蜘蛛の糸
我々人類が生きるこの世界から時空を超越したはるか、かなた――。
そこには『高次空間』とも呼ばれる不可思議な世界が存在し、我々が神と呼ぶ存在『高次知的情報生命体』が暮らしている。
その一角――久遠の昔に悟りを得て高次生命体の仲間に加えられた釈尊、かつてゴータマ=シッダールタを名乗っていた人物もいた。
さて、その釈尊だが、今の彼は『悟り』という魂の学問を究めることとは、また別の新たな楽しみを見つけていた。
一度悟りを得ても、さらに転生を繰り返し、さまざまな悟りの方法を発見した向学心は長年の無聊のなぐさめとあいまって新たな学問と研究を求めたのだ。
ゆえにシッダールタの目下の願いは……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
高次空間に設置された『覚者』の研究室は、ありとあらゆるものが散乱していた。
第三者にとっては雑然としか見えず、しかし部屋の主にとっては最も合理的な配置。優秀な研究者の部屋には、よく見られる特徴だが、とても宗教者であった人間のそれとは見えない一室である。
そこには釈迦族の王子として生きていたころの姿で、研究にいそしむシッダールタの姿があった。
高次生命体にまで進化した以上、肉体に宿る必要はないが、この姿で研究するほうが性にあっているらしい。肉の身に宿り、思考や行動に限度があったほうが、かえって工夫が冴えわたるようだ。
また『道具を使う』という過程を経るほうが思考の純度を高めるらしく、不合理の中に合理を見出して以降、この姿でいるほうが研究成果が出るようになっていた。
というわけで――あえて物理的な特性を与えられた研究室の建物内。
生老病死の四苦に悩まされていた青年のころの姿に戻り、白衣をまとったシッダールタは、これまた人間時代のくせである独り言をつぶやき、作業への集中度を高めている。
「より強く、よりしなやかに……」
顕微鏡らしき器具を熱心にのぞきこむシッダールタ。
ちなみに、のぞきこまれている素材は『蜘蛛の糸』だ。
……そう。遺伝子操作した蜘蛛に強い糸を紡がせることこそ、今の彼のライフワークなのである。
「これで先代が抱えていた問題は解消されました。いささか拙速かとも思いましたが遺伝子組み換えが奏功したようですね。エサの改良も効いたようだ。安定して糸をつむいでくれている」
この研究の前、シッダールタは量子物理学に打ち込んでいた。その前は病理学だったか。
そして今、没頭している『蜘蛛の糸』の研究に興味を切り替えてから、はや十年ほど。
もとより優秀な頭脳を持っていた彼は熟練の生物工学研究者となっていた。
「――うむ。やはり生物の持つ意外性こそ、この研究の醍醐味。あとは実証実験ですが……」
満足そうにいったシッダールタだったが困ったことが一つある。凝り性ゆえに万全を期したい性格が通り一遍の実験では満足させてくれないのだ。
それに実験室の安定した環境でうまく行ったことが、現場で役に立たないことなどままある話。だが、そんなようでは実験の意味がない。きっちりと己の作り上げた品を納得いくまで吟味したいのだ。
となれば求める実験の方法は――。
「やはり極限状況で実際に使われてみないと……それには絶体絶命の危機にあるどなたかに試してもらうのが一番ですが、なかなかそういう人間はいないでしょうね」
実験の困難を考え、シッダールタはため息をついた。
危機にある人物などおいそれと見つかるものではない。かといって実験のためだけに他人を危機に落とすというのは高次生命体としての倫理と規約に反する。
「むう、なんとか……なんとかして実験を……」
しかし、それでもシッダールタはあきらめきれない。研究への情熱が彼を内側から突き動かし、実験へと駆り立てる。そこで優秀な頭脳をフル回転させ、記憶を探ったシッダールタが思いついたのは――。
とある状況――そしてとある人物の名だった。
「……おお。そうです。彼がいいでしょう。今もたしかあそこにいたはず……」
