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「光圀の奴、刺されたってよ」
東京オリンピックが無事終わり、その余韻の冷めやらぬ2021年の東京。カジノ界隈で売春斡旋をしていた恭司は、高校時代からの親友、武光にこう告げた。高層ビルの路地裏で二人は久し振りに再会していた。茶色の髪、深い二重瞼の恭司の口からは、煙草を吹かす煙が吐き出されている。武光はカジノのポーカーで荒稼ぎをする賭博師で、二人は学生時代からの腐れ縁だ。
売春斡旋と賭博師。二人が裏社会へと足を踏み入れたのはほんの些細な理由だった。奔放だった彼らは大学受験で大学側に不正を犯され、大学を落されていた。こんな社会に迎合するくらいなら、と恭司と武光は「世界を売った」のだ。
恭司が「刺された」という男。名前は野崎光圀。学生時代、仲間内のリーダー格だった男で、恭司と武光とは親しかった。光圀もまた先の大学受験の被害者でもあった。そのせいか、光圀と恭司、武光の三人には不思議な連帯感があった。光圀の名前を聞いて、短く乱雑に刈ったヘアースタイルと、黒いシャツ、赤ネクタイ姿の武光は残念そうに口にする。
「そうか。でも俺達は『狂った世界』に踏み込んじゃったからな。東京も俺達も変わってしまった。仕方ない」
光圀は暴力団事務所に出入りし、ドラッグの密売に精を出していたと言うから、事件に巻き込まれても特に不思議はない。武光はそう思うと、光圀の学生時代からの恋人、恵のことが気に掛かった。彼女は光圀が暴力団から足を洗うのを再三勧めていた女性だ。
恵は長い髪が美しい女性で、どこか神秘掛かり、白く透き通った肌が魅力ある女性だった。学生時代は恭司も武光も、恵に恋をしていた。だがその恵は光圀から何があろうと決して離れなかった。だからこれを機会に彼女も汚れた世界から離れて欲しい。そう武光は切に願っていた。
「恵はどうするんだろうな」
恭司は武光の心を見透かしたように、武光に尋ねた。恵には、早く東京の裏社会などからは縁を切って欲しい。その思いが武光にはあった。だから無性に切なかったが、今、恵に近づくのは余りにあざとく、品がない。それに光圀へ強い想いを、抱いているであろう恵を傷つけてしまうだけだろう。そう武光は思っていた。だから武光は、恭司から煙草を取り上げると、火を足でもみ消し、口にする。
「どうだろうな。恵のことは大切だが、会うわけにも行かない。取り敢えず俺達は、『仕事』をしなきゃならない」
恭司は、まだ煙の燻る煙草の残滓を見つめる。恭司もまた、かつて恵に思いを募らせていた。だが今こんな生活を送る自分が恵に会えば、彼女を幻滅させるだけだ。そう思うと、恭司も、あえてもう恵のことは口にしなかった。恭司もまた、自分が光圀と同じ空気、同じ息遣いの世界に住む人間であるのを知っていたからだ。恭司は煙草を踵で踏み蹴散らす。恭司の言葉には切なさと哀感が漂っている。
「違いない。女神には汚れた手じゃ決して触れちゃいけない。それに、明日はわが身。武光。お前も気を付けろよ」
そう言って二人は久し振りの再会を、恵への想いを期せずして確かめる形で終わった。恭司と武光にはやるべき仕事が待っていた。
武光は今日も東京のカジノへと向かう。荒稼ぎする相手はポーカーのコツ、数学的構図など何も知らない素人達だ。ポーカーの世界大会で入賞した経験のある武光には格好の標的だった。武光は、いつものフロアに足を運ぶ。そしてディーラーと数人のプレイヤーとともにテーブルを囲む。その時、武光はふと気付いた。武光と卓を挟んだプレイヤー達の顔つきが若干違うのだ。だが武光は構いもせずにゲームを進めて行く。
幾度かの勝負の後、武光は感づく。自分を除くプレイヤー達がチームを組んでいるのを。そして、手元にあるハートのクイーンを目にして、武光は口元へ手をあてる。これが一番重要な事実だ。カードの配られる確率が明らかにおかしい。隔たっているのだ。その二つの事実を前にして武光はすぐに理解した。「イカサマ」されている。
その時、武光の脳裏に海辺で日傘を差して佇んでいる恵の姿が思い浮かんだ。彼女は武光にこう語り掛けているようにも、彼には思えた。
「もう、終わりにしよう?」
武光はそのイメージを何とか振り切ろうとする。「イカサマ」。その現実こそが今は重要だ。そしてその事実は、大学受験不正事件を武光に思い起こさせた。
不正を働かれていると分かれば、さっさと席を離れて、カジノを後にすればいい話だ。実際武光は席を立ち、その場から離れようとした。するとその時、黒服の男と、煌びやかな赤いドレスの女が、武光に近づき耳打ちする。
「遊びが過ぎたようだな。小僧」
「世界中、どのカジノに行ってもあなたは同じ目に遭うわよ」
