一章 その一
話題が出たのは、突然だった。
「なあ、初。エンジェルメールって知ってるか?」
十月二十一日の放課後。だんだんと寒さが増してきた部室でパソコンに向かっていると、海法総一はそんな風に、何の脈絡もなく話を振ってきた。
「エンジェルメール?」
聞き返しながら、俺は自分の脳内に検索をかける。しばらく考えてみたが、覚えのない言葉だった。素直に首を振る。
「今、学校で噂になってるんだけどよ。なぁ、聞きたい? 聞きたい?」
海法は背を小さく丸めて、内緒話をするようにこそこそと、しかしどこか嬉しそうに含み笑いを浮かべていた。きっと誰かにこの事を話したくてしょうがなかったんだろう。事情通で噂好きの海法らしかった。
「ぜひ教えてくれ」
俺はキーボードを打っていた手を止め、海法に向き直った。新聞部の端くれとして、いつでも好奇心を持ち、校内の情報には詳しくないといけない。そんな建前を浮かべてみたが、本当は単に休憩の口実が欲しかっただけだ。
海法はとっくの昔に編集作業に飽きていたらしく、大げさに「これは信用できる筋からの情報なんだけどよ」と身振りを加えて生き生きと話しだした。
「エンジェルメールってのは、その名の通り天使様から送られてくるメールなんだってよ。天使様の教えに従い、メールに貼られているアドレスをクリックする。そうやっていいつけを守っていると、天使からのご褒美がもらえるって話だ」
「それ、ただのワンクリック詐欺なんじゃないのか?」
間髪入れずに俺は反応した。そんな詐欺が流行しているとテレビで聞いた気がする。
「違うって。別に金を請求されるとか、そんなことはなくて。なんでも、知りたいことを一つだけ、教えてくれるそうだぜ。そんで教えてくれた後、メールごと消えちまうんだと」
「知りたいこと、ねぇ。将来とか、誰それの好きな人とか? まるでこっくりさんじゃないか、それ」
思わず苦笑してしまう。まさに現代版学校の怪談、という感じだ。海法も『信用できる筋』なんて言っておきながら、あまり本気にしていたわけではないようで、鼻をかきながら「だよなぁ」と、背もたれに寄りかかった。
「しかもそれ、メールを送った側――この場合、自称天使様ってことになるけど――には、何もメリットがないじゃないか。何のためにそんな事やっているのさ」
「単なる暇つぶしか、何かのマーケティング調査とかじゃないのか」
あまり考えた素振りもなく、海法は言う。
「何か、ってなんだよ」
「知らねーよ。目的不明だから噂になるんだろ。送ってる奴に聞けよ、そんな事」
もちろんこの場で答えなんか出るはずもなく、結局、結論をぶん投げる形で話は強制終了させられてしまった。
俺たちの話が一区切りついたところで、横から見計らっていたように「海法くん、三田村くん。雑談もいいけど、来月号の記事、できたの?」と新聞部部長の椎野心春先輩が、できの悪い弟を諭すような口調で割り込んできた。
「あんまり余裕ないんだから、早めにお願いね」
言葉だけはこちらに向けたものだったが、椎野部長はパソコンの画面から目を離そうともせず、手元はせわしなくブラインドタッチを続けていた。
部長にたしなめられては、仕方がない。俺たちは揃って「すみません」と決まり悪く謝り、再び自分のパソコンへと向かった。
私立美鶴ヶ丘高校の新聞部員は、俺を含めて四人。
椎野部長と、副部長の神達禮、そして海法と俺の男女二人ずつという構成だ。ちなみに椎野先輩だけ三年生で、あとの三人は半年前に入学したばかりの一年生だった。
経験の浅い一年坊主が三人と、受験を控えた三年生が一人。そんな具合なので、校内新聞ができあがるのは締め切り間際、しかも駆け込むように、というのが常だった。
といっても、記事がギリギリになるのはいつも俺と海法ばかりだ。要するに、不真面目で仕事が遅いのだ、俺たちは。
そんな二人が無駄話に興じていたのでは、真面目な先輩が小言を言いたくなるのも無理はないというものだ。
自己嫌悪する気持ちを切り替えるために、大きく伸びをする。そしてゆっくりと指を滑らせ、書きかけのワープロソフトに再び文字を打ち始めた。
原稿を書きながら、俺は先ほど聞いた噂話を、頭の片隅で考える。
エンジェルメール、かぁ。高校で流れる噂にしては少し子供っぽい気もするが、まぁ、みんな退屈なんだろう。そんな噂を信じるくらいには。
せめて俺のところにそのメール送られてくれば、真偽を確かめて記事にするっていうのに。今月の担当記事、地味だし。でも、そう都合よくいくはずないよな。所詮、噂だもん。
ダラダラと記事を書きながら、俺はあくび混じりにそんなことを思っていた。