思い立ったが吉日とばかりに、シッダールタは机の上からタブレット風の機器を掘り出し、起動し、文字を打ちこみ、検索する。
と、ほぼ同時――はるか別の時空のかなた。
シッダールタが機器に入力した座標近くにある次元間無人監視機械が、指定された目的地の上空へと移動を開始した。
時間と空間の莫大な隔たりを越え、かすかなタイムラグののち、ドローンは搭載されたカメラが撮影した動画を送ってくる。
そして――シッダールタののぞきこんだ画面の向こう。予想通りの場所に予想通りの人物がいた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……ふむ。やはり、まだ地獄にいましたか」
シッダールタが満足そうに言う。
彼が広大な地獄からドローンに探し出させたのはカンダタという男。閻魔大王の裁きによる罪状は殺人に強盗その他もろもろ、いちいち上げればきりがない。生前、悪事に悪事をを重ねて地獄へ落ちた、まことにもって罪深い大悪党である。
だが、この大悪党のとある性質がシッダールタにはもってこいのものだった。
「……あいかわらず悔い改めてはおらぬようですね。かつて倫理を説いた人間としてはこまったことですが、今はこれでありがたい」
うなずいたシッダールタは完成した蜘蛛の糸を束ね、ねじったものを一抱えぶん容器に取った。これは料理番組よろしく事前に準備しておいたものだ。
そして次に研究室内に大きく幅を取っている機械――その名も『次元接続装置』に近寄り、脇に備え付けのコンソールに目当ての座標値を入力する。
操作を終えたシッダールタは、今度は古びた金庫のようにも見える装置の前に立った。前面の扉にある古めかしい回転式のハンドルをゆっくり回すと、にぶい音を立て、厳重に封じられた重い扉が開く。
「ひさしぶりですが……まだ十分に使えそうです」
と、のぞきこんだ内部には表面を波立たせ、虹色に発光する一抱えほどの小さな水たまりが一つ。
この不思議な水たまりは一種の『ワームホール』、次元と次元の間をつなぐ小さな出入り口を装置で固定したものだった。
――そこへシッダールタは試作品の新型『蜘蛛の糸』を、そっとそそぎこんでいく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
……ぽとり。
「……ん?」
地獄、血の池のほとりでたたずむカンダタの肩に何かがふれた。
けげんに思ったカンダタは肩の上にこぼれた、そのなにかを引きつかむ。
すると――予想外の感触が返ってきた。
「――お、こいつぁ」
驚いたカンダタの手の中、細いひものようなものがあった。
最初はこよりかと思ったが、どうもちがう。手のひらに触れて粘ついた感触は『蜘蛛の糸』のもの。
生前、忍びこんだ屋敷の床下、あるいは、ねぐらにしたボロ屋でうんざりするほど見たものだったが、地獄に来てから目にしたことはない。奇妙ななつかしさにカンダタの顔が少しほころぶ。
「めずらしいな。しかし……どこからきやがった?」
不思議に思い、その来し方をカンダタが見上げると――蜘蛛の糸は天頂方向、赤茶けたうす汚い雲の中から垂れているように思える。
それほど太くもないため、空中で途切れて見えたが、はるか上空のどこかにつながっているようだ。ぐいと引いてみたところ切れない。いくら強く引こうと、たしかな手ごたえが返ってくる。
好奇心にかられたカンダタはある程度の長さを両手で持ち、思い切り力をこめて引いてみた。
「――ほら、これならどうだ!」
意地でも引きちぎってやろうとしたカンダタだったが、それでも糸は切れない……どれほど力もうと蜘蛛の糸は切れはしない。
しなやかに強く、カンダタの力まかせのふるまいを受け止めている。
「……なんて……がんじょうな」
その思わぬ強靭さはカンダタを驚かせるとともに、地獄に来て久しい彼に希望をいだかせた。
試しに軽くぶらさがってみたが、蜘蛛の糸はあっさり彼の体を支えてくれる。
「……逃げられるかも……しれん」
カンダタは企みを思わず口に出してつぶやき、あわてて左右を見回した。幸いなことにあたりに人はおらず、口にした思いつきは聞かれずにすんだ――その状況がさらにカンダタの気持ちを駆りたてる。
