二章 その二
教室に入る頃には、アンジュはすっかりもとの調子に戻っていた。
「ハッハー! これが学校かぁ! イイネーイイネー! やっぱり写真で見るよりも実際見たほうが楽しいなぁ! 女子高生万歳!」
「いや勝手に喋るなって!」
小声で注意をするが、アンジュはテンションがメーター限界まで上り詰めているようで、遊園地に来た子供みたいにはしゃいでいた。幸い、クラスメイトたちはみんなお喋りに夢中で、アンジュに気付いた様子はなさそうだった。
携帯電話を机の中にそっと隠しながら、うつむき加減に画面を覗く。
アンジュは目に星を浮かべて、忙しなく肩を揺すっていた。
「いいじゃないか、少しくらい! 誰も気にしていないっぽいし!」
「気にされちゃダメなんだよ。説明とか、面倒だし」
「なぁなぁ初! そんなことより一限目の授業は何なんだ?」
「……。一限は数学」俺は彼女を落ち着かせるのを諦めた。
俺の投げやりな返事を意に介した様子もなく「ほうほう、数学か。よしよし」とアンジュは楽しげに何度も頷いた。
「これだけ沢山の学友たちと肩を並べて勉学に励めるんだ。楽しみだなぁ、初」
「いや、アンジュ、うちの生徒じゃないし」
そして俺はそこまで殊勝な生徒でもない。アンジュは「つれないなぁ、初は」と困ったように頭を掻いた。
授業が始まると、さすがにアンジュも静かにしていた。
時折、机の中、すぐ手前に置いた電話の画面を覗き見ると「ふーん」「なるほど」と小さく相槌を打っては赤べこのように首を振っていた。そんなに授業が面白いのだろうか。
しかし、高校の授業を受けたがる人工知能か。変な奴だ。
いや、変といえば、そもそもこいつの存在自体がそう言えてしまう。
こいつは朝、自分のことを「自律して、しかも自我を持っている」と話していた。そんなの、まるで人間だ。実際、アクが強い言動だとは思うが、別段違和感を覚えるようなこともない。
実は人間でした、と言われたら「やっぱりな」と思ってしまう程度には、アンジュは親しみやすさや人間臭さを備えていた。
そもそも、そんな高度な人工知能を現代科学で作ることが可能なのだろうか。
アンジュは明らかに人格を持っていて、その場で考え、自分の言葉で感情を表現していた。
人工知能というより、電子生命体と言われたほうがしっくりくる。
いくら科学全盛の時代と言えど、そんなものが開発されるなんて、およそ現実離れした話だった。まるで安っぽいSFのようだ。ありえない。俺は心の中で自分の考えを否定しながら、指先でシャーペンをくるくると遊ばせた。
「――じゃあ、次の問を……三田村、分かるか?」
自分の苗字が聞こえた瞬間、思考の海に潜っていた意識は急に現実へと引き戻された。
前を向くと、教壇に立つ数学教師の岸川と目があった。
岸川はほとんど白髪な胡麻塩頭を撫でつけながら「三田村?」ともう一度、しわがれた声で俺を呼んだ。
「三田村、聞いているのか?」
「え、あ、はい。聞いてます」
「そうか。じゃあ、次の問を答えてみろ」
「え?」
黒板を見ると、いつの間にやら、見慣れない数式がところ狭しと書き連なっていた。
まずい。つい反射的に返事をしたけれど、授業なんて一秒たりとも聞いていなかった。
はたして今、教科書の何ページをやっているのか、それすら分からない。
当然、次の問といってもわかるわけがない。
そもそも俺はまだ教科書を開いてすらいない。
お話にすらならなかった。
手のひらにじんわりと嫌な汗が溜まっていくのを感じていると、机の中から「……教科書二百五ページ、問三」と聞き逃しそうなほど細い声が聞こえてきた。
俺は慌てて教科書をめくった。なんとか該当のページを見つけることができたが、そこには全く習った覚えのない問題が書いてあった。
「……エックスの範囲はマイナス三以上、四以下。そう答えておけ……」
またしても声が聞こえた。俺はその声に従い、言われるがままに復唱した。
答えが合っていたのか不安だったが、岸川が「よし」と短く答えて再び黒板へと向き直ったので、多分正解だったんだろう。それを確認して、俺はほっと胸をなでおろし、そっと机の中――携帯電話に映るアンジュに、目を向けた。
「危なかったなぁ」
アンジュはこの上ないくらい得意顔だった。鼻を膨らませながらニマニマと笑われると正直に言って癇に触るが、助けてもらった手前、そんなことはお首にも出せない。
「助かった。ありがとう」
周りに聞かれないよう小声で礼を述べると、アンジュは「これで貸し一つ、な」と同じく小声で言ってきた。
結局、その後も二回ほど先生に当てられたが、その二回も、しっかり授業を聞いていたアンジュに助けてもらう形となった。
「なぁアンジュ。やっぱり人工知能だから、こういう問題もすぐ解けるのか?」
もしやと思って、問いかけてみる。しかし、返ってきた答えは予想とは違うものだった。
「別に人工知能は関係ないさ。授業を聞いていれば充分答えられるレベルだよ」
と、あっさり言い放った。要するに、単純な授業態度の差ということだった。
こんな基本的なことを、このアッパー系天使なんかに諭されてしまうとは。
情けないにも程がある話だった。