8 オスマン帝国の建国からカルロヴィッツ条約まで
「久しぶりのヨーロッパだ!」
「ヨーロッパって言っても正直微妙なところだけどね、イランとトルコだし。」
「トルコは一応EU圏だがイランは入らないな。まあ両方とも宗教はイスラームが中心だから今回はヨーロッパっていうより中世のイスラームについてだな。」
オスマン帝国の成立
「まずはとりあえずオスマン帝国の成立からな。建国者はオスマン一世。都はブルサ。1299年小アジア、アナトリアに建国した。」
「……アナトリア?アナトリアって確か十字軍の前はビザンツ帝国の一部で、マンジケルトの戦いの時にセルジューク朝に取られて……オスマンはどこから出てきたの?」
「あー……っと、セルジューク朝はアナトリアとったりしてビザンツを圧迫してたんだが、結局内紛でセルジューク朝は四つに分裂しちまったんだ。そのうちの一つ、ルーム=セルジューク朝だけが最も長く続いた。まあ13世紀ごろには完全にモンゴルの支配下に入れられて、名前だけの王朝みたいなもんだったがな。で、その張りぼてのルーム=セルジューク朝に仕えていたのが、オスマン帝国の創始者、オスマン=一世。このオスマン一世はルーム=セルジューク朝から独立してスンナ派のオスマン帝国を創設した。オスマン帝国はじわじわと領土を広げ、1362年にアドリアノープルをビザンツ帝国から奪いオスマン帝国の首都にした!」
「ビザンツ帝国は相も変わらず取られっぱなしだねぇ……。」
「さらに四代目のバヤジット一世の時、1396年にはハンガリー王ジキスムントの十字軍にニコポリスの戦いで勝利を収める。あ、ジキスムントは前に出てるな?」
「……覚えてません!」
「土下座をしろ。話はそれからだ。…………1414年、コンスタンツ公会議を招集した神聖ローマ皇帝だ。このコンスタンツ公会議が原因でフス戦争が始まった。」
「あーあーあー!大丈夫!思い出した!だから土下座した私の頭を踏みつけるのをやめてくれるとうれしいかな!」
「まあここまでオスマン帝国は順風満帆に国土を広げていってたんだが、1402年、アンカラの戦いでティムール朝に負けてバヤジット一世は捕えられ、その後病死。以後11年が空位時代に入ってオスマン帝国は滅亡の危機に立たされた。」
「ティムール朝って?」
「ティムール朝も長くなるからオスマン帝国が終わったら教えるわ。ここで一旦勢いが収まるが、1444年に即位したオスマン第七代スルタンメフメト二世の時再び盛り返した。1453年。コンスタンティノープルを攻略しビザンツ帝国を滅ぼした。1453年は丁度百年戦争が終わった年だな。一応他の地域の出来事も一緒に覚えとけ。」
「テストが終わったら考えておくね。」
「そんなんだからお前模試が伸びないんだよ……。1453年、オスマン帝国に占領されたコンスタンティノープルから名前を変えてイスタンブルとしてオスマン帝国の首都になった。ここからはオスマン帝国の全盛期だ。」
オスマン帝国の全盛期
「オスマン帝国はとにかく周辺国を攻めまくった。まず第九代スルタンのセリム一世が1517年にエジプトのマムルーク朝を滅ぼしてメッカ・メディナの支配権を獲得した。で、このセリム一世はもう一つ大きなことをした。それがスルタン=カリフ制。マムルーク朝のカリフから地位をはく奪して、スルタンがカリフを兼ねることになった。」
「法王=王、みたいな?」
「ま、そんな感じだ。で、次のスルタンもすごかった。第十代スルタン、スレイマン一世。スレイマン一世は1526年にモハーチの戦いでハンガリー王、ラヨシュ二世を敗死させた。このモハーチの戦いでハンガリー地方はほぼ征服だ。さらに三年後の1529年第一次ウィーン包囲を行った。このときの神聖ローマ皇帝カール五世を圧迫。この第一次ウィーン包囲は西欧に大きなインパクト与えて『トルコの脅威』と呼ばれた。」
「乗りに乗ってるね。ていうかスレイマン一世一人でいろいろしすぎでしょ。」
「おお、次は海上。1538年プレヴェザ海戦が起きる。オスマン帝国対スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合艦隊だったんだが、オスマンはこれに勝利。クレタ・マルタ島を除く全地中海の制海権を掌握した。ヨーロッパもあ、これヤバいなって思うわけだ。」
「うん、やばいね。素人目から見てもオスマン帝国無敵だよ。」
「まず最初に危機感を感じたのがたぶんフランスだな。まだセリム一世だったころにフランスのフランソワは友好通商をはかるために西ヨーロッパ、主にキリスト教徒に対しての治外法権を求めた。フランソワ一世を皮切りにイギリスやオランダともこれを結んだ。この治外法権がカピチュレーション。」
「懸命だね。」
「で、カピチュレーションをはじめとするオスマン帝国の統治についてだ。統治はイスラーム法のシャリーアに基づくスルタンの統治だ。まず最初にティマール制だ。これはトルコ騎士のシパーヒーに対して軍事奉仕の代償として徴税権を与える制度だ。」
「要はお命代だね。」
「もっとも重火器が使われるようになってから騎士の必要性が薄れて徐々に廃止されていったんだがな。次ちょっと怖いデウシルメ制とイェニチェリだ。オスマン帝国の戦いにおいて大きな役割だったのがイェニチェリ、常備歩兵軍団。ただこの歩兵軍団を構成するのはスルタン直属の奴隷だ。」
「うわあ……。」
「しかもこの奴隷をどこで調達するかっていうのがさ……捕まえたキリスト教徒を無理やりイスラームに改宗させて強制的にイェニチェリや官吏にさせるんだ。この制度がデウシルメ制。」
「じゃあ国民は全員イスラーム教徒?」
「いや、そういう訳でもなかった。ほとんどがイスラーム教徒ではあったんだが、オスマン帝国は異教徒を全部まとめてグループを作らせた。非イスラームの共同体に従来の儀式や慣習を認める代わりに貢納の義務を与えた。これがミッレト制。」
「オスマン帝国異教徒に当たり強ぇ……!」
オスマン帝国の衰退
「まあ当然のごとく、いつまでも順風満帆とはいかなかった。1571年。レパントの海戦が起こる。オスマン帝国対スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊。」
「ん、1538年のプレヴェザ海戦の時とメンバーは変わってない?」
「国自体はな。ただスペインがプレヴェザ海戦のときと一味違った。このスペイン海軍は一般的に無敵艦隊と呼ばれる海軍だった。このレパントの戦いでオスマン帝国は連合艦隊に大敗を喫した。さらに1683年には第二次ウィーン包囲を行ったんだが、これが失敗。オスマン帝国はオーストリア・ヴェネツィア・ポーランドと講和条約、カルロヴィッツ条約を1699年に結んで、オランダにハンガリーの一部を割譲した。でこのあと、オスマンはじわじわヨーロッパから圧迫を受けて徐々に衰退していった。」
「1299年建国、1699年に条約を結んで衰退……約400年の興亡だね。」
「ま、オスマン帝国はこれくらいだ。次は最初の方で絡んできたティムール朝とかな。」