいのは何でだろう……」

 彼女は前に、自分の記憶の封印を解いて何かを始めろと声がするといった。今彼女の記憶が何かを始めるために解かれかかっているのだろうか。

「思い出しそう?」

「分からないの。何かこう……届きそうなのに届かない感じなんだけど」

「そう。無理しないでね」

 優しく慰めたが、アンジェラの状況を見る限り、やはりこの扉の先に何かがある。それはアーティスの中で疑いから核心に変わった。

「思い出したいのに……分からない……」

 小さく呟きながら考え込むアンジェラは、無意識に唇に軽く握った手の指を当てて首を傾げた。その姿に頭の芯がスッと冷えた。この癖……見覚えがある。

 ……エネノアの癖と全く同じだ。

 まさかアンジェラは、エネノアなのだろうか? エネノアが死んだのは、二四六五年だと『箱舟』は認識している。アンジェラと出会ったのは、アーティスが目覚めた二三八四年だ。そう考えると、アンジェラが生まれたとき、エネノアはまだ生きていたことになる。もしこの時点で時間がずれていたなら、エデンの惑星地球化に無理が生じるだろう。だとしたら、アンジェラとエネノアの二人が同時に存在していた時期があったということなのだろうか?

 見た目がそっくりなのは、彼女の出自にアサギとエネノアが関わっていてそうなった、という理屈がつけられる。技術的な問題から考えれば、エネノアになら、髪と目の色が違う自分のコピーを作ることは可能だ。可能と言うより、簡単なことだろう。そんなことは、今から五百年以上前の生命工学者達がとっくに証明している。だが癖までもが一緒なのは、説明が付かない。ある人物のクローンを作った場合、外見は全く同じであっても全くの別人であるからだ。

 疑問と共に怒りに似た感情がこみ上げてきた。どう考えてみても、彼がアンジェラという一人の人間を弄んだことに違いはない。そして沢山の受精卵をもののように扱ったことも。

「行くの?」

 自分の考えに捕らわれていたアーティスを、アンジェラの一言が引き戻す。振り返ると、彼女の視線がじっと自分に注がれている。その顔には不安はあるが、恐れはない。

「アンジェラはどうする? 待っていてもいいんだよ?」

 この扉を開くと彼女の記憶が戻ってしまう、そんな予感があった。自分はずるいのだろう。そうなって彼女を失いたくないから、こうして前もって彼女を引き留めようとしている。そんな弱さに気が付いたのか、アンジェラが小さく微笑みながら少し背伸びをして、アーティスの頬に両手で触れた。

「アンジェラ?」

 聞き返してアンジェラを見ると、そっと彼女の唇がアーティスの唇に触れた。暖かくて柔らかい。

「約束したよね」

 静かに唇を放して、アンジェラは囁く。

「約束?」

「私の記憶が戻って今の私を失っても、今の私がアーティーを一番大事に思っている事だけは、絶対に忘れないでって」

「……アンジェラ」

「私はアーティーを愛してるの。誰よりも大好き。これが今の私自身の気持ち」

「……ありがとう。でもアンジェラ……」

「この先に何かあるのは間違いない。アーティーはこのままじゃ駄目なはずでしょう? 受精卵を救わないとならないんでしょう?」

 決意に満ちた彼女の顔は、今まで見た中で一番綺麗に見える。そんな彼女を前にぐだぐだと悩んでいるのは間違いだと悟った。

「いいんだね?」

「ええ」

 本当に一番怖いのは、彼女のはずだ。真実を知ってしまえば、彼女は今の自分を失ってしまうかもしれないのだから。でも彼女は心を決めたのだ。犠牲になる受精卵のため……ひいていえば、アーティスや犠牲になったスヴェトラーナのために。

 それなのに、ここで自分が迷うわけにはいかない。

「『箱舟』、この扉を開けてくれ」

『個別管理区なので、管理者の許可が必要です』

「誰の許可を取ればいい?」

『エネノア・ノイマン、もしくはアサギ・トモナガ』

 やはりここは、あの二人だけしか知らない特殊な部屋なのだ。アサギは自分を探してみろといった。それはアーティスが知っている場所にはいない、という事実の裏返しだったのではないだろうか? だとしたら、ここが正解に違いない。

「『箱舟』、この部屋の中にいる管理者に許可を取ってくれ」

 一か八かの賭でそう尋ねる。もしこの場所にアサギがいるなら、彼のことだから自分たち二人を迎え入れるに違いないと、核心があった。しばらくの沈黙の後、『箱舟』は答えた。

