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出くわし、出くわし。

 甲が歩いてくる乙をよけようとすると、乙も同じ方向に体をよける。だから甲が慌てて反対方向によけようとすると、これまた同じように乙も反対方向に体をよける。そしてお互いが気まずい思いをして、通せんぼするカタチになってしまうのを「出くわし、出くわし」と呼んでいた時代があった。

 これはそんな長閑な時代、昭和後期の物語である。

 高校二年生の木田裕也は教師や学校に少し反発心がある、どこにでもいる青年だ。彼はその奔放な気質から教師たちに目をつけられていた。

 彼が得意なのは「遊ぶ」ことで、不得意なのは学校勉強だった。彼は今日もテストの赤点を担任の小川に注意されていた。小川は生活指導も請け負う男で手厳しい男であった。彼は手を振りかざす。

「理系も文系もダメ。出来るのは運動がそこそこ。木田。そんなんでどうする? 学生時代に生涯賃金も決まる時代に。お前を欲しがる企業なんてどこにもないぞ」

 この手の意見を軽やかに交わすのが木田は得意だった。だから彼は極力優等生ぶって答えた。

「農村と漁村の過疎化が進む時代に、需要を求めてそちら方面に出向きましょうかと思いまして。ええ」

 木田は作り笑いを浮かべて小川の話の腰を折るつもりでいた。それでも小川は辛辣な言葉を投げ掛けてくる。

「学生時代に生徒達はふるいに掛けられる。お前は差し詰めザルから真っ先に落とされた砂利みたいなもんだな」

 木田は笑みを崩さず答える。

「砂利には砂利の生き方がありますから」

 小川はなおも続ける。

「砂利の生き方はあっても、誰にも見向きもされずに踏みつけられるだけの人生だぞ。お前は砂利になりたいのか? 次の追試で砂利人生から、おさらばするんだな!」

 そう最後に痛烈な言葉を浴びせて、小川の話は終わった。

 職員室から出てきた木田は気持ちよさそうに背伸びをすると自由を満喫した。吸い込む空気が彼の胸に染み渡っていく。彼は嬉しそうな笑みを浮かべると下駄箱へと向かう。

 木田が廊下を歩く道すがら、前方から彼のクラスメート手島陽子が歩いてくる。彼女はクラス一の優等生だ。

 彼女は資料を胸一杯に抱えている。どうやら職員室に用があるらしい。木田にとって陽子はただのクラスメートでしかない。だから普通に道を譲ろうとした。だがその時、例の「出くわし、出くわし」が二人の間に起こった。