この『蜘蛛の糸』は上空へ延び、地獄の暗い空に常に立ちこめた厚く重い雲につながっている。
もしかしたら、その先には地獄の出口があるのかもしれない。かすかすぎるほどにかすかな望みだったが、地獄の罪人には十分すぎるほどに明るい希望だ。
それに――どうせ、この企みに失敗したとして、カンダタに恐れることはなにもなかった。
「どこでもいい。この最悪の場所から離れられんなら……転げ落ちてもかまわない」
カンダタは自嘲気味にいう。
絶望と苦痛が延々と続き罪人の魂を擦り減らす牢獄。最後の逃避である『死』すら許されぬ責め苦の連続こそ地獄の正体。苦痛と絶望が飽和しきったとき、魂から記憶が消去され、ようやく別の六道に転送させられるのだが、それまで、いったいどれほどかかるか想像もつかない。
「いや……そもそも勝手に考えを消されて別の体に押しこまれるなんぞ、絶対にごめんだ。おれはおれのままでいたい」
そう考え、カンダタが息を殺して周囲を見回すと――、
ありがたいかな。監視役の獄卒、牛や馬の頭部を持つ鬼どもは遠くにいて目はよそを向いていた。
カンダタはほっと一息つき、にやりと笑う。
「のんきなもんだな。まあ、仏のなさることか閻魔のすることかは知らねえが地獄ともあろう場所に、こんな手抜かりがあろうとは、おれも思わなんだしな」
覚悟を決めてぐるぐると糸を手のひらに巻きつけ、さらに念のためつばを吹きつけた。
その上で再び恐る恐る引いたが――糸の束は確実にカンダタの体重をささえてくれる。
「こいつは行ける……行けるぞ」
自信を得たカンダタが今度は勢いよく右、左、右、左、糸を手繰っていく。そのたびカンダタの体は宙へ引き寄せられていった。
糸を引くごとに自由が近づく気がして、カンダタの手はどんどん速まる。
「おおっ……」
ひたすらに強い自由への切望が、のどから歓喜の声をしぼりだした。
が、しかし――。
「おい。なんだありゃ!?」
登った高さが人の背丈を超えたところで、近くにいた罪人仲間に気づかれた。
周囲にさえぎるものなどないため、それは当然のことであったが――。
宙に浮いたカンダタの姿に、罪人仲間はあんぐりと口を開く。
「……あ、ありゃだれだ!?」
「見ろよ、カンダタだぞ!」
「あいつ、自分だけ逃げるつもりかよ!? おい、鬼の旦那たち、あそこに脱走者がいるぞ! カンダタだ! さっさと捕まえてくれ!」
カンダタの脱走は大きな声で瞬く間に伝わっていく。
その声に地獄の獄卒――牛頭馬頭鬼どもが気づいて、金棒片手に急ぎ駆け寄ってきた。
「……ちっ! あいつら!」
あっさり密告した仲間がいのない罪人たちに舌打ちをし、カンダタは手を早める。
だれも脱出に誘わず、自分一人だけ逃げようとしていたことなど、すでに彼の頭の中から消えていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カンダタが上り続ける糸の束――そのもう一端はシッダールタの研究室にしっかりと固定されていた。
急ぐカンダタが荒々しく手繰るせいで糸は荒々しく上下動する。
「……善哉善哉。自由のため、そしてわたしの実験のため奮励してください」
その光景にシッダールタは莞爾と笑みを見せ、上へ、上へ、上へ――必死に糸を手繰るカンダタの姿に期待を込めた視線を送った。
「生前、捕まったときも身軽さとあきらめの悪さで、おおいに抵抗して役人の手をわずらわせたそうですが、いやはや、これは期待できそうですよ」
そう。この生き意地の汚さと身体能力こそカンダタを実験台として選んだ理由。
鬼どもから逃れようと必死で上るカンダタは糸を左右に大きく揺らし、体重に加速度を加えた強烈な負荷をかけている。この強引な糸の使い方こそシッダールタの求めたものだ。
「命のかかった場面で酷使して、どれほど耐久できるか――性能試験としてこれ以上の場面はない。試作品の力をすべて使い切ってください。カンダタくん」
息を荒くし、糸をたぐり続けるカンダタに応援の声をかけるシッダールタ。
