三章 その十二
その後も十五分ほど部長から話を聞いたが、目立って新しい情報は得られなかった。
ここらへんが潮時かな。そろそろ帰ろうかと考え、秒室内を見渡す。掛け時計はもうすぐ四時を示すところだった。
「それじゃ、部長。俺、そろそろ帰ります」
「わかった」特に引き止める様子もなく部長は言った。「また来てね」
「はい」俺は退室しようと踵を返す。が、そこで一旦足を止めて、再び先輩に向き直った。「あの、部長。最後にもう一つ、訊いてもいいですか」
「何?」
「花瓶、どうしたんですか」俺は床に散らばったままの破片を指差した。
「それ、今頃聞くの?」馬鹿にしたような口調だった。「普通、入ってきて最初に聞くもんじゃない?」
そういうものだろうか。なんとなく聞きそびれてしまっただけなのだが。
「すみません。で、なんで割れているんですか」
「割ったの」さも当然のように部長は言う。「ベッドの上から投げて、勢いよく叩きつけて。三田村くんが来る前、ちょっと不愉快な人が来てたから。ちょっと、ぶつけようと思ったの」
「……お見舞いの人ですか?」
「クラスメイト」部長はあからさまに不機嫌になって、唇を尖らせた。「の、男子が一人」
「同級生相手に花瓶で攻撃だなんて穏やかじゃないですね……」
「私は悪くないよ。あいつが失礼なのが悪い」
嫌な予感がした。部長が今、一番言われたくないこと。傷つくこと。
そんなの分かりきっている。
俺が何かを口にするより早く、部長は話した。
「そいつ、こう言ったのよ。『お前、ウリやってるんだろ? だったら同級生のよしみで、安くヤらせてくれよ』ってね」
「……」
「まぁ、そういうバカが出てくるかもって、少しくらいは予想していたけれど」
なんでもないように話す姿が、かえって痛々しい。
まさかわざわざ直接会いに来てまで、からかう奴がいるとは。デリカシーというか、モラルというか、そいつにそういうものはないのだろうか。部長にそう言ったとき、そいつは心が痛まなかったのだろうか。
「三田村くん」名前を呼ばれ、我に返る。「すごい怖い顔しているよ」
慌てて自分の眉間を触ると、確かにシワが寄っている。きっとよほど険しい表情になっていたんだろう。
「私のために怒ってくれたんだね。優しいね」部長は柔らかく笑った。「一緒に部活やってる時は気付けなかったよ」
「……どうも」褒められるのは苦手だった。どう返事をしていいか分からなくなる。
先輩は少しだけ考える素振りをして、訊いてきた。
「ねえ、三田村くん」
「なんですか?」
「お礼に、シてあげようか」部長は扇情的に笑った。「そういう、イイコト」
言葉に詰まる。すぐには答えられなかった。冗談にしても、タチが悪い。それに、俺の知っている部長は、そんな目で、そんな言葉を吐かない。
そう、そんな濁った目で――。
その時、唐突に俺は理解した。さっきから感じていた違和感の正体が、やっと分かったのだ。
そうか。瞳だ。いつもの部長は切れ長の澄んだ瞳で、それが大人びた印象を与えるのに一役買っていたようにも思う。
それが今は、ドブの底みたいに濁った色をして、只々虚ろに開かれているだけだ。
『心春、ずっとショックで塞ぎこんでてね。今日になって、ようやく話をしてくれるようになったの。面会もできるわよ。といっても、まだ精神的に不安定なんだけど――』
部長の母親が話した言葉が蘇る。
精神的に不安定。そうか、そうだった。
会話が成り立つから大丈夫だと思っていた。意思疎通ができていると錯覚していた。
先輩の心は、もうとっくに――
「ふふふ、どうする、三田村くん。ふふ、うふふふふふふふふ」
――壊れていたのだ。