『管理者より許可がありました。扉を開きます』

 ゆっくりと開いた扉から、暗い森の中に明るい光が漏れた。

 まるで夕焼けのようなその色は……赤みがかったオレンジ色……。

「遅かったな」

 静まりかえったその空間に、その言葉は大きく響いた。それと同時にゆっくりとこちらへと向かって歩いてくる、硬質な足音が重なる。

「お前が無謀でなくてよかったよ。他の連中は、どうも血の気が多い」

 目が慣れる前に、中にいた人物はそう語りかけてきた。低く冷静でいて、からかいを含んだその声が誰のものかは、顔を見ずとも分かった。

「アサギ……」

「俺とエネノアの研究所へようこそ」

 目がオレンジの通路の先に立つ、長身の男を捕らえた。彼はオレンジ色の光に照らされ、静かに微笑みを浮かべてそこに立っていた。ほんの数日見なかっただけのはずなのに、アサギは随分と疲れているように見えた。この数日に一体何があったのか、アーティスには想像もつかない。

「アサギ……みんなは?」

 先ほどの言葉が引っかかって、まずはそう尋ねた。

「本当に殺したの?」

 声に混じった不信感に気が付いたのか、アサギは苦笑に近い微笑みを浮かべた。

「眠ってる。俺が本気で仲間を殺すと思ったのか?」

 ……思うわけないよ……と答えたかったが、いつものような言葉は全く浮かばなかった。このアサギは、フォリッジを殺した人間なのだ。

「そう思ったよ」

「……そうか」

「ドクターは部屋に残ったけど、どうしてる?」

「眠って貰った」

「……そう」

「お前と二人で話をしたかったんだ」

 先ほどから、アンジェラは全く言葉を発しなかった。ただ黙ってアーティスの背中に捕まっている。その手が時折震えるように力が入るときと、緩むときがあるのは、動揺しているからだろうか。重苦しい沈黙の中で、アサギに狙われているアンジェラを完全に背中に庇いながら、オレンジ色の光の源をちらりと窺った。それは円筒形に作られた強化のガラスに包まれた液体だった。時折空気が抜けるのか、小さな音を立てている。これと同じようなものをアーティスはよく知っているし、それを取り扱うことも出来る。

「こんなところに何で『ゆりかご』があるの?」

 『ゆりかご』――それは、人工子宮の通称だ。羊水に限りなく近い成分に調整された液体が注入され、中に入れられた受精卵を自立歩行が可能な状態にまで育てるために作られた。この『ゆりかご』の中央に、胎盤に近い働きをする膜に包まれた受精卵を投下して生命を育てるのである。人間の受精卵ならば、通常自立歩行が可能な状態にまで、三分の一という時間で育てられてしまう。

 船の中央には、ほ乳類のための『ゆりかご』専用のプラントもあり、小動物用のものから、人類に至るまでの多種多様な『ゆりかご』が何百という単位で置かれている。約束の日からこの中の人類用のものをフル稼働して、人類の再生を始める予定だったのだ。

 だがこの『ゆりかご』はアーティスが知っているものとは、人工羊水の色が違う。現在使われる人工羊水は、限りなく透明に近いのだ。こんなオレンジ色はしていない。

 じっと見据えると、アサギはいつも通り、口の片側を上げてからかうように笑った。

「必要だからさ。必要じゃなきゃ、こんなところに置きはしない」

「何のために?」

「人間を超えるためだ」

 あっさりとそういったアサギの言葉のあまりの重さに、思わず息を呑む。目眩がしそうだ。

「自分で言っている言葉の意味、分かってる?」

 呟くようにそういうと、静かにアサギは微笑んだ。

「分かってるさ。倫理的に、分化が進んだ受精卵は一人の人間と見なし、実験材料とすることを禁じられてるって事がいいたいんだろ」

「分かってるならっ……!」

「知らないようだから教えてやる。その倫理観は『希望の弓矢作戦』が失敗して『聞く者』が生まれ初めて以降、一部で完全に失われたんだ」

「失われた?」

 そんなことはきいたことがない。生命倫理は、神を失った宗教倫理と違って生き続けていると、そう教わってきたのだから。

「そうだ。人類が滅亡しないために、いかなる犠牲も厭わずという国際協定が結ばれたんだ。その協定の中では、すでに人類の遺伝子改変は認められている」

「ウソだ」

「ウソじゃない。それを知るのは生き残った大国の中央にいるものだけだがな」

「そんな……」

 それは人体実験が可能になっているということだ。そんな酷い現実、有り得ない。頭でそう否定するが、心はそれも有り得ると肯定している。感情と技術者としての理性が頭の中で激しくせめぎ合っている感じだ。そんなアーティスにアサギは無表情で残酷な言葉を続けていく。