もちろん両者は次元を超えたはるかかなたにいる。その上、監視装置越しであるから、届くはずはないのだが……。
――激励が聞こえたかのように、カンダタの脱走への奮闘と健闘は続く。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ぜいッ……ぜいッ!」
漏れる荒い吐息。はるか異世界より釈尊が見守る中、カンダタの文字通りの脱獄への挑戦は続く。
体重を二本の腕だけで持ち上げる過酷な作業に追われる恐怖も加わり、心身に大きな負担がかかる状況だ。
しかし、それでもカンダタの逃走は終わらない。
この驚異的な粘りを支えているのはたぐいまれな生き意地と、なによりカンダタを上空へと導いてくれた糸の性能だった。
こよりと見まがうほどの細いひも――そんなものを手がかりにすれば、体重のかかった手のひらが裂け、傷がつくはず。しかし蜘蛛の糸には絶妙な粘り気と柔軟性があり、最小の負荷で体重を支えてくれた。
「いやはや、こいつはありがてぇ!」
カンダタは文字通り天が与えてくれた機会と宝物に歓喜の声を上げる。
目指す先ははるか上空、道のりは遠いが、蜘蛛の糸は極太の麻縄にも勝る心強さでカンダタの重量と逃走の意志を支え続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ええ、全力で上ってください。きみの自由はその先にありますよ」
と、カンダタの奮闘に心躍らせる釈迦牟尼仏だったが――、
そこで机の上においた板状端末から音がした。聞き覚えのある騒がしい電子の着信音は閻魔大王からの通信を告げている。
もちろん理由に心当たりはあったが、そ知らぬ顔でシッダールタは通信を受けた。
「どうしましたヤーマくん? 今、実験でいそがしいので、野暮用なら後にしてほしいのですが……」
『また、なにかよけいなことをなされてますな!? お釈迦さま!』
しれっとたずねた釈迦に対し、開口一番、閻魔大王は言う。
地獄に起こった騒動が研究熱心な覚者のしわざと承知の上、通信してきたのだ。
そして閻魔大王は、いかつい顔立ちのこめかみに青筋を浮かべて断固宣言する。
『配下の鬼どもから報告が入りました。地獄の囚人カンダタにちょっかいだしたのはあなたでしょう!? 管轄外のことに首をつっこまれては迷惑です! おやめください!』
口調はていねいだが実に迷惑そうである。どうやら閻魔大王、シッダールタの実験の被害にあったこと一度や二度ではないようだ。
覚者たるシッダールタに敬意を払っているものの腹にすえかねているようすもよくわかる。威厳にあふれ人々を自然に畏怖させる容貌の閻魔だけに、静かな怒りは恐ろしいものだった。
だが――シッダールタは肩をすくめただけで、閻魔の憤怒を軽やかに受け流す。
「わたしの願いは罪を犯さざるをえなかった哀れな囚人を更生させること。『人助けに安息日は関係ない』と、どこぞの救世主も言っておられるとおり宗教というのは形式にとらわれることではありません。しかるに君は管轄外だからと、これを否定するのですか? これだからお役所仕事、形式主義の弊害というものは恐ろしい」
さすが一つの宗教を立ちあげただけのことはあり、シッダールタは有能な弁士であった。脱走を助けたのは実験のためということをごまかし、よその宗教の言葉まで使って理論武装している。
特に『お役所仕事』という非難は常々身につまされるところであったから、仕事熱心な閻魔大王は反論できず口ごもるしかない。
『ぐぬぅ……』
「それにカンダタが上まで着いたなら人格の問題部分を消去し上書を当て再起動……もとい魂を浄化し改心させて悟りまで持ちこみましょう。罪人の更生に関わるきみとしては、ありがたい話でしょう?」
と、さらにたたみかけるシッダールタ。その態度は教祖らしく威厳と宗教的魅力であふれていた。凡夫であれば、それだけで平伏し、すべて受け入れてしまうような説得力である。
しかし自らも仏である『閻魔』は言い負かされず必死に理屈を探して反論する。
