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五章 その四

 屋上の扉を静かに開け、そいつは音もなく、こちらに歩み寄ってきた。

「やっと見つけたぞ、三田村」

「岸川、……先生」

 すらりとした初老の男性。いつもは温和な印象があるが、目が血走り、息を荒くしている今の彼からは、普段の紳士さは微塵も感じられなかった。

 だが、そんなことよりも、真っ先に聞かなければならないことがある。

「海法はどうした?」

 コイツは海法が足止めしていたはずだ。それが、なんで。

「ふん。所詮、十代のガキだ」

 にやあ、と。

 まとわりつくような粘っこい笑みを浮かべて、岸川は言った。

「少し痛めつけたら途端に大人しくなったぞ」

「なっ……!」

 かっ、と頭が沸騰する。こいつ、今なんて言った? 海法を、どうしたって?

「お前、自分の生徒を!」

「そんなこと、どうでもいい」

 岸川は言葉通り、心底どうでもよさそうに吐き捨てた。

「所詮教師など、日銭を稼ぐための手段でしかなかった。仕事なんて何でも良かったんだ。遊奈さえ、そばにいてくれれば」

 俺に向けて話しているはずなのに、岸川の目は俺を捉えていない。まるで独白のように、視線を宙にやって淡々と話した。

「ああ、遊奈。私の天使。彼女のためなら、私は何でもしよう。……そして私は、遊奈を犯し、殺した奴らを絶対に許さない。邪魔をするというなら、三田村」

 焦点の合っていない目で、岸川は言った。

「お前も、敵だ」

 そして岸川は、一歩、二歩と、靴底を冷たく響かせて近寄ってきた。

「先生」

「もう謝っても遅いぞ、三田村。私の天使を短い時間とはいえ誘拐したんだ。その罪は万死に値する」

「誘拐って……。これはただのソフトです。あなたの作ったプログラムです」

「違う」正気を失っているとしか思えない目で岸川は言う。「それは、私の愛娘だ」

 ダメだ。まるで話が通じない。完全に狂っている。岸川は赤く染まったカッターナイフを、こちらに向けてきた。 

「……どうしても、罪を償うつもりはありませんか」

「ないな」

「さっき通報は済ませました。じきに警察がやってくるでしょう」

「関係ない。私は遊奈を連れて逃げる。邪魔はさせない」

「……そうですか」

 俺はため息ともつかない、白い息を吐いた。

「じゃあ、先生を止めるためには、やっぱりエンジェルアプリを破壊するしかないわけですね」

 瞬間。

 ぴたりと、岸川の歩みは止まった。

 歩行だけではない。まるで全身が石になったかのように、彼はその場で固まった。

「……何を」岸川の声は、いつもより少し、枯れていた。「何を、言って」

「先ほど、このエンジェルアプリが入っているケータイに、アンジュを送り込みました。……このソフト、自律して動ける機能を有しているわりに、先生の命令がないと言葉一つ話さないんですね。おかげで、何の抵抗もなく侵入できたみたいですよ」

「……遊奈は私の娘だからな。私の許可がなければ勝手なことをしないように設定している」

 許可がなければ、何もできない。

 せっかく意思を持って存在しているのに。

 それではまるで人形ではないか。そんな考えが頭を過ぎり、少しだけ、このエンジェルアプリを不憫に思った。だけどそれは声には出さず、心の中にしまっておいた。

「そこから先は私が話そう、初」

 不意に、アンジュが岸川の携帯電話に現れた。

「先ほどこのケータイに侵入し、全データを見せてもらった。今このケータイは、私の支配下にある」

「なっ……! 馬鹿な! 遊奈、おい遊奈! ケータイに侵入したデータを排除するんだ!」

「無駄だ」アンジュは冷たく言い放つ。「私の支配下にある、と言っただろう? 都合の悪い音声情報はすべてフィルタリングしている。それにもう彼女……牧谷優奈は、そんな命令が聞けるような状態でもないしな」

「何だと!? ど、どういうことだ!」

「簡単だ」あくまで淡々とした口調で、アンジュは言った。「彼女をウイルスに感染させた。全データが破壊されるまで、そう時間はかからないだろう」

 アンジュの言葉を聞いたときの岸川の顔は、なんと表現したらいいだろう。

 目は極限まで開かれ今にも目玉はこぼれそうなほどに飛び出て、あごは落ち、口はあんぐりと開かれていた。驚愕、という言葉がこれ以上ないほど似合う。そんな表情だった。

「おしまいだよ、岸川仙太郎」

 憐れむような目を向けて、だけどはっきりした声で、アンジュは言った。

「死んだ人間は蘇らない。復讐は弔いにならない。そんなこと、とっくに分かっていたんだろう? お前はただエンジェルアプリを愛でていればよかったんだ。娘への代償行為としてな。それだけなら良かったんだ。だけどユーは、道を間違えた。復讐を企てた。それに関係ない人間を巻き込んだ。それを看過するわけにはいかない」