 木田が右に道を譲ろうとすると、陽子も同じ方向に道を譲ろうとし、木田が左に道を譲ろうとすると、陽子も同じ方向に道を譲ろうとする。

 結果、何と3回も二人は「出くわし、出くわし」を体験したのである。

 陽子は天真爛漫に笑う。

「アハッ。『出くわし、出くわしだ』」

 木田は憎まれ口を叩く。

「『アハッ』じゃねぇよ。何度も同じ方向によけやがって。天然か?」

 サラリとした黒い前髪の陽子は少し頬を膨らませると言い返す。

「私が天然なら木田君も天然だ。『出くわし出くわし』三回もやっちゃったんだからね」

 木田はしばらく言葉を失って、髪の毛をくしゃくしゃに掻きむしり、陽子との間の抜けた会話を終わらせようとする。

「とにかくどけよ。俺は小川の手厳しいご意見で、ただでさえ疲れてるんだから」

「うん。わかった。疲れてるんだね。お疲れ様。ゆっくり休んでね」

 調子が狂う。そう木田が思っていると、陽子が溌剌とした声で、突然木田に話し掛ける。

「ねぇねぇ。木田君。この『出くわし出くわし』を体験する人って『人間の欲望』を咄嗟に掴む能力があるんだって」

「誰が決めたんだよ。そんなこと」

 木田は煩わし気に訊いた。陽子は無邪気そのものの、疑う心さえ何も持たないかのような口振りで答える。

「科学誌に載ってた。この手のタイプは数学に才能ある人が多いらしいよ。うん。だから……」

「だから何なんだよ?」

 木田は少し咎めるように言い放つ。こんな優等生の頭でっかちに俺の気持ちなんて分かるもんかと胸の内で呟きながら。だが陽子は動じることなく笑顔を崩さない。

「だからさ。木田君、頭悪くないかも。数学とかで花が開くかも」

「……ほう」

 そう零して木田は、希望溢れる未来を見出した。木田は陽子の話だけで少しその気になった。

 クラス一の優等生の言葉。科学誌に載っているという事実。この二つの後ろ盾だけで彼は本気になってしまった。少し本腰を入れて数学を学んでみよう。そう木田は決意した。

 人間、暗示にはかかり易い。暗示に掛かれば即行動。それが木田のモットーだ。

「じゃあね。木田君」

 そう別れの言葉を告げて立ち去っていく陽子の後ろ姿を見つめながら、メラメラと燃え盛る熱い向学心を木田は感じ取っていた。

 木田はそれ以来、数学書を片っ端から読み漁り、必死になって数学の問題集に取り組んだ。目指すは、落ちこぼれ脱出、落第生離脱。木田は生まれて初めてテスト勉強というものに熱中し、没頭していった。もうこうなったら彼の向かう所に敵はない。まずは打倒追試だ。そう心に決めると決死の覚悟で木田は勉強机に顔をうずめていく。そして木田は日の丸鉢巻きを頭に結ぶとこう叫ぶ。

「おうりゃ!」

 そして月日は瞬く間に過ぎ行き、木田は一週間後の追試を迎えた。教室の座席に、一人座る木田の表情には精気が漲り、自信に満ち溢れている。教壇に立つ小川がいつものように上から目線でこう告げる。 

「それじゃあ、追試を始める」

 今の俺にとっては追試など朝飯前のお惣菜よと言わんばかりに意気込んで、木田は追試に臨んでいく。

 世界史、現国、物理、化学とテストは続き、木田はいよいよ数学のテストを迎えた。

 白紙の解答用紙に向かい合った木田は、満面の笑みを浮かべる。これまでの苦手意識が嘘のようだ。あれもこれも、まるで魔法か、催眠術に掛かったかのように見る見るうちに解けていく。解ける解ける。そう木田は呟きながら、瞬く間に問題を繙いていく。

 そして木田はこれまでに感じたことのない充実感を覚えて追試を終えた。

「やることはやった」

 木田は、何もかも燃え尽きて灰になった男のように手をだらりと下げ、心地よい脱力感に身を委ねていた。

 自信と活気に溢れた木田は追試の結果が発表される三日後に備えて、授業では積極的に挙手、解答し、事もあろうか掃除当番まで喜んで引き受けた。たった一つの自信ときっかけがこうも人を変えるのか。周囲の人間、及び担任の小川はそう思わずにはいられなかった。

 木田がそうこう学校生活を楽しく送っているうちに、やがて追試の結果が知らされる日が来た。木田は自信満々に小川から、解答用紙を受け取る。果たして点数は何点か。少なくとも90点以上。あわよくば100点満点か、と木田の期待は膨らむ。だが残念なことに追試の結果は彼の期待を裏切るものだった。ほとんどの教科が落第点。肝心の数学に至っては30点未満だったのである。

 その日の午後、職員室で毎度のように、小川は辛辣な言葉を木田に浴びせていた。

「あれだけ様変わりして、結果は期待を裏切る惨憺たるもの。お前はあの一週間、何をやってたんだ。今後とも私はお前を厳しく指導していく。覚悟するんだな!」

 いつもなら聞き流せる小川の罵詈雑言。だが今回だけはさすがの木田も落ち込んでしまった。あれだけ勉強したのに。あれだけ自信をつけたのに。そう思う彼の頭上に赤点という過酷な現実が伸し掛かる。何と、何と。

 木田はガックリと肩を落として職員室から出る。廊下をあの日と同じように歩く木田。あの日と違うのは、仄かな未来への希望、反骨心まで叩きのめされてしまった悔しい思いがあることだった。木田が力なく廊下を踏みしめていると前方から、またも陽子が資料箱を抱えて歩いてきていた。