『そのようなひいきはなりません! 釈迦に説法を重々承知で申し上げますが、罪を贖うこともせず一足飛びに悟りにいたるなど他に示しがつきますまい。悟りを得るため、懸命に修行してるものに悪影響がありましょう!』
と、返した閻魔の言には理があった。
しかし、それでもシッダールタは引かない。方便を体現した弁舌でもって反論を重ねる。
「その程度で遠ざかるなら、それは悟りに至る縁がなかったということ。他人をねたみうらやんでいるものに悟りなどほど遠い。だいたい、あの裏切弟子だって、いつかは悟れることになってるんだし、カンダタくん程度なら、すぐ悟らせても問題ないでしょう? 悪人だからこそ大いなる存在へ必死に助けを求める――その絶対他力の心こそ救いにつながる第一歩ともなりえるんだし」
『いやいや、お釈迦さま! さっきから話の元ネタがてんでバラバラすぎです。その上、なにしれっと阿弥陀さんとこの説までパクってるんですか!?』
言葉の軽さとは裏腹の強引な論理展開を向けられ、閻魔は頭を抱えた。
そこへシッダールタは、さらにもう一押しする。
「手段に拘泥して目的を忘れるとは愚かしい。どのような方法であろうが悟れればそれでよいのです。火事場から脱出するのに手段を選ぶことなどありますまい。たまたま、わたしの実験用にちょっと過程を省いただけではありませんか?」
『いやいやいやいや、ちがうでしょ、お釈迦さま! あなたの場合、悟らせることじゃなく実験が主目的じゃないですか! だいたい人格の消去上書きなんて、洗脳とどこがちがいます?! あきらかに高次生命体の下等文明接触規約に触れかねない行為でしょうに!』
へりくつにへりくつを重ねるこの覚者を、さすがに止めに入る閻魔だったが――、
「ええい。頭が固い! 大地のごとき広い心を蔵する仏――地蔵菩薩を本地としているあなたが、どうして哀れな罪人に慈悲で接してあげられぬのです? 石像なんぞ大量に作られてるうちに本体まで石頭になってしまったのですか? そもそもキミだって閻魔として罪人を地獄に落としたあげく地蔵の姿で救うなんて自作自演してるでしょうに!」
『ああ、もう。妙な言いがかりをつけないでください。閻魔大王のときには判事としての役目がありますし、制度上やむをえず地獄に落とした連中をなんとかするために地蔵の姿で――って、あ、ちょっと! お釈迦さま! 勝手に通信を切らないで……』
閻魔は呼びかけたがもう遅い。逆ギレ気味に言い捨てたシッダールタはすでに通信を遮断していた。
その後、何度も通信を入れる閻魔大王だったが着信拒否された状況に気づき――。
『ああ、もう。これじゃ業務連絡も取れないじゃないですか……』
と――ため息をつくしかない冥府の判事であった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
さて――。
高次生命体二人が、どちらが勝っても仏の恥となる論争をくりひろげていたさなかにも――、
地獄の住人カンダタはひたすら蜘蛛の糸を上り続けていた。
「……ずいぶん来ちまったな」
すでに地獄の地表ははるか下――こちらを見上げる鬼に亡者も豆粒ほどにしか見えなくなっていた。凡人であれば目もくらみ、足がすくむような高さである。
しかし生き意地の汚いカンダタにはそのようなこと関係ない。自由をめざし、ひたすら上へ上へと、よじ登る作業をくりかえす。
ある意味では恐るべき精神力と根性であった。この点、釈尊の人物鑑定眼に狂いはなかったと言える。
「……ん? あそこになにか妙なもんが……」
と、そこで――カンダタの目に特異な現象が飛びこんできた。
空の一部、小さな裂け目ができ、ゆらゆらと移ろいつつも虹色に輝いている。そしてカンダタの上る蜘蛛の糸は、その奇妙な裂け目から発していた。
己の見た光景にカンダタは、こう確信する。
「きっと、あそこだ! あそこが出口にちがいねえ! だれか知らねえが助けをくれたのか?」
目に入る場所まで迫った地獄からの脱出口。カンダタの胸は大きく高鳴った。
だが――その瞬間。
ギギ、ギィィィィィィィッッ!