「黙れ」

 岸川は軋む音が聞こえそうなほど強く、歯を噛んだ。

「どうせ悪事を働いた罪人ばかりなんだ。それを告発して何が悪い。私は間違っていない」

「そうかもな」

 あっさりとアンジュは認めた。「そうかもしれない。岸川、ユーには復讐という目的の他に、歪んだ正義感もあったのだろう。それについては問わないよ。……だけどな」

 そう言ってアンジュは、キッ、と視線を鋭くした。

「だけどユーは、神作たちを使って初を陥れた。初は悪人ではない。これは完全にユーが保身のためだけに行ったリンチだ。そうとしか言えない。そして、ユーが言うところの『悪人』の所業だ」

「ぐっ……!」

「ユーは悪人に成り下がった。だから平等に、ユーも断罪されるべきなんだよ」

「黙れ! 黙れ黙れ、黙れぇ! 私は間違っていない! そして私は遊奈とずっと一緒だ! 永遠に!」

 支離滅裂だった。喚き散らしてから、岸川はカッターナイフを強く握り直した。

「ユウナを返せえぇえ!」

 雄叫びと同時に、奴は駆け出し、こちらに襲いかかってきた。

「初!」アンジュが叫ぶ。「このケータイを地面に投げ捨てろ!」

「はぁ!? そんなことしたらお前まで一緒に……!」

 SIMカードはすでに岸川の携帯電話から、俺の携帯電話に戻していた。アンジュを俺の携帯電話に移すには、もう一度SIMカードを差し込まなければいけない。

「そんなことを言っている暇はない! それに――」

 アンジュは言いよどむように目を伏せたが、それも一瞬。すぐにこちらへ向き直った。

「――それに私も、すでにウイルスに感染している。どのみち助からないさ」

「なっ……」言葉に詰まった。「ウイルスって、アンジュ、なんで……!」

「エンジェルアプリを感染させるには、まず私が感染して持ち込む必要があった。仕方なかったんだ」

「だからって!」

「初!」

 アンジュは。

 今まで見せたことない真剣な顔で。

 目尻に涙を溜めて、言った。

「頼む」

 鼻声。いや、今にも泣き出しそうな、涙声で。

「すべてを、終わらせてくれ」

 そう、呟いた。

「……。分かった」

 彼女に答えて、俺は先生の携帯電話を持ち直し、大きく振りかぶる。カッターを携えた岸川は、もうすぐそこまで迫っていた。

「いけ、初!」

「うおぅるぁあ!」

 俺は怒声と共に、携帯電話を力いっぱい、投げ放った。

 そして彼女は、――彼女たちは、屋上の柵を飛び越えた。

 黒くて薄い塊が空に吸い込まれるように放物線を描き、やがて勢いを失い、高度を下げていく。

 それを俺は、ただ漠然と眺めていた。

 岸川も足を止めて、虚ろな目でそれを追っていた。

 言葉はなかった。ただただ、見ていることしかできなかった。

 やがて携帯電話は視界から消え、かしゃあん、と砕けるような音が下から聞こえてきた。

「あ、あああっ!」

 音のした数秒後、思い出したように岸川はあわてて柵まで駆け寄った。

「そんな……馬鹿な……」

 そしてそのまま柵にもたれて、へなへなと力なくその場にしゃがみこんだ。

「天使……。私の、天使が……」

 うわ言のようにぶつぶつと口の中でつぶやく岸川。それを視界の端に捉えつつ、俺も欄干までノソノソと歩み寄っていった。

 金網に指を絡ませて、そっと下を見る。

 携帯電話は、画面が割れて、細かなパーツが四散していた。遠目でもわかる。あれは完全に、壊れている。画面は当然ながら消えており、漆黒だけを映し出していた。

「三田村」

 澄んだ声が聞こえた。振り向くと、後ろにはいつの間にか神達がいた。長身の男に肩を貸し、引きずるように歩いている。

「神達! それに海法!」

「よぉ、初」

 神達に引きずられながら、長身の男――海法はひらひらと手を振った。

「二人とも、無事だったのか」

「私は平気」と、神達。

「俺も。少し蹴られたり、カッターで切られたりしたけど、この通りだぜ」

 そう言って海法は力なく笑った。満身創痍ではあるが、命に別状はなさそうだ。

「それで、三田村」神達はいつも通り、抑揚のない声で言った。「終わったの?」

「……ああ、終わったよ」

「全部か?」海法も真剣な瞳で訊いてくる。

「ああ」

 俺はちらり、と岸川を見た。先程と変わらず、放心したように精気のない目で、座り込んだまま繰り言を続けている。

「全部、終わった」

 そう言って、俺は二人に胸を張って向き直った。

 遠くから、パトカーのサイレンが近づいてきていた。


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