 その頃、職員室では木田の答案を見つめる小川の姿があった。小川は頭を抱えている。同僚の教師、五十嵐が湯呑の茶柱を嬉しそうに眺めながら小川に尋ねる。

「どうしました? 小川先生?」

 小川はどうにもこうにも納得出来ないという様子だった。信じがたい出来事が起こった。ある種のミラクルだ、とさえ小川は思っていた。

「いや、おかしいんですよ。例の木田という生徒の数学の答案」

 五十嵐は茶柱を愛おしそうに確かめると一気、ひと息に緑茶を飲みほして訊く。

「それが?」

 小川は訝しげに、そして奇奇怪怪、摩訶不思議な現象が起こったと言わんばかりの口調で答える。

「一つ一つの解答は不正解なんですが、『トポロジー』いう高度な技術を使って解答しているんですよ」

「『トポロジー』」

 馴染みのない言葉の響きに五十嵐は若干首を傾げておうむ返しをする。小川はその五十嵐の言葉も耳に入らない様子で、口元に手をあてる。

「おまけにその手順も間違っていない。短期間でこの技術を身につけたのなら、相当な数学の才能の持ち主だ」

 それを聞いた五十嵐は喜び勇んで、小川に勧めてみる。

「ならそう仰って励ましてやればいいじゃないですか」

 小川はこれまでの木田との関係性からか、そういう素直な感情を表に出すのが難しいのか、はばかられるのか、しばらく腕を組んで考え込む。

「うーん。ただの偶然ということもありますしね。だが……」

 しばらくの沈黙。小川の、どう気持ちを整理していいか分からない呻き声が、職員室中を覆う。他の教師達が小川に注目すると彼は重い口を開く。

「よし、私も鬼じゃない。今度こんな解答が出来たならば私の叔父に彼を紹介してみましょう。素晴らしい才能を見せるかもしれない」

 五十嵐は快心の笑みを浮かべて一度両掌を叩いてみせる。そして五十嵐は身を乗り出して、期待感一杯に小川に尋ねる。

「たしか小川先生の叔父様は高名な数学者でしたねぇ」

 小川は若干、複雑な表情を見せる。それが彼の思春期と、期待を掛けられて、それに応えられなかった若き日のトラウマを表しているようにも五十嵐には思えた。小川は寂しげに、だが懐かしげに答える。

「ええ。ただ、私はその後光のお零れにも預かれませんでしたがね」

 そう言って小川は照れくさそうに、そして自分のトラウマを晴らす為に、木田に当たり散らした自分を恥じるように、両頬を撫でた。教室の外からは鳥の鳴き声が聴こえてくる。それはうららかな春の午後の一ページだった。

 時同じくして廊下では木田と陽子がまたも「出くわし、出くわし」を繰り返していた。まるでデジャブだ。そう思って眉間に皺を寄せる木田に、陽子はあどけなく笑ってみせる。

「アハッ。また『出くわし、出くわし』だ」

「『アハッ』じゃねぇよ。全く。天然か?」

「じゃあ、木田君も天然だ」

 木田は困ったように頭を掻いて、だが陽子に優しい声を掛ける。追試の結果こそ不本意だったが、彼はやりきった達成感で満ち満ちていたのだ。

「荷物、重そうだな。職員室まで持って行ってやろうか?」

 突然の木田の豹変振りにも、陽子は相も変わらず奔放な笑顔を見せる。彼女は人の悪意や、マイナスの感情に、幸いなこと鈍感らしい。

「アハッ。ありがとう。木田君、優しいんだね」

 そう言われると木田は少し恥ずかしげに左唇をあげてみせる。

「ちょっとは今回の件で恩を感じてたりもするからなぁ」

「『今回の件』って?」

 全くもって身に覚えのない陽子は不思議そうに首を傾げる。その様子、表情、仕草を見て、木田は胸の内を悟られなかったと安心した。そして木田は陽子の資料箱を受け取った。こう素っ気ない返事を添えて。

「んにゃ」

「ふぅん」

 あくまで鈍感、天真爛漫を地で行く陽子と木田は、そうして職員室へと向かっていく。職員室では小川からのサプライズな誘い、申し出が待っているとは二人共露とも知らずに。

 肩を並べて歩く木田と陽子の、二人の未来にはどこか明るい光が仄かに射しているようだった。窓ガラスからは穏やかな陽射しが射しこみ、見渡せる空は青くどこまでも澄みきっていた。

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