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五章 その二

 そう宣言すると同時に、岸川先生はくるりと身を翻し、部室のドアを乱暴に開けた。そして止める間もなく、先生は廊下を走り去っていってしまった。

「くっ、待――!」

 待て、言い切るころには部室に先生の姿はなく、既に足音もだいぶ遠ざかって聞こえていた。

「初、大丈夫か!? ち、血が……!」アンジュは青ざめた顔で脚の傷口を凝視していた。そうしているあいだにも、傷はじくじくと痛みを増している。

「大丈夫、かすり傷だ! それよりもアンジュ。海法と神達に早く連絡を!」

「で、でも……」

「早く!」

 なおも迷いを見せるアンジュに、俺は強い口調で怒鳴りつけた。そして鮮血がのぞく脚をかばうようにして、なんとか立ち上がってみせる。

 よし。大丈夫。傷は痛むが、我慢できないほどじゃない。立っているだけで気が遠くなりそうだが、今はそれをこらえてでも、先生を追わなければならなかった。

「……。わかった」長く迷っていたアンジュは、短く答えて、ふっ、とパソコンから姿を消した。多分、二人と連絡を取るためだろう。

 俺は今日、この場で先生の犯行を暴き、出来ることなら自首するように話を進めるつもりだった。

 だけど、念のため。説得が失敗したときのために、俺は一応の保険をかけておいた。

 俺は海法と神達の二人にあらかじめ「裏サイトの製作者は岸川先生かもしれない」とアンジュを通して伝え、その上で協力を申し出た。

 万が一。もし先生が犯行を認め、それでも逃れようとしたとき。そのときは先生を逃さないよう、力を貸してくれないか。そういった内容だった。

 もちろん、これは非常時の手段だ。できれば新聞部の仲間を巻き込みたくはなかったし、それにそんな場面なんて、来てほしくはなかった。

 しかしこうして、現実は危惧していた通りに、最悪の状況へと向かっていた。

 先生がこの場を逃げて、どうするつもりなのかは、わからない。

 わからないが、放っておけば、今以上に事態が悪化するのは火を見るより明らかだ。そんなことは、絶対に避けなければならない。

 俺は先生のあとを追うため、一歩前に足を踏み出す。途端、じわりとした痛みが左脚を襲った。だけど、耐える。耐えて、前に進まなければいけない。

 足をかばいながら、いつもの倍は時間をかけて部室を出る。当然のように、廊下は無人だった。激しい音を立てて走り去っていた先生の姿も、今は影も形もない。

「初!」アンジュの声が響く。俺の携帯電話からだ。「神達禮から返事が来た。岸川の車を見張っているが、今のところ誰も近寄ってはいないそうだ」

「わかった。海法はどうだ?」

「まだ連絡がつかない」

「そうか」

 短く返事をして、俺は即座に考える。仮に刃物を持った岸川が現れても、神達なら大丈夫。充分対処できるだろう。なら、向かうべきは海法の方だ。

 事前に打ち合わせをして、二人にはそれぞれ別の場所で待機してもらっていた。神達は学校の駐車場で車を、海法は職員室前を見張っている。逃走するなら車を使うだろうし、貴重品などを置いている場合は一度職員室に戻るだろう、という予想からだった。

 部室に来た岸川は手ぶらだった。ということは、やっぱり一度荷物を取りに職員室に向かったのだろうか。

 とにかく、ここで突っ立っていてもどうしようもない。俺は額に冷たい汗が流れるのを感じながら、職員室を目指し、廊下を這うような速度で進んだ。

 痛い。まるで肉をえぐられているみたいだ。体中、血の気が引いて凍えるようなのに、傷口だけはやたらに熱い。体中の血液が左脚から噴き出しているような、そんな錯覚を覚えた。

 そして、どれだけ歩いても前に進まない。実際は間違いなく進んでいるのだろうが、いつもの半分以下の速度でしか進めないもどかしさから、どうしても、そう思ってしまう。

 くそっ。職員室なんて、いつもなら三分とかからないのに。

 遅々として進まない自分の歩みに苛立ちが込み上げてきたところで、不意に廊下の奥から、けたたましい足音と叫び声が聞こえてきた。

 ドカドカとやかましくこちらに走ってくるのは。

「……海法?」

 一瞬、見間違いかと思った。でも、間違いない。あれは海法だ。必死な顔で、甲高い悲鳴を上げながら駆けてくる。まるでホラー映画で化物に追いかけられているようだった。

 そしてよく見ると、その手には四角く薄い何かが握られている。あれは……携帯電話?