「その倫理観を失った一部の研究所が、俺たちのいた研究所だ。そして、その国際協定が結ばれた最初の年から数年かけて完全なる人類を作る計画が実行された」

「完全なる人類?」

「ああ。『聞く者』が神が地球を救うためにもたらされた使者ならば、より完全な使者が作れないかと、そう研究所の連中は考えたんだな」

 『聞く者』が神の使者……。そんな話を聞いたことがある。だが自身がそうである以上、その考えは決して正しくないと思っていた。だがそれを信じた人もいたのだ。

「そこで彼らは作ったのさ、『聞く者』を幾人も使って、より完璧な『聞く者』をね」

「『聞く者』を使って?」

 聞きたくないが真実を知らなければいけない。迷う中で言葉だけはアサギに続きを求める。

「文字通り、使った。人体実験だな。『聞く者』の五割は狂死するだろう? その狂った『聞く者』を使って行ったようだな。初めは『聞く者』同士の交配からから始まったらしい。殆ど家畜の扱いに等しかったそうだ。両者の間に出来た子供が、『聞く者』だった場合、その子供をまた『聞く者』と掛け合わせる……二〇世紀から行われてきた単純な実験だ」

 嫌悪感がこみ上げてきた。想像しないようにしようとしても、その地獄絵図は頭に浮かんでしまう。狂ってしまったとしても、彼らはアーティスと同じ……同胞のようなものなのだ。そんなアーティスを見ることもなく、淡々とアサギは言葉を続けていった。

「だが一定の成果は出せたが、満足のいくものではなかった。だからその結果作られた最も有能な『聞く者』の遺伝子を使い、放射能に耐性を持ち、高い免疫力を有し、運動能力が高く、寿命の長い人類を作ろうとしたんだ。いわば究極の人類だな。だがこの実験をしていたのは普通の人間だ。お前も知っているだろう? 遺伝子工学が飛躍的に発展したのは、この分野の研究者が大半『聞く者』になってからだって。つまりこの実験はあまり上手くはいかなかった。……一つの例外を除いて」

 不意にアサギが黙った。アサギの声だけが響いていた空間に、奇妙なまでの静けさが戻る。アサギが、疲れたように自嘲の笑みを浮かべた。

「なあ、全ての真実を知りたいか?」

「え?」

「真実を知ることが幸福へ繋がるとは限らないんだぞ? それでもお前は知りたいか?」

 その言葉に怯んだ。何も知らなければそのままでいられるといわれると、それなら聞きたくないと思ってしまう自分も確かに存在している。だが聞かなければここからどこへも行けない、自分の感情も存在しているのだ。

 しばし逡巡した後、ようやく答えが出た。どこか放心したように背中にしがみついているアンジェラの存在も、この話を聞かなければ分からないのだろうと理解したからだ。

「……知りたい」

「そうか……」

 アサギはどこか安堵したように、柔らかく微笑んだ。初めて見たその表情に、不安が押し寄せてくる。自分は何か選択を間違えたのではないか、そう思ったが、もう取り返しが付かない。

「何百もの『聞く者』同士が掛け合わされた受精卵に遺伝子操作が施され、まだ不完全だった『ゆりかご』の前身に入れられた。殆どが受精卵のまま分化をやめ、胎児まで育ったものの多くが、奇形だった。そんな何百の受精卵の中で、ほんの数個だけが多少知能が高いだけの、普通の『聞く者』になった。遺伝子改変で強化した部分は、成功したのか分からなかったから、この実験はすぐに中止された。莫大な費用をかけて普通の『聞く者』を作り出すよりも、産まれる『聞く者』を世界中から集めて研究者にした方が余程早かったからな。つまり、究極の人類は作れなかったんだ。そのプロジェクトのメンバーは誰もがそう考えた」

 何かを思い出すように、アサギは『ゆりかご』の強化ガラスを優しく撫でた。無意識にその手を眺めてしまう。ガラスに触れるアサギの手は、どこまでも優しい。それが怖かった。この『ゆりかご』に何らかの秘密があることだけは間違いがないからだ。黙っているとアサギは一呼吸置いて再び話し始めた。

「その中で産まれながらにして成長が著しく遅い被検体が二体あった。実験チームが解散して、そこで作られた『聞く者』達は、研究チームの人々に法律上の養子として引き取られていたんだが、たまたまその二体は同じ人物に引き取られていたんだ。その人物はマイヤース博士夫妻という。初期『聞く者』研究の第一人者としてお前も名前ぐらいは聞いたことがあるだろう?」

 確かに知っている。自分たちが一体何者かを研究する上で必ず通る道だからだ。マイヤース博士夫妻は、『聞く者』の特殊能力と知能研究、そして脳の特殊覚醒部分を研究した人物であり、高潔な研究者であったという。なのにそんな実験に参加していたなんて、信じられない。

「彼らは他の研究者に知られないよう、密かに遺伝子検査を行って、その二体が遺伝子改変に成功し人類よりも遙かに長く寿命を持ってしまった事を知った。だが彼らは『聞く者』に対して行った非道な実験を悔いていたから、それ隠し通そうとした。もし知られたなら、この二体がまた実験の対象にされることが分かっていたからだ。だが本人達には、実験の酷さと共に全てを語って聞かせていた。時に泣いて、詫びながらな。正直で、嘘の付けない人達だった」