「あ、うわっ!」
ふとした拍子に糸が大きく揺れ、不意を突かれたカンダタは糸から両手を離してしまった。
糸から転げ落ちたカンダタの内臓に不快な浮遊感が襲う。上下反転し真下を向いたカンダタの視界に、はるか下方、地獄の地表が速度を増してせまった。
これでカンダタの命運は一巻の終わりにも思えた、が――、
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
蜘蛛の糸から手を離し、まっさかさまに転落しかけた、そのとき――、
絶望的な状況にもかかわらず、あきらめの悪いカンダタは気合の叫びをあげた。
「――ッ、なにクソォッ! こんなとこでェェ!」
何度も空をつかみながらも、カンダタはあきらめず必死に糸に手を伸ばす。そして何度目かの挑戦で揺れる糸になんとか指をかけた。
ここまでの落下でかなり加速がついていたが、カンダタは蜘蛛の糸をひきよせ、まずは腕、ついで体に巻きつけるようにして強引に速度を殺す。
糸が絡みつき、下手をすれば巻きつけた部分が切断されかねない危険な所業だったが、柔軟な蜘蛛の糸ゆえに無傷で済んだ。
かくして大きく息をつかせながらも蜘蛛の糸にしがみついたカンダタ。
地表への望まぬ旅路から彼は逃れられた。曲芸のような離れ業、二度とできるとは思えない奇跡的な悪あがきをカンダタはなしとげたのだ。
「ふぅ……」
そのままの姿勢で一息ついたカンダタは慎重に態勢を立て直す。
だが危機を脱し、胸をなでおろしたカンダタも素直に無事を喜べない。
――ギィィィィ!
きつく握りしめた細い糸に思い切り張力がかかっている。
ぴんと張った命綱のようすに、何者かが糸を登りだしたことを知ったからだ。
「ああ、まずい。こいつはまずいぞ」
おそらく獄卒どもが脱走をはかる囚人たちに押し負けたのだろう。
それも当然か。目の前でカンダタの脱走を見て、自分もと思わぬものがこの地獄にいようはずもない。
しかし、これほど強く糸が引かれているということは大量の囚人たちが一斉に糸を上り始めた証拠だ。
確認のため下方を見下ろしたカンダタの目に、糸にむらがり登りだしたものたちの姿が映る。
「ちッ、やっぱりか……」
数十人、場合によっては数百人か。囚人たちの重量に蜘蛛の糸がどこまで耐えられるかわからない。
カンダタにとっては非常によろしくない事態である。
「急げ、急がねば……糸が切れる前に……」
つぶやいたカンダタは疲れのたまった体に鞭打って、はるか上空――地獄の出口をめざす。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「む、野暮用の間に予想外の事態が起きてしまいました。まさか獄卒たちが突破されるとは。計算上は百人どころか千人乗ってもだいじょうぶなはずですが……」
蜘蛛の糸の下方、鈴なりに群がる地獄の囚人の姿――目にしたシッダールタは危ぶむ。
開発した糸には十分以上の強度を与えている。糸を支える固定具も神話級の強度を誇る神珍鉄製――闘戦勝仏あるいは斉天大聖を名乗った孫悟空の如意棒と同材質であるから多少の重さで壊れるはずもない。
だからこそ物置の広告のようなセリフが言えたのだが、予定外の使用法には、まだ不安も多かった。
「……ま、起きてしまったことはしかたありません。わざわざ因果律に干渉して実験をやりなおすのも手間ですし、これはこれで試験として利用させてもらいますか」
わずかな不安を抱えつつも、地獄を見下ろすシッダールタ。
その視線の先――カンダタは一直線に伸びた蜘蛛の糸を一心にたぐっていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――ぐぅぅぅぅぅい、ぐぅぅぅぅぅぅい。
蜘蛛の糸は不気味な音を立てて左右に振れ、いつ切れるのかわからない不安と恐怖を感じさせる。
「……も、問題ねえさ。これほどがんじょうな糸なら、少々人が増えてもだいじょうぶよ。安定したおかげでさっきより上りやすくなったくらいだ!」
むくむくと湧き上がる恐れを隠すようにカンダタは強がる。
だが事態はカンダタにとって、より不利な方向に向かっていた。
「な、なんだ……!? 揺れがどんどん大きくなりやがる!」
伸びた蜘蛛の糸が弦となり、下から引く囚人たちの力で振動が発生する。
その結果、蜘蛛の糸は大きく波打つように振れだしたのだ。
「うわ……わッ! わああああああぁぁぁ!!!」
左に右に大きく振れてはもどる蜘蛛の糸。嵐の海に浮かぶ小舟でも、ここまで揺れることはないにちがいない。
カンダタは身動きできず、落とされぬようひたすら糸にしがみつくばかりだ。
「……お、あそこだ。カンダタがいるぞ」
「あいつめ、先に逃げやがって!」
「急げ! さっさと行けよ!」
一方、カンダタの下方、糸を上る囚人たちに振動はあまり関係ない。振幅の少ない地点にいるのだから、これは当然だろう。
こうして囚人たちの先頭とカンダタの距離が狭まっていく。
「う、くそ……気分が悪い。こう揺れるようじゃ、どうにもならん」
揺れの幅は小さくなったが今度は揺れが激しくなった。ぶんぶんと右に左に素早く切り替わる振動が息をつかせてくれない。
カンダタの苦境は、まだまだ続く。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一方、カンダタが激震する糸になやまされているのと、ほぼ同時刻。
はるか上空にある裂け目の向こう――研究室でも一大事が発生していた。
「む、これはいけません!」
蜘蛛の糸と、その端を固定する神珍鉄は予想通りの強度を発揮し、囚人どもの重量に耐えきってくれたが問題は別のところにある。
――ガガガッ、ガガッ!!!!