武光は、冷たく怜悧な瞳で、黒服の男とドレスの女を見つめる。二人は真摯だが同時に憐れみにも似た目をしている。武光はその瞬間、自分の賭博師としての生涯が終わったのを悟った。後は時折、不法な賭博場に赴き、僅かな金を、貧しい人々から巻き上げる人生が待っている。それは武光にとっては、フェアな行為ではなく、もどかしく、陰鬱なものだった。そう思うと武光は、両握り拳を激しく振り下ろし叫ぶ。
「アッ!」
そして武光は、若干の無念さと、心残りを残して、カジノを後にする。その時、恵が不意に武光に優しく微笑みかけたようにも彼には思えた。
恭司は、自宅のマンションに戻り、買春を求める顧客のアドレスをチェックしていた。そして幾人かの売春婦に通話する。だが連絡が取れない。おかしい。いつもなら、金に困った少女達十数名を手配出来るはずなのに。一瞬だけ不穏な単語が恭司の頭を過る。「四面楚歌」。もう一度高位の売春婦、白川愛実に連絡する。すると怖気づいた様子の愛実が出る。
「恭司さん? 何か……、色々と不都合が。とにかく気を付けて。私からはそれだけ」
そう言って愛実は携帯を切る。不都合。怖気づいた様子の愛実。何かある。そう思うと恭司は、金目の荷物全てをトランクに詰め込んでマンションを後にする。愛車を破棄して、タクシーに乗り込んだ恭司が、バックミラー越しに見たのは、警察が自分のマンションに乗り込む姿だった。呆気ない。こうも簡単に自分の本拠の一つを取られてしまうとは。だが次の瞬間には恭司はまた別のアイデアを練っていた。
その時、恭司にも海辺で日傘を差す恵の姿が心を過った。彼女は切なげに、だが恭司を抱き寄せるように言葉を投げ掛ける。
「恭司? あの頃へ帰ろう?」
恭司はそのイメージを振り切って、新しい拠点、新しい人脈を探そうとした。それを見つけ出さなければ、出口はない。そうして恭司は同業者の筒元に会いに行く。だが筒元のマンションで見たのは、筒元が警察に連行される姿だった。慌てて踵を返し、次の手段を考え出した恭司を止める手があった。売春斡旋業者の雄、坂上だった。坂上は精気のない凍った表情で恭司に告げる。
「詰みだ。恭司。お前達、貧民が自由に出来るのも、ここまでだ」
その言葉が、売春斡旋から手を引かなければならない最後通告だと恭司は知った。坂上の手を軽く振りほどくと、恭司は大声で叫ぶ。
「アッ!」
それは同じく放逸な生活が行き止まりを迎えた武光の叫び声と重なって聴こえた。その叫び声を最後にして恭司は売春斡旋から手を引いた。その時、恭司には恵が澄んだ瞳で自分に微笑みかけてくれたようにも思えた。
海。潮風が気持ちよく吹き抜けていく砂浜で、恭司と武光は片肘をついて座っている。隣には僅か三メートルほど隔てた場所に、白い日傘を差す恵が立っていた。恭司と武光は思う。あの時の、「行き詰まり」に陥った時のイメージのままだと。
恵は黒い髪を風に靡くままに任せている、白いワンピースから覗く、透き通った肌が透明感を醸していた。恵は、恭司と武光の散々な顛末を聞いて、「そう」とだけ軽く微笑んでみせた。
聞けば、光圀はヒットマンになるように命じられた、17才の少年の身代わりになったと言う。敵対する暴力団の幹部を、銃で撃ち抜こうとして刺されたらしい。恵は微笑む。
「バカな人。本当に。『世界を売って』、自分の命も売ってしまった。本当にダメな人ね」
水平線を見つめる恵の、詳しい表情は窺い知ることが出来ない。恵は少し寂しげに傘を傾ける。
「彼、本当は無理してたのね。早くあんな生活、終わらせたかったのかもしれない。あなた達と同じくらいね」
恭司と武光は、着替えもここ数週間ろくに出来ていないらしく、皺だらけのシャツを着ている。恭司と武光は、恵の言葉にフッと笑みを浮かべて頷く。
「違いない」
恵は、今も変わらず澄みきった魅力があり、心の美点を忘れずにいる。恭司と武光は恵を愛しく思い、そしてまた再び心惹かれていた。恵は恭司と武光を安全な世界へエスコートする御使いのようでもあった。光圀にとっても恵はそんな女性であり続けたのだろう。
光圀の死と時同じくして、裏社会から足を洗うことになった恭司と武光は、恵の神秘性に救われた思いだった。
恭司と武光の前途には、二人が再会したビルの薄汚れた裏路地から離れ、青くどこまでも澄みきる海が広がっていた。白い海鳥達が一斉に羽ばたいていく。輝く羽根がひらひらと舞い落ちるのを見つめながら恵はこう零した。
「何もかも失って、大切なもの。何か見えた?」
その言葉は恭司と武光の胸に強く、優しく響き、いつまでも木霊していた。恭司と武光の仰ぎ見る空を白い雲がゆったりと流れ、温かく、優しい風が二人の胸を吹き抜けていく。恵に救われた。恵はいつまでも恵のままだ。そう思うと恭司と武光は無性に嬉しかった。恵は最後にもう一度恭司と武光の二人を抱擁するようにこう口にした。
「そう。本当に大切なものが何か、見えたでしょう?」
その言葉は淡い青春期を、光圀と恵とともに駆け抜けた恭司と武光の心にいつまでも響いていた。