「まさか……」

 アサギの口調が淡々としたものから、懐かしさの入り交じったものになるうちに、真実に気が付いた。あまりのことに信じられず、アサギを凝視してしまった。アサギは小さく頷く。

「そうだ。その二体の実験体がマイヤース博士夫妻に付けて貰った名前がエネノア・ノイマンとアサギ・トモナガだというわけだ。俺とエネノアは、そうして作られた」

「うそだ……」

「この期に及んでウソを付く必要はないだろう? 全て真実だ」

「だって二人ともまだ若いだろ? 『聞く者』の初期研究って、どれだけ前のことだと思ってるの?」

「よく考えて見ろアーティー。おかしいと思わなかったのか? エネノアと俺が恒星間航行船を使って地球外に出るという計画が、簡単に通ってしまった事に。恐ろしいほどの予算がかかっているんだぞ?」

 言われてみるまで考えても見なかった。エネノアが生命工学の第一人者だというのは有名だったし、アサギの優秀さも知っていたから、選ばれて当然だと思っていた。だからこそ計画が認可されたのだと……。

「全ては俺とエネノアが、この為に何十年もの時間をかけて仕組んだことだ。俺たちの育ての親から聞いていた遺伝子改変を研究し直して、完璧なものとして成功していたそれを隠した。人類に奪われてたまるかってな。その代わりに禁じられている人間のクローニングで各国の主要人物のクローンを作って、研究所の地下で取引していた。放射能の影響で癌の発生率は高かったから、俺たちの元には大量の顧客が集まってきていたよ。当然だな、生きているドナーがいつでも手に入るんだ。しかも拒否反応はない。脳さえ残っていれば、そっくりそのまま体を取り替えることも出来る」

「『ゆりかご』を使って?」

「そうだ」

「そんなのは……」

 大声で否定したつもりだったのに、掠れたように言葉は尻つぼみになってしまった。アサギがふっと嘲笑するかのようにこちらを見た。

「汚い事か? きれい事だけじゃ、あいつの夢は叶わなかった」

「自分たちの夢のためなら何をしてもいいって言うんだね?」

「そうだ。あいつのためなら、俺は何をしても構わない。それがどんなことでも、例え人間を切り売りするような事でも」

 その言葉には、あまりに迷いがない。彼は本気でエネノアのためなら何でもするのだろう。初めてアサギの中に秘められていた、エネノアへの狂気に近い愛情を知った。無表情なのに、まるで取り憑かれたかのように、アサギは言葉を続ける。

「完全に顧客達の信頼を得て、何十年の時間を過ごし、一気に反撃に転じた。彼らを脅迫してこの『箱舟計画』を認めさせたんだ。彼らの全てが国家の重鎮だからな、人体実験まがいのこんな取引は、致命的なスキャンダルだ。だが俺たちを潰せば、今後彼らのクローンを作ってくれる人間はいなくなる。それも彼らにとっては致命的だったのさ」

「酷い話だ」

 他に何が言えるだろう。アサギも酷いことをしているが、それを求め続けた人間達も酷すぎる。

「そうかな? 俺はそう思わない。その御陰で俺とエネノアはここ惑星エデンで、完璧な人類を作り上げ定着させられたし、彼らは彼らでこの計画に打算を持って費用を出している」

「打算?」

 この状況で、脅迫された人間に何の利益があるというのだろう?

「そう。彼らは二つの条件を取り付けてきた。一つは研究所の他のチームにクローニングを引き継いで、彼らのクローンを作らせ続けること。そしてもう一つは、各国が所有する『聞く者』を一人ずつ乗せてエデンの所有権を各国に分割委譲することだ」

「それは……僕たちのこと?」

「ああ、お前達のことだ。知っていたか? 俺たち『聞く者』はすでに国に所属しているのではなく、国の所有物として扱われているのさ」

 やけに明るくアサギはそういいきった。自分が所有物……。考えてもみなかった。国から遠く離れて教育のためにここへ来たと、そう聞いた。だから自分の国のことを学ぶことだってした。だけどそれは、自分が所属する国を知りたかったからだ。自分を所有する主人を知りたかったからではない。

「……そんな……」

「そう、もちろん真実は少数の人間しか知らない。あまりに人権を無視した考え方だしな。だが人類が滅亡に瀕した現在、そんなことをいってはいられないというのが、大国の言い分だったんだ。所有物なら、好きに使えるってな」

「ウソだよね?」

「この期に及んでウソは付かんと言わなかったか? お前は奇妙だと思わなかったか? 七人の乗組員のうち、五人がバラバラの国に所属していることに。効率から考えれば、偶然にそうなることなんてあり得ない」

