二章 その一
俺のパソコンに自称天使の人工知能が舞い降りてから、一夜明けて。
朝、起き抜けに「おはよう、初」と、どこからともなく挨拶をされたときは何事かとひどく混乱したが、ディスプレイに映る赤髪の美少女を見て全てを思い出した。ちなみに、パソコンの電源はアンジュの許可がなければ落とせない仕様へと勝手に変わっていたので、一晩中つけっぱなしだった。
それから登校しようと身支度を始めると、突然パソコンの中から「私も一緒に学校へ行く!」と、アンジュは目を輝かせながら言ってきた。
「一緒にって……。何言ってんだよ」
「私も実際の学校に行ってみたいんだ。ネット上の知識だけでは知りえないことも多いだろうし。百聞は一見にしかず、というやつだよ!」
そう言うやいなや、アンジュはふっ、と液晶の中から煙のように消えてしまった。
「アンジュ?」俺はパソコンに向かって呼びかけた。「どうしたんだ?」
「こっちだ、こっちー」
声は、ブレザーのポケットから聞こえてきた。制服をまさぐってスマートフォンを出すと、もはや見慣れてしまった天使様が画面に映り「お引越しー!」とにこやかに手を振っていた。
「え、何。お前、ケータイの中とかも行けるの?」
「ネットで繋がっている端末なら、どこでも侵入できるし、なんでも覗けるぞ。自由自在だ」
「プライベートも何もあったもんじゃないな……」
俺が重いため息を吐くと、アンジュは「昨日だってやってみせたじゃないかー!」と頬を膨らませて、ピントのずれた抗議をしてきた。
「昨日って、市役所や学校にハッキングしたアレ?」ああ、あとメールも勝手に見られたな。
「正確にはハッキングじゃなくてクラッキングなんだけど――まぁいいさ。そう、それだ」
「あんまり無闇に覗き見るんじゃないぞ」
できるだけ説教臭くならないよう、努めて平坦な口調で彼女をたしなめた。
しかしアンジュは目を丸くしながら「なんで?」と首をかしげてきた。他意の感じられない、だからこそ本当にわからないと思わせる表情だった。
「自分がやられて嫌なことは、人にしない。誰にだって知られたくない秘密くらいあるんだから、やたらと詮索しないの。まぁ、人工知能に人間のマナーを強いるのもナンセンスだけど……」
子供に言い聞かせるようにやんわりと言うが「別に私は知られたくない秘密とか、ないぞ」と、アンジュはきっぱりと言い返してきた。「むしろ、私が教えてほしいくらいだ」
「? どういうこと?」
説明を求めると、アンジュは目に見えて表情を暗くした。気のせいか、背中の羽も萎れているように見える。
「私は――」
少しの間を置いて、寂しげではあるものの、アンジュはためらうことなく口を開いた。
「――自分が何者なのかを知りたいんだ」
「何者って……。人工知能の電脳天使なんじゃないのか?」
「それは自分で名乗っているだけだ。天使というのも、プログラムにそう書かれているから名乗っているだけだし。……私はな。自分がいつ、どこで、誰が、何のために作ったのかを知りたいんだ」
「あー」
朝のバタつく時間帯なのに、話が長くなりそうな気配がプンプンしていた。何だか押してはいけないスイッチを押してしまった気がする。
が、もう後には引けない。
「やっぱりアンジュって、誰かが作ったソフトなわけ?」
「当たり前だろう。私のように高度な人工知能が自然発生なんてするはずがない」
それぐらいわかるだろう、と言わんばかりに、アンジュはジトッとした視線を向けてきた。
しかし、こちとら新聞部に所属するコッテコテの文系高校生だ。そういったサイエンスな方面は授業やテレビで聞いた程度の知識しか持ち合わせていない。
誤魔化すように頬をかくと、アンジュは「はあぁ」と大げさに肩をすくめてみせた。相変わらずのオーバーリアクションだ。
「悪かったな、無知で。で? アンジュが知りたいのは自分の出生の秘密ってことか?」
「イエス。まぁ、そういうことだ。別に『何のために生まれて、何をして生きるのか』なんていう若者の悩みとは少し違う。どちらかというと純粋な好奇心だ」
「好奇心ねぇ」俺は肩をすくめた。「それは、今まで調べてもわからなかったのか?」
「……悔しいが、イエスだ。世界中の人工知能に関する情報を集めた。公開、非公開を問わずにな。自分自身のデータ解析も行った。でも、どれだけ調べても、私のように自律して、しかも自我を持っているものは開発されてはいないようだった。……まるでジョークだな。何でも知っている全知の天使が、唯一知りえない秘密というのが自分自身のことなんて。ははっ、笑えない」
アンジュは髪を乱暴にかきむしった。「知らないことがあるというのは、ひどく不安だな、初」
「……そうだな」
同意はしてみたが、形だけだった。そもそも、俺とアンジュ、前提として存在が違いすぎる。共感なんて、できるわけがない。
それから俺は、無言で登校準備を再開した。アンジュも、怖いくらい静かにしていた。
朝っぱらから雰囲気重くなっちゃったな、と俺は少しだけ反省して「人工知能は哲学者の夢をみるのか?」と斜に構えて、心の中でだけ問いかけていた。