――ゴゴゴゴゴゴウゥゥゥゥ!!!
激しい糸の震動が固定具に伝わった数秒後、壁面と床が大きく揺れはじめたのだ。
まるで地震でもあったかのように研究室は激しく上下左右の動きをくり返す。
「……ややっ。共鳴ですね。実験室の固有振動数と糸の振動の波長があってしまったようです。研究室に物理的な性質を持たせたことで、こんな弊害があろうとは……」
シッダールタが口にした固有振動による共鳴とは、つまり建物が特定の周期の揺れに対して大きく反応してしまう現象だ。
地震の際、特定の高さのビルに起きるひどい揺れ、あるいは風や人馬の通行が原因で起きる橋の崩落など、大災害ともなりうる危険な現象である。
しかし、まさか高次空間にある拠点にまで被害が及ぶとは、さすがのシッダールタも思ってはいなかった。この点は物理的な肉体を捨てて長いゆえの油断であったろうか?
「く……」
予想外に強い揺れにふらついたシッダールタの顔色は、やや青ざめている。
研究室そのものは強烈な振動にも耐え、破壊されることはない。しかし机の上に置かれた小物や実験器具が、ほぼこぼれ落ち、足の踏み場もない状況だ。
いくつかの貴重な器具なども虹色の水たまり、ワームホールに落ちて姿を消してしまった。
いや。問題はそれだけでなく――、
「ああ、これでは次元接続装置が……」
めずらしく冷静なシッダールタもあわてていた。
その視線の先には周辺の実験器具と激しい衝突を繰り返した『次元接続装置』の制御盤がある。
「あれは繊細な装置。このように乱暴な使用など想定されていない。耐えられるわけがない」
との言葉通り、次元接続装置はどう見ても末期的な状況にあった。
先ほどまで接続先座標を表示していた画面も、文字化けし意味不明な情報を映しつつ明滅するばかり。
さらに装置のところどころから火花が散り、うすく煙が舞って焦げくさいにおいまで放っている。
そして装置が作り出していた次元の裂け目――世界と別の世界とをつなぐ時空の回廊も不安定に大きさを変え、虹色の輝きを強く弱く断続的に変化させていた。
「なんとかせねば……」
あいつぐ縦揺れ横揺れの中、それでもシッダールタは歩み寄ろうとしたが、次元接続装置はすでに手遅れな状態に陥っている。
極めて高度な文明の産物であった装置は、しばし断末魔の悪あがきをくりかえした末――シッダールタの眼前、唐突に停止してしまった。
「嗚呼…………!」
と、シッダールタがなんともいえないため息をつくのと、ほぼ同時。
激しく変色と強弱の発光をくり返していた次元の裂け目も一瞬で消滅した。
その結果――、
――ブツッ!
蜘蛛の糸が短く耳障りな音を立てて切れた。信じられないほど強靭な繊維も次元回廊の消失という超物理的事象の前には耐えられなかったのだ。
ビィィン! バシッ!