「じゃあ僕らは、エデンを分割して支配するために……最初にその地の利権を争うためにこの船に乗せられたの?」

「そうだ。地球化が成功したら、冷凍睡眠で大量の人間が送り込まれてくる計画だった。お前達が勝ち取った土地を求めてな」

 そしてまた、この惑星上で同じ事を繰り返す……。そういうことなのか。なんて愚かで、なんて虚しい事なんだろう。その為に自分たちはいるなんて。

「……それを知っていて、アサギとエネノアは計画を実行したの?」

 尋ねる声が憤りで震えていることに、自分で気が付いた。アサギはじっとこちらを見つめ返してくる。

「もちろんだ」

「後からこのエデンを戦乱が覆うかもしれないのに?」

「ああ」

 アサギの声は静かで、そして何のためらいや後悔もない。

「何とかならなかったの?」

 尋ねるとアサギは微笑んだ。

「手は打ったさ。もう研究所にこの船のデータは一つとして残っていない」

「え?」

「この惑星の情報に関する全てのデータは、地球上のシステムからも完全に削除済みだ。ワームホールは消滅させ、航跡は総て消した。つまり俺たちは完全に地球側からロストされている。そしておそらくもう、この世界に地球人は我々しか存在していないだろう。生き残ったとしても『聞く者』のみだ。俺たちは地球を出る際に、人類に対して宣戦布告をしたんだ『聞く者』は人類に技術を提供しない、とね」

「そんな……」

「『聞く者』は高度な知能を持った集団だ。利用されていることも、自分たちが所有物であることも知っていた人間がほとんどだった。だからきっと今頃、地球は滅び去っただろうな。俺たちの他に地球を脱出した『聞く者』もそれぞれの惑星を求めて旅だったはずだ」

 言葉が出ない。そして不意に思い出す。今目の前にいる、疲れた顔のこの男は、完璧主義者のアサギ・トモナガだった。自分とエネノアの夢を邪魔するものに妥協はしないだろう。彼らは人類を、地球を総て捨て去り、人類を滅亡に導いたのだ。

「そしてエネノアはこの惑星を手に入れ、作られた人間達の世界を作り上げた」

 満足げにアサギはそう言葉を締めくくった。自信家のアサギが言葉の端で一瞬見え隠れし、すぐに消えた。彼の自信は演技だったのだと、初めて知った。

「エネノアは何で、作られた人間の世界が欲しかったの?」

 利権と打算、金と生命への執着。あまりに醜い人間のエゴ。その中でエネノアは何を欲したのか。話があまりに現実とかけ離れすぎていて、こんな平凡な質問しか出てこない。

「エネノアは、人以上の生き物を作って世界を治めさせることに希望を見いだしたといっていた。彼女は唾棄すべき人類に作られた自分自身を憎んでいたからな」

 再びアサギが『ゆりかご』の表面を優しく撫でる。そこから目をそらして、アサギに疑問をぶつけた。

「でも矛盾してるよ。作られた自分を憎んでいたのに、また新しい人類を作り出すなんて」

 アーティスの反論にアサギは一瞬黙り、やがて何事もなかったように微笑んだ。もう彼には、今まで存在した鋭さや皮肉な表情が、ひとかけらも存在しない。

「ああ、そうだな。そうかもしれん。だがそれを知らなければ生きられる」

 今となってはどうでもいいことだと考えているのが、アーティスからもよく分かった。アサギと向き合っているはずなのに、そこにいるのはもう自分の知っているアサギではなかった。そこにいたのは、絶望し、疲れ果てた一人の男だった。

「アサギには分かるんだろう? エネノアのこと。恋人なんだから」

 寂しそうなアサギに、無意識にそう尋ねてしまった。口にのぼせてみて、あまりに惨い言葉だと言うことに気が付き、ハッとしたが遅かった。エネノアは死んでいるのだ、とっくの昔に。だが憤るでも傷つくでもなく、アサギは微笑んだ。

「俺には分からないよ。エネノアが本当はどう思っていたのかは」

「そんな……だって一番近くにいたのに?」

「近くにいすぎたのかもな」

 近くにいれば、相手を理解できると……そうアーティスは信じていた。ゆっくりと振り返ると、アンジェラを見つめる。空虚な彼女の瞳は、もうアーティスを映していないように見えた。独り言のように小さくアサギは言葉を紡ぐ。

「あいつは、自分と同じく人に作られたが人を超えた存在の集団を作ることで、苦しみを作った人間達を嘲笑いたかったのかもしれないな、見ろ人間どもめ、完全なる進化とはこういう事だ、とな」

