3 ローマカトリック教会の成立からヴォルムス協約まで
「よう、進んでるか?国土回復運動くらいまでは行ったか?」
「なにそのラジオ体操みたいな運動。」
「…お前テスト範囲100年戦争までだろ。一週間でテスト範囲終わるのか?!」
「終わりそうもないかな?ほら座って座って!瑞季くんの授業聞いてあげるから。」
「なんで上から目線!?」
「今回は前回放置してたキリスト教教会の話だ。前回、西ローマ帝国はオドアケルに潰されたって話しただろ?その前からキリスト教はあった。だが290年のころの皇帝、ディオクレティアヌス帝はキリスト教を迫害していた。」
「何で?ていうかその時の国民は何教だったの。」
「ディオクレティアヌス帝は皇帝崇拝を国民に強要していた。だから皇帝以外を崇拝するキリスト教を迫害していたんだ。だがディオクレティアヌス帝の次の皇帝コンスタンティヌス帝はミラノ勅令を出してキリスト教を公認したんだ。さらにニケーア公会議を開いて教義の統一を図った。この会議で正統とされたのは?」
「アタナシウス派!んで異端とされたのがアリウス派!んでアリウス派はゲルマン人の間で流行ったけどフランク王国はアタナシウス派に改宗した。」
「よしよし、覚えてるな。392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教に定めた。国教になるってことは教会は圧倒的な社会的地位を確立したってことだ。ただやっぱ権力が集まってくるってことは当然教会は社会的ヒエラルキアの中に組み込まれるってことだ。ちなみにアタナシウス派はこれ以後カトリックって呼ばれるようになる。」
「カトリックって確か普遍的って意味だっけ?」
「そうそう。でここからだ。教会はそこら中にあったんだがそのなかでも権力を持っていた教会を五本山と呼ばれた。一応字の通り五つの教会なんだが今回はちょっとはしょって、五本山の中で最有力だったローマ教会とコンスタンティノープル教会について掘り下げるぞ。」
「コンスタンティノープルってビザンツ帝国の首都じゃなかったっけ。」
「ああ、そもそもビザンツ帝国のいる土地はかつてローマ帝国の一部だったんだがテオドシウス帝の死後、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。しかも分裂した後、西ローマ帝国はオドアケルに滅ぼされ、東ローマ帝国はビザンツ帝国に名前を変えた。納める民族、国は変わってもその土地に根付いた宗教はなかなか変わらないもんだ。」
「へー。でも最有力だなんて言われる教会が二つもあるなんて喧嘩になりそうだよね。」
「うん。まあ喧嘩ってほどじゃないが…。西ローマ帝国が滅亡してから、ローマ教会はビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から分離し始めた。6世紀末のローマ教皇、グレゴリウス一世以来、ローマ教会はゲルマン人への布教に熱を入れていた。ところで日向、お前がもしセールスマンなら、売りたい商品の説明を口だけでするか?」
「いきなりだね…。口だけっていうのはないかな?商品がないと分かりにくいし。そのものがあった方が買ってくれそうじゃない?」
「そう。宗教も同じだ。ゲルマン人たちにどんどん効率よく宗教を広めるには口だけの説法よりも、銅像とかの方が分かりやすかったんだ。ここ、覚えとけよ。コンスタンティノープル教会とローマ教会は首位権を争っていた。そして二つの教会の方針に大きなずれが生じたんだ。」
「ずれ?両方ともアタナシウス派でしょ?あんまり変わることなくない?」
「なくなくないんだな、これが。イスラームは偶像崇拝を禁止してたのは知ってるな?それを知ったビザンツ帝国皇帝、レオン三世、あ、このレオン三世はビザンツ帝国の皇帝だからカール大帝の戴冠とは無関係だから気を付けろ?このビザンツ帝国のレオン三世は726年に聖像禁止令をだした。原始キリスト教は聖像崇拝を禁止してたし、こっちの方がやっぱ良いんじゃね?って思ったんだろうよ。…で、ローマ教会とコンスタンティノープル教会のずれ、わかったか?」
「うん!ローマ教会は広めたいから聖像が必要で、コンスタンティノープル教会は聖像を無くしたかったんだね。」
「ああ、これでローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立は明らかになった。そしてローマ教会はコンスタンティノープル教会以上に力が欲しかった。だからフランク王国と手を組んだんだ。」
