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五章 その三

 それからどれくらい走ったか、よく覚えていない。どこを走ったのかも。

「はぁ、はぁ……」

 気がついたら俺は、手を両膝について肌寒い秋風を全身に受けていた。

「初!」アンジュが俺を呼ぶ。「今、神達に連絡をした。大至急、海法のフォローに向かうように、と」

 そうか、と答えようとして、できなかった。口は呼吸をするのに精一杯で、返事をする余裕なんて、これっぽっちもなかった。

「ここは……」怪訝そうな声でアンジュは言った。「屋上か?」

 そう。ここは屋上だった。

 陽はすでにほとんど沈んでいて薄暗く、吹く風は冷たい。息は煙のように白く濁り、やがて薄まり、霞んで消えていった。

「こんの――大馬鹿もんがぁ!」アンジュは怒声をあげた。「なんでわざわざ逃げ場のないところに行くんだ! 考えなしなのか!? アホにも程があるだろう!」

「はぁ、はぁ。…………悪い」

 なんとか声を出して、それだけ言った。徐々に息も整っていき、少しずつ思考する余裕も戻ってきた。

 しかし。

 改めて考えると、なぜ屋上に来たのか自分でも甚だ疑問だった。

 走っているときは無我夢中で「とにかく遠くへ逃げなければ」と、それだけを考えていた。それだけだった。あとは気がついてみたら、こんなところに逃げ込んでいた、というわけだ。

「……なんで俺、屋上になんか逃げてきたんだ?」

「こっちが聞きたい!」またアンジュは怒鳴った。結構本気で怒っているっぽいトーンだった。

 まずいな。自分でしでかしたこととはいえ、事実として、退路のないところに追い込まれた。しかも三百六十度、全方位の見晴らしがいい。隠れることも難しそうだった。

「やっちまったなぁ……」俺は頭を抱えた。痛恨のミスだ。今更悔いてもどうしようもないが、それでも後悔せずにはいられなかった。

「……とりあえず、警察を呼ぶか?」アンジュもなんとかフォローしようとしているのだろう。おずおずと確認をしてきた。

「ああ、頼む」

 裏サイトや牧谷遊奈のことは横に置いても、岸川は俺に刃物を振るった。立派な傷害罪だ。呼んでおいて損はないだろう。

 さて。

 これから、どうしよう?

「……ためしに先生の携帯電話、電源をつけてみるか」

 俺は独り言のように呟いた。そういえばこのスマートフォンの中に、本当にエンジェルアプリが入っているのかどうか、まだ確認していなかった。まぁ、岸川があれだけ必死に追いかけてきたのだから、ほぼ間違いなく入っているのだろうけれど。

 電源ボタンを長押しして、しばらく待つ。一分ほどで画面にはメニューが開かれ、アイコンがずらりと表示された。

 その中の一つに、天使の羽を思わせるアイコンがあった。

 名前は――エンジェルアプリ。

 これだ。

 やっぱり、ここに隠してあったんだ。

「見つけた」

「本当か、初?」

「ああ、間違いない」

 俺はポケットから自分の携帯電話を出した。画面に映るアンジュに見えるよう、岸川の携帯電話と向かい合わせる。

「……初」落ち着いた声でアンジュは言った。「エンジェルアプリを、起動させてもらえないか」

「わかった」

 彼女の言う通りに、アイコンを軽くタッチしてアプリを起動させる。

 わずかに画面が暗転する。だけど、それも一瞬。

 次の瞬間には、画面いっぱいに一人の少女の姿が映し出されていた。

 髪はセミロングでツインテール。

 つややかな唇。

 肖像画のような造形美。

 だけど、ひどく既視感のある顔つき。

 そこには、写真で見たものと全く同じ、寸部違わぬ牧谷遊奈の姿が映し出されていた。

 これが、エンジェルアプリ。これが、牧谷遊奈。

 本当に、アンジュそっくりの姿形だった。いや、アンジュの方が似ているのか。

 二台のスマートフォンが向かい合い、同じ顔の少女が両面にいる。服装と髪の色意外、違いなんて見つけられなかった。さながら、一人の少女が鏡に映し出されているかのようだった。

「これが……」アンジュは呟く。「牧谷遊奈。……私のオリジナル、か」

 それだけ言って、アンジュは押し黙った。感情の読めない瞳で、ただじっと対面の牧谷遊奈を見つめている。牧谷遊奈も口を開かない。お互いに無言で、ただ真っ直ぐに、自分と同じ顔の少女を凝視していた。

「……なぁ初。お願いが、あるんだ」

 口を開いたのは、アンジュだった。

「何だ?」

「私はこれから少し姿を消す。画面から私がいなくなったら、ゆっくり十数えるんだ」

「えっ?」

「数え終わったら、自分のスマートフォンからSIMカードを抜いて、岸川のものに差し込んでくれ」

「……それはいいけれど。でも、何で?」

「いいから。頼んだぞ」

 それだけ言うとアンジュは唐突に画面からふっ、と消え去った。

「な、ちょ、アンジュ!?」

 一体何が何だか、全然わからない。せめてもう少し詳しい説明をしてから行って欲しいというのは、別に我侭ではないはずだ。

 アンジュが何を考えてあんなお願いをしたのかは分からないが、きっと何かがあるのだろう。俺はそれを信じるしかなかった。

 だって俺は。

 アンジュをもう二度と疑わないと、決めたのだから。

 彼女の指示通りにゆっくりと十秒、心の中で数える。そしてSIMカードを抜き取り、岸川の携帯電話へ挿入した。

「終わったぞ、アンジュ!」

 姿の見えない彼女に向かって叫ぶ。

 するとややあって、岸川の携帯電話がぶるる、と短く震えた。振動を感じて画面を見ると、そこには見慣れた少女の顔があった。

「あ、アンジュ!?」

「ふぅ。引越し成功だ」

 そう涼しい顔で話すのは、間違いなくアンジュだった。牧谷遊奈ではない。でも、なんで?

「アンジュ、なんでお前、そっちのケータイに……」

「なぁに。少しだけ、このエンジェルアプリというものを調べてみたくてな」

「調べる?」俺は戸惑った。「調べるって、何を? どうして?」

 尋ねると、アンジュはこの状況にそぐわない、余裕たっぷりの笑顔でこう言った。

「もちろん、この状況を打破するためだ」


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