 微笑みながら、アサギは『ゆりかご』を優しく撫でた。

「そうだろう、エネノア。それがお前の復讐なんだろう?」

 その仕草と顔つきを見て、エネノアの死と『ゆりかご』の存在が一つに繋がった気がした。今まで尋ねられなかった質問がすんなりと出てきた。

「エネノアは、どうしたの?」

 しばし黙ってから、アサギはふんわりと微笑んだ。

「……ここにいる」

「ここ?」

「ああ。『ゆりかご』の中に()けている。エネノアがそう望んだんだ。体を融かして、ここから産まれる子供達の栄養にして欲しいってな」

 ああそうか、やはりそうだったのだ。アサギにとって今は、この『ゆりかご』の中にある人工羊水が、エネノアそのものなのだ。

「……この中で死んだの?」

 アサギの顔を見ていれば聞く必要のない質問だろう。だが聞かずにはいられない。

「いや、俺がこの手で……殺したんだ」

「……エネノアが望んだから?」

「ああ、彼女の望みを叶えるためだけに、俺は生きてきたからな。もう三百年もの時間を」

 アサギが口にした時間は、真実彼らが生きた時間の話なのだろう。アーティスのように冷凍睡眠で過ぎた時間ではなく、現実に過ごした時間の長さ。それがすでに三百年……。

 それは二人にとって、どれだけ苦痛と悲しみに満ちた時間だっただろう。そんな彼らに、何かしてあげられることはなかったのだろうか? そんな忸怩たる想いが胸を(さいな)んだ。

「エネノアは地上にいる全ての作られた人類の中にいる。ここにも存在する。体を失った彼女は今、初めて自由を得たから」

「アサギ……」

「そうだろう? な、エネノア」

 アサギは、もうすでに正常ではなかったのかもしれない。すでにエネノアを自らの手にかけたときから、一部が壊れてしまったのだろう。壊れた部分は完璧主義者の仮面で綺麗に覆われていたが、目的を達した今、それが取り払われてしまった。

 彼の瞳は鮮やかなまでの狂気を宿して、ここにあった。彼がここまでアーティスを来させた目的が分かった気がした。おそらくそれは抱えきれない罪の懺悔のため。その相手に選ばれたのが、自分だったのだ。自らの懺悔の代償に、受精卵の一部とアンジェラの安全がアーティスに与えられるのだ。

 きつく目を閉じると、初めて会ったあの日のことを思い出す。あの時、花が綻ぶような柔らかく自然な微笑みで、エネノアは彼のいる場を指し示した。親に捨てられたと思い込み、孤独を抱えていた自分に彼女はここにいていいと言ってくれた。そしてアサギは、たった一人、同じ分野で面倒を見続けてくれた。厳しすぎる人で、だがどこまでも深くこちらの心を察して、手を差し伸べてくれる人だった。

 二人の間に立ち入ることなんて出来ないと、そう思い込んでどこか遠慮をし、踏み込むことさえせずにいた。子供の目にもあの二人はどこか儚く悲しげだと思ったくせに。もしも幼かったあの日から、もっとこの二人の闇に踏み込んでいたら、何か変わったのか、何かを変えることが出来たのか。答えの出るはずもない問いが、そう自分を責め立てる。

「アーティー、今までの話は俺の遺言だ」

 どこまでも穏やかに、アサギはそういった。

「遺言?」

「そうだ。お前に真実と……『箱舟』の管理責任者権限を譲る。真実を仲間にどこまで話すかは、お前が決めればいい」

 背の高いアサギの顔を見上げると、アサギは何の迷いもなく、どこまでも真っ直ぐに見えた。何故だろう、こうして正常な自分の方がどこか薄汚れた印象を受けるのは。何故こんな狂気を纏いながらも、こうして高潔でいられるんだろう。

「『箱舟』、管理責任者権限にて、管理責任者を、アサギ・トモナガから、アーティス・オズマンドへ一時間後より変更」

『了解』

 アサギは静かな笑みを浮かべている。本当にアサギは死ぬ気だ。

「これで『箱舟』はお前のものだ」

「本気なんだね?」

「本気だ。それから賭はお前の勝ちだ。約束の通りアンジェラと受精卵に手は出さない」

 静かだが少々寂しげな顔で、アサギはアーティスの後ろに隠れているアンジェラを見た。

「アンジェラ、こっちへおいでよ」

 あまりに切ないアサギの顔を見ているとやりきれなくなってアンジェラの手を取り、そっと自分の隣に立たせる。今まで何も見ていなかった瞳がじっとアサギに向けられた。

「……ありがとな、アーティー」

 微かな微笑みを浮かべてアンジェラを見つめたアサギは、満足げに微笑むと二人に背を向けた。このまま消えようというのだろう。それを止めるだけの言葉をアーティスは持っていない。どういえばいいのか、何と言えばいいのか。相手を思えば思うほど、引き留められない。

 待って欲しい、もうやり直せないのか? 本当に死ぬことしか手がないのか? 問いかけたい言葉は山ほどある。だが言葉が出てきはしない。ただ立ちつくしていると、幼く柔らかな声がアサギを呼び止めた。