かかっていた重量が一瞬で抜け、その反動で糸の切れ端が高速で飛びまわり、暴れまわる。
その後、あちこち跳ねまわり破壊と混沌をまき散らしたあげく、糸はようやく止まった。
糸が切れたおかげで振動は伝わらなくなり、激しい揺れは収まったが――静けさを取り戻した室内、沈黙したシッダールタは立ち尽くしている。
「…………」
先の大震動と蜘蛛の糸の暴走。その結果、嵐にでもあったかのような研究室内部を、シッダールタはただぼうぜんと見つめていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
はるか時空の裂け目の向こう、研究室が強震にあっていた、そのころ――、
揺れる蜘蛛の糸に必死でしがみついたカンダタはとある事実に気づいた。
地獄の出口と考えていた場所――上空に浮かぶ不思議な虹色の亀裂が伸び縮みを繰り返し、また激しく明滅しているではないか。
「なにが……起こってやがる?」
と、カンダタが不安げにつぶいやいた次の瞬間。カンダタの顔面の一寸先を、なにかが高速で駆け抜けていった。
続けてもう一つ、さらに別のなにかが顔面をかすめていく。
「うおッ!」
硬質な落下物はカンダタのあごに鋭利な痛みを残した。つけられたかすり傷にカンダタは仰天する。揺れに備え、しっかり糸につかまっていたから耐えられたが、それにしても危険この上ない。
落ちてきた物体の出元は、あの裂け目のようだが、不気味な明滅といい、なにか妙な事態が起こっているらしい。
そして――、
――びゅん! びゅびゅん!
そこでまたも飛来する落下物。今度のそれは驚くほどに大きい。人の背丈ほどもある物体だ。それでも反射的に身をかわしたカンダタの眼前、さらに三つほど、別々の物が落ちていく。
透明な砕けた玻璃、光沢をもつなんらかの金属、そしてこれまた破損している陶器など――あれこれの品物はカンダタに迫りつつあった地獄の囚人どもに突っこんでいった。
「ぎゃッぁぁぁぁぁぁっ!」
直撃を受けた何人かの囚人がまとめて転落。絶望の叫びが響く。
遠ざかりつつもしばらくとぎれない悲鳴の声に、己のいる場所の高さを思い知り、カンダタは思わず身震いした。
「こ、これは……早く昇り切ってしまわねば!」
と、変事から逃れるべく覚悟を決めるカンダタ。
しかし、揺れなど無視して再び糸をたぐろうとした、そのときだった。
――ぶぉん、ぶぉん、ぶぉぶぉん!
先ほどまで明滅と収縮をくり返していた虹色に輝く亀裂が不吉な音とともに激しく発光した。
そして次の瞬間……裂け目は一気に消滅する。
それは当然、中空に固定されていた糸の片端が切り離されたことを意味していて――、
「そ、そんな……バカな……!?」
手のひらの中、瞬時に手ごたえを失った蜘蛛の糸と、姿を消した地獄の出口。
まるで他人事のように眺めたカンダタは、ぼうぜんとつぶやく。
それから、わずかの猶予もおかず。
ふわり……発生した浮遊感がカンダタの腰のあたりに不快なうずきをもたらした。
のけぞって手をのばしたカンダタから遠ざかっていく雲、びょうびょうと音を立てる落下の風圧が、今度ばかりは逃げようのない最悪の結末を告げる。
背後あるいは真下から、落下をはじめた囚人たちの恐怖のうめきが聞こえ――、
カンダタもまた腹の奥から絶叫を絞り出す。
「――うわあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」
かくして――、
心の凍るような悲鳴をまき散らし、カンダタは地表までの絶望的な旅路につくのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一方、そのころ――シッダールタは蜘蛛の糸に荒らされた室内をながめ、ため息をついていた。
ちょっとした実験のつもりが思わぬ災禍を呼んでしまったことを悔いているのだ。
特に重要な実験器具の被害がひどい。あらかた壊れてしまっている。
「ある程度の実証にはなりましたが、今後、閻魔くんから来るだろう苦情とこの惨状――実験の代償は高くつきすぎましたね。しかし、なぜ製作に手間がかかるものばかり、こうも壊れるのか……」
と、悲しそうにつぶやき室内を見て回るシッダールタのまわり、破壊されたさまざまな機械が火花を咲かせ、焦げ臭いにおいを放つ。
一方、床の上、音声機能のみ生き残った、ひび割れた板状端末からは――、
『うわあああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!』
――落下を続けるカンダタの悲痛な悲鳴が、長く、長く、ずっと響いていた。