「ああっ! は、初えぇ!」俺を見つけた瞬間、海法は情けない声で呼びかけてきた。

「海法! どうしたんだ? お前、職員室を見張っていたんじゃないのか?」

「あ、ああ。そうなんだけどよ……」

 俺の前に来ると、海法は靴底を鳴らして急停止した。ゼェゼェと息を切らせながら、それでもなんとか喋ろうとする。

「落ち着け海法。どうしたんだ?」今にも崩れ落ちそうな大きな背中をさすってやり、呼吸を整えさせる。

「は、初っ……」海法は手に持っていた携帯電話を乱暴にこちらへ渡してきた。「これ、岸川のケータイだ」

「なっ」

 俺は息を飲んだ。これが岸川の携帯電話? 確か以前見せてもらったものは、別の機種だったはずだ。ということは、これが――。

「これが、エンジェルアプリが入っている、先生の古い携帯電話……?」

 電源の入っていない画面は、、光の反射でぼんやりと俺の顔を写していた。

「お前これ、どうやって……?」

 手に入れたんだ、と訊くと、海法は乱れた呼吸のまま口を開いた。

「俺、職員室を外から見張っていて。それで、たまたま先生がみんないなくなる時があって。そのとき、これはチャンスだって思って、こっそり中に忍び込んだんだ」

「何やっているんだよ」

 休日の学校、それも職員室に忍びこむなんて。下手したら、怒られるだけじゃすまないぞ。

「わりい」海法は少しだけ目を伏せて謝った。「でも、結果オーライだったから、許してくれ」

「それで、この携帯電話は?」

「職員室に入って、とりあえず岸川のカバンを漁ったんだ」

「おいおいおい」それ、本格的にまずいだろ。「あんまり危険な真似、すんなよ」

「このくらい、どうってことねーよ」

 そう言って海法はにやり、と口角を上げた。徐々に呼吸は落ち着いてきたようで、ゼェゼェだった息は、今はハァハァくらいには戻っている。

「カバンの中に電源の入っていないケータイがあるのを見てさ。なんか、ピンときたんだよ。ああ、これが初の探していたやつじゃないのか、って」

「それで、そのまま持ち出して逃げてきたってわけか」俺は電源の入っていないスマートフォンを強く握り締めた。「たぶん、ビンゴだ。流石、お手柄だよ」

「へへっ」褒めてやると、海法は疲れた顔で笑った。きっと本当に、そして相当に疲れているんだろう。奴は壁際までふらふらと歩いて、そのまま勢いよく硬い壁にもたれかかった。

「部長が首吊ったときも、初がボコられたときも、俺、何もできなかったからな。……これで、少しは役に立てたかな」

「当たり前だろ」俺は即答した。「少しなんてもんじゃない。本当によくやってくれたよ。だからもう休んでろ」

「言われなくてもそうさせてもらうっつーの」校舎に背を預けたまま、海法はズルズルとその場にへたりこんだ。「もうクタクタだ」

 気の抜けた顔で海法は、ふーっと息をつく。

 ありがとうな、海法。声には出さず、俺は心の中でだけ、奴に感謝を伝えた。

「さて……」

 携帯電話の中には、十中八九エンジェルアプリが入っているのだろう。物的証拠は手に入れた。あとはこれを持って――。

 と、今後について思考を巡らせていると、再び奥の方から誰かが駆けてくる音がした。足音の方を向く。

「なっ……!」

「き、岸川!?」

 俺と海法は同時に声を上げた。

 間違いない。岸川だ。

 初老といっていい年齢にもかかわらず、先生は尋常でない速度でこちらへと近づいていた。顔は憎々しげに歪んでいて、手には先ほどと同じカッターナイフが握られている。目には明らかに敵意、もしくは殺意のようなものが灯っていた。

「なんだよ、ケータイをパクったの、もうバレたのかよ」海法は舌打ちをして、すっくと立ち上がった。「しょーがねーな。初、お前それ持って、逃げろ」

「は?」

 場違いなくらい、素っ頓狂な声が出た。思わず海法の顔を凝視する。

「だから、ここは俺が何とかするから、お前はケータイ持ってどっか逃げろ。神達と違って荒事は苦手だけど、岸川みたいなジジイ相手なら、俺でも時間稼ぎくらいできるからよ」

 そう言って、海法は拳を握り、指の関節を鳴らした。

「待てよ、だったらお前が逃げろ。俺は脚を怪我してるし、どこまで逃げられるか……」

「俺だってめっちゃ疲れてて、もう足ガクガクなんだよ。逃げ切れる保証がないのはお互い様だ。だったら体格のいい俺の方が足止めには向いているだろ?」

「でもっ」

 納得できずに、なおも言い返す。そうしているあいだにも、岸川はどんどん俺たちと距離を縮めてくる。

「押し問答している時間はねえっ。初、行け!」

「海法……」

「早く!」

 叫ぶと同時に、海法は岸川に向かって駆け出していた。岸川にとっては予想外の行動だったらしく、目を剥いて躊躇したように足を止めた。

 チャンスだ。そう思った。

 俺と同様、海法もその一瞬の迷いを見逃さなかったようだ。岸川が動きを止めた隙を見て、相手の腰をめがけて勢いよくタックルを仕掛けた。

「喰らえやっ!」

「ぐっ!」

 身長百九十センチ近い大男に飛びつかれ、岸川は低いうめき声を上げた。そのまま二人はもつれるように倒れこむ。

「初っ! あとは頼んだぞ!」

 岸川を床に押さえつけながら、海法は叫んだ。

「……わかった!」

 俺は踵を返し、もみ合う二人に背を向けた。傷口はやはり痛むが、もうそんなことは言っていられない。

 すまない、海法。そして、サンキュ。

 口の中で小さく礼を言い、俺は電源の入っていないスマートフォンを握り締め、全力で駆け出した。


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