「待って」

「アンジェラ?」

「お願い、教えて」

 背を向けたままアサギが足を止める。

「私は何者なの? 私あなたをよく知らない。だけどあなたを見ていると苦しいの」

 聞いたことがないくらいせっぱ詰まったアンジェラの声に、かける言葉が見つからない。

「……とても辛いの」

 何も答えないアサギの背中に目を遣ると、完全に彼は足を止めていた。

「知らなければ君は幸せになれる」

 振り返ることなく、だが聞いたことのないような柔らかく優しい口調でアサギはそう答えた。その言葉にアンジェラが激しく頭を振る。

「そんなの無理。絶対に幸せになんてなれない。いつも何か不安を抱えていたら、幸せなんかじゃない」

 隣のアンジェラの肩にそっと手をかけたが、彼女はその事にも気が付くことなく、真っ直ぐにアサギを見つめている。こうしていると本当にエネノアそっくりだ。そっくりなんてものではない。そのものだ。肩にかけていた手が一瞬竦む。似ているんじゃないアンジェラはエネノアと髪と目の色以外は同じなのだ。違うのは彼女が記憶を失っているということだけ。そしてアサギの限りなく優しい口調……。

 ぞくりと身体のどこかが冷えた気がした。頭の中で先ほどアサギと交わしていた会話の断片がいくつか蘇ってくる。アサギとエネノアは人類のクローニングで、この船を手に入れた。そして人類を使った遺伝子改変の技術を完全に手にしている。記憶の移植は電気信号という形で機械に記録することは認められているが、クローンに移植することは法律で禁じられている。だが自分たちがいた研究所では、すでに法律はないにも等しかった。禁じられた技術を全て使えば、クローンを作成し、人格すらも移植することが可能なのだ。

 つまり同じ記憶、同じ顔を持ちながら外見や力を微妙に変えた複製人間を作ることは、アサギとエネノアには可能だった。もちろんそれは生命倫理、法律、個人の尊重全てを裏切ることになるのだが、エネノアとアサギは倫理のために目的を捨てるとは思えない。

 つまり彼女たちの研究と目的に禁忌は存在しなかったのだ。

 では彼女は……? 彼女の正体は……エネノアではないのか?

「アサギ……、アンジェラは……」

 言葉に詰まる。そんなアーティスにアサギは軽く振り返った。

「愕然としているとは今のお前の顔のことを言うのだろうな」

 微かに微笑みながらアサギは再び前を向き直った。

「アンジェラはお前の想像通りの生き物だ。お前は一番俺に近いから、それだけで分かるだろう?」

 分からないと叫びたかったが、おぼろげながら真実が見えてしまった。おそらくエネノアは自分が亡き後、自分の知識が必要になったとき、自らの記憶を移植した思考力を持たないアンドロイドでは対応ができないと考えただろう。エネノアとアサギはアンドロイドの能力をそれなりに認めていたが、思考力を一切認めていなかったからだ。自らと同じ能力で思考するには、自分の記憶を入れる人間の器が必要だ。そしてそれは汚れた人間の手によって作られたものではなく、自分たちによって作られた清浄な生き物でなくてはならない。つまりアンジェラはエネノア自身の手によってクローニングされた、エネノアの知識と思考力を入れる器だったのではないだろうか。

 おそらく……これが現実だ。だが彼女はもうエネノアじゃない。アンジェラだ。アーティスを一番に思ってくれているアンジェラなのだ。例えクローンであっても記憶が消された以上、もうエネノアとは他人なのだ。だから彼女を守るのは自分しかいない。

 後ろからアンジェラの肩を抱くと、アーティスに気が付いたアンジェラが、泣き笑いのような表情で振り返った。彼女がどこか遠くに行ってしまいそうでそれが怖かった。思わず後ろから抱き寄せる。

「アンジェラ。僕は今の君を大切に守りたい。君の無くした記憶はもう必要ない」

「アーティー……」

 アンジェラの大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。だがそれはアーティスの言葉を受け入れてくれた涙ではないことは、いくら経験の少ない自分でも分かった。

「お願いだから……もうやめよう」

 これ以上、君が知ってはいけない。それは言葉に出さずに、抱きしめる腕に力を込めた。どうしたらいいのか分からないから、抱きしめているしかない。そんなアーティスに、優しくアサギが告げた。