「ああ!それでピピンの寄進とかがあったのか。」
「そう正にローマ教会の思惑通り、力を手に入れ、しかも教会所有の領地まで手に入れた。おい!ここの領地は何て国の何て場所だ?」
「ランゴバルド王国のラヴェンナ地方!!なんか懐かしい!」
「そうラヴェンナ地方が一番最初の教皇領だ。そして800年のクリスマス、カール大帝の戴冠が行われた。このカール大帝の戴冠はコンスタンティノープル教会からの完全なる独立を意味していた!11世紀キリスト教世界は、教皇を首領とするローマ=カトリック教会とビザンツ皇帝を首領とするギリシア正教会の二つに分裂したのであった!」
「ローマ=カトリック教会爆誕!」
「ここからは彼の有名なカノッサの屈辱までの経緯だ!」
ーカノッサの屈辱編ー
「ローマ=カトリック教会の一番上の地位は?」
「教皇!」
「そう。頂点が教皇、それから下が順に、大司教、司教、司祭、修道院長。こうやって地位があることからヒエラルキア、階層制組織ってことが分かるな?ただ大司教や司教にもなると国王や貴族から寄進として領地をもらったりして、司教兼大領主って形になる。そしてその司教兼大領主の奴らが農奴たちにかけた税が十分の一税だ。覚えてるな?」
「ん、大丈夫!」
「ちょっと話がずれるが、ここからは修道院にスポットライトを当てる。529年修道士ベネディクトゥスがモンテカシノにベネディクト派修道院を設立した。ベネディクトゥスの考え方は『清貧・純潔・服従』。ベネディクトゥスの言葉にも『祈り、かつ働け』っていう言葉がある。」
「清貧・純潔・服従、ねぇ…。司教兼大領主って全然清貧じゃない気がする!」
「そう!ベネディクト派の修道士なら誰もが思う!そこで改革を起こしたのが、910年に設立されたクリュニー修道院だ。修道院改革の中心になったのがこのクリュニー修道院。そしてここ修道院改革は後のグレゴリウス七世の改革に多大な影響を与えた。」
「11-12世紀にかけて起こったのが聖職叙任権闘争だ。」
「聖職叙任権って?」
「大司教とか位の高い聖職者を任命する権利だ。この闘争の軸になったのがローマ教皇グレゴリウス七世の改革。グレゴリウス七世は聖職を理由に儲けることと結婚することを禁止し、聖職叙任権は教皇だけが持つとした。清貧・純潔・服従、ベネディクトゥスの色が見えるだろ?だが聖職叙任権が教皇にしかないのが神聖ローマ皇帝、ドイツのハインリヒ四世は気に入らなかったから猛反対!グレゴリウス七世の改革をスルーしようとした。だがグレゴリウス七世には伝家の宝刀を持っていた!」
「伝家の宝刀?ローマ=カトリック教会にとって神聖ローマは保護者みたいなものだよね?保護者に向けられる刀なんて持ってたの?」
「そう!最初こそローマ教会は神聖ローマに守ってもらっていた。でも11-12世紀ごろには既にローマカトリック教会は巨大な社会的地位を築いていた。そしてドイツ国民はみんなキリスト教。無論上に立つ皇帝もキリスト教のはずだ。」
「んん?何が言いたいの?」
「つまりはだ。グレゴリウス七世の持っていた切り札は神聖ローマ皇帝であるハインリヒ四世の破門だ。」
「破門ってことはハインリヒ四世はキリスト教じゃなくなったの?」
「ああ、キリスト教を信仰する神聖ローマにおいて、キリスト教破門は社会的抹殺に等しい。皇帝の地位から名無しの平民に転落だ。」
「うわぁ、えげつない…。」
「もちろんそんなこと嫌だろ?1077年ハインリヒ四世はイタリアにあるグレゴリウス七世のいるカノッサ城まで行って許しを乞うたんだ。まさにハインリヒ四世からしたら守ってやってる奴に頭下げて許しを乞うなんて屈辱以外の何物でもない。」
「なるほど!それがカノッサの屈辱か!ハインリヒ四世の屈辱 INカノッサ城!」
「ああ、だがまあハインリヒ四世も腐っても神聖ローマ皇帝だからグレゴリウス七世の改革を鵜呑みにするわけにもいかない。皇帝として聖職叙任権の全てを教皇に委ねることは回避したかった。もうグレゴリウス七世もハインリヒ四世も死んだ後だが、1122年に、教皇カリクストゥスと皇帝ハインリヒ五世の間で結ばれたのが妥協協約ヴォルムス協約だ。事実上、ローマ皇帝は聖職叙任権を神聖ローマ以外では放棄した。」
「ハインリヒ四世のこともあるから、神聖ローマ皇帝も強く出られないよね。」
「そう、妥協協約とはいえ神聖ローマ皇帝の方がかなり妥協しているからな。この時点でローマ教会教皇の権力は最大のものだった。」