「アンジェラを頼む。このまま俺が消えれば、記憶の封印は二度と解かれない」

 再び背を向けてアサギは歩き出した。後ろ姿に未練や後悔は見えなかった。少なくともアーティスには。

「いや……」

 腕に中でアンジェラが、小さく呻くようにそういった。

「アンジェラ?」

 名前を呼んで顔を見つめると、アンジェラはアサギの背中を凝視し、大粒の涙を流しながら唇を振るわせていた。

「いやよ、いや……」

「アンジェラ、落ち着いて……」

 だが彼女は徐々に混乱をきたしているのか、感情が高ぶり、次第に全身で震え出す。

「だめ……」

「アンジェラ」

「駄目よ!」

「お願いだからアンジェラ、僕を見て!」

 アンジェラの正面に回り、彼女を揺さぶったが、彼女はすでにこちらを……現実の視界が捉える光景を見てはいない。

「いやぁぁぁぁぁっ!」

 大きく頭を振りながら、アンジェラは悲鳴を上げた。同時に激しく彼女はアーティスの腕の中でもがいた。

「放してぇぇぇっ!」

「嫌だ、放さない!」

「いやぁぁぁぁっ!」

 少女とは思えないほどの力で暴れるアンジェラと一瞬、目があった。そこにあるのは純真で無邪気なアンジェラの陽光の煌めくような明るい瞳ではなく、真っ直ぐに真実だけを見つめる怖いほど澄んだエネノアそのものの瞳だった。その瞬間に凍り付いたように身体が動かなくなり、アーティスの腕は緩んだ。アンジェラがエネノアであることに一瞬怯えてしまったのだ。だがその一瞬が全ての運命の分かれ道になった。アンジェラはアーティスの腕の中を抜けて、後ろ姿のアサギに向かって駆け出していく。

「アンジェラっ!」

 まるでデニスの好きな映画のワンシーンのようだ。叫んでいる自分とは別に、冷静な自分がそう感じていた。金の髪をなびかせた、白いワンピースの天使が一人の男の元に駆け寄っていく。こちらを振り返ることなどなく。その姿は、やけにゆっくりと感じられた。

 彼女は背を向けたままのアサギに抱きついた。

「アサギ、駄目っ!」

 アンジェラが、そう決意に満ちた口調でアサギに告げた。静かな空間にその柔らな声はよく通った。歩みを止めることがなかったアサギが、ピタリと足を止める。

「駄目よ、一人で行くなんて」

「……まさか……記憶が戻るはずは」

 呆然としたようなアサギの声に、アンジェラが答えた。

「あり得ない? だから一人で行くつもりになったの?」

 その声と口調から、はっきりと理解した。彼女はもう……アンジェラではないのだと。

 アンジェラの瞳を信じ切れずに手を放した瞬間に、アンジェラは愛する人の元へ駆け、自らの想いを取り戻したのだ。ゆっくりと振り返ったアサギを見つめ返したその顔は、紛れもなくエネノア本人だった。記憶は完全に解かれたのだ。彼女自身の意志によって。そしておそらく真実を求めるアンジェラによって。

 アンジェラ……エネノアは、優しく背の高いアサギの頬に手を伸ばす。

「馬鹿ねアサギ。女はね、理論だけではない大切なものを持っているの。オリジナルがあなたを愛した以上に、私もあなたを愛しているわ。あなたを一人では行かせない」

「エネノア……」

 静かにアサギはエネノアを抱きしめた。

「ごめんね。最初に置いていったのは私だね」

 アサギの腕の中で、幸せそうにエネノアは目を閉じてそう言った。

「でももう大丈夫。全部終わったもの。私の子供達は地に満ちて、私も地に満ちたもの」

 満足そうにそう呟いたエネノアに、アサギが小さく尋ねる。

「もう、いいかい? 君のいるところへ行っても……」

 それは甘やかな、死への誘い……。

「……うん」

 この二人へと伸ばす手は、あまりに短すぎて届きそうにない。いや、彼らに手を触れることすら許されないのかもしれない。

 膝から力が抜けて、床に座り込んだ。もう何もかも取り返しが付かない。『箱舟』に命じて全ての機能を停止し、彼らの死を妨げようにも、彼にはまだ『箱舟』の管理責任者権限がない。

「行きましょう、アサギ」

「……ああ」

 アサギとエネノアが、こちらを振り返った。その目には死へ向かう恐怖や、悲しみが一切感じられない。どこまでも平穏で、どこまでも幸せそうだ。あまりにも眩しすぎて顔を上げていられない。

 床に座り込む情けない自分を見ないで欲しい。

 何も出来ず、嘆くだけの自分を、見ないで欲しい。

 だがそんな自分に、二人は優しく、別れを告げた。

「ごめんなさい、アーティー。元気でね」

「後はお前に託したぞ。お前は俺の優秀な相棒だった」 

 お願いだ。そんな風に優しくしないで、いっそ憎ませてくれ。

 沢山の人類を実験材料にしたこと、仲間達を騙し続けていたこと、仲間達を眠らせたこと、時間を歪めたこと。

 そして、アンジェラを自分から取り上げたことを。

 なのに幼い頃から憧れ続けた二人は、死に向かう姿さえも憧れの二人のままで……。

 追っても追っても追いつけないその背中に、向かってそっと手を伸ばした。

 虚空を虚しく掴む手は、やがて力無く床に落ちた。

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