2 フランク王国分裂から封建社会制度まで
「勉強はかどってるかー?」
「とりあえず瑞季くんはノックっていうものを知ってるかな?許可なく入ってこないでよ!」
「それで?カノッサの屈辱くらいまでは進んだか?世界史。」
「…か、カール大帝は戴冠したよ?」
「前回から全く進んでねぇじゃねぇか。んでカール大帝に戴冠した人物と理由は?」
「ええっと、ローマ教皇のレオン三世で、理由は西ローマの復活によるビザンツとの対抗と、文化の融合と、ローマ教会の独立?」
「おお、正解だ。日向の残念な頭でもちゃんと覚えていたか、偉い偉い。」
「ちょっ、頭撫でないで!記憶が飛んでく!」
「撫でられて消えるような暗記すんな!刻み付けろ!」
「あ、あのそれで…続きを教えていただけないでしょうか?」
「ふっ、この瑞季お兄ちゃんが哀れな日向に教えてやろう!」
「カール大帝まだなんかやらかすの?」
「いや、カール大帝は814年に死んだ。それにカール大帝以後、有能な国王はいなかった。そしてカール大帝の子供、ルートヴィヒ一世の死後、その三人の子供によってフランク王国は843年、三つに分割される。…三つに分けられたときの条約をヴェルダン条約っていうんだが、その三つの王国の名前は分かるか?」
「ええー知らないよそんなの…もうあれで良いじゃん。西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国で。」
「正解だ。フランク王国は西、中部、東という名で呼ばれることになる。」
「そんな適当で良いの?!」
「覚えやすいならそれで大いに構わないだろ。次に870年にメルセン条約が結ばれ、西フランク王国、イタリア王国、東フランク王国に分割された。」
「要は中部フランク王国がイタリアになったんだね。」
「ああ、ここまではずっとカロリング朝できていたが、無能な王ばかりだったからこの三つの王国全てでカロリング朝は断絶された。ほら、カロリング朝の人間言ってみろ。」
「ええっと、クローヴィスは入らないから、カールマルテル、ピピン、カール大帝、ルートヴィヒ?」
「ああ、正解だ。後々に西フランク王国はフランス、イタリア王国はイタリア、東フランク王国はドイツになっていくんだ。」
「へぇ…」
「これからが楽しいんだ。テンション上げてけよ?」
「世界史でテンションが上がることはきっとないかな?」
「まず東フランク王国こと、ドイツだ。911年にカロリング朝が断絶。それから8年後の919年にザクセン家のハインリヒ一世がザクセン朝を創始した。そして二代目、オットー一世が955年にマジャール人を撃退するレヒフェルトの戦いを成功させた。そして諸侯の動きを抑えるために教会を国家に取り入れたんだ。この辺りにはやっぱ教会との癒着が色濃く受け継がれているのが見えるな。それから数年後、969年にオットー一世はローマ教皇ヨハネス十二世によって帝冠を受ける。カール大帝と同じだ。そしてこれを期に東フランク王国から神聖ローマ帝国と名を変えた。どうだ?カッコいいだろ?ワクワクするだろ?」
「うんカッコいい!でもワクワクはしないかな!」
「で、この神聖ローマだが、字面から見ても明らかにキリスト教と関わり深いことがわかるだろ。教皇の保護を理由にして神聖ローマ皇帝はイタリアに執拗に絡んだ。イタリア王国を支配したかったんだ。ただそのせいで内政はままならなかったんだ。」
「欲望に目が眩みすぎたみたい。トントン拍子だったから調子に乗ったね。」
「次に西フランク王国だ。つまりはフランスだな。こっちは987年にカロリング朝が断絶された。そこで王となったのがユーグ・カペー。こいつがカペー朝を創始したんだが、こいつの地位はパリ伯だった。ほら、カール大帝のときに伯が州に置かれていただろ?日向、伯をカタカナで言うと?」
「ぐ、ぐ、…グラーフ!」
「正解。カペー朝を作ったものの、フランス国内にはカペー家に匹敵するような諸侯もいたため、王権は弱体していた。理由は分かるか?」
「んんー自分と同じくらいのやつなのに自分より上にたって指示を出されるのが嫌だから、引きずり下ろして我こそが王に!とか思う諸侯がいたから?」
「うん、正解だ。だからなかなか国内がまとまらなかった。だが12世紀位にもなると中央集権化がうまく進んで、フランスは急速に発展したんだ。」
「へーなんかユーグ・カペーも王になった甲斐があったね。」
「最後にイタリアだ。876年にカロリング家が断絶される。三国の中では一番早かった。そして神聖ローマのところでも話したが、イタリアは何度も神聖ローマにちょっかいかけられるし、イスラームの連中までイタリアに侵入してきたから、イタリアはジェノヴァやヴェネツィアとかと同盟を結んで神聖ローマに対抗したんだ。」
「なんかランゴバルド王国を彷彿とさせられる…がんばれ!」
「まあ西ヨーロッパの起源はこんな感じだ。ここからの歴史は基本的にこの三国の関わりと、新しくできた国たちとの話だ。とりあえずこれで区切りだから次はこの西ヨーロッパ世界の制度についてだ。」
ー封建社会の成立編ー
「もう中国史はやったはずだから何となくわかると思うが、どこの地域でもとりあえず封建制度が採用されるんだ。」
「あーうん、中国の西周であったよね。うん大丈夫。」
「まずは西ヨーロッパにおいての封建制度についてだ。これには定義がある。主君は臣下を保護し、土地を治める。臣下は主君のために忠誠を誓い、軍役を被る。この主従関係があってこその封建制度だ。」
「鎌倉時代の御恩と奉公みたいな?」
「ああそれと同じだ。日本でもあっただろ?そして西ヨーロッパの封建制度には起源があるんだ。西ヨーロッパを治めるフランクはゲルマン人だっただろ。ゲルマン人には従士制っていう制度があった。有力者に保護してもらう代わりに忠誠を誓う。ほら、封建制度とよく似ているだろ?それにローマ帝国の恩貸地制度を加えたものが8世紀から使われるようになった封建制度だ。内容は他の地域と同じだけど起源はやっぱその地域特有なものなんだよ。」
「そらに詳しく説明すると、西ヨーロッパの封建制度には特色がある。主君と臣下の双務的契約関係って呼ばれる主従関係だ。日本なら主君は死ぬまでただ一人…って感じだけど、ここでは一人の臣下が何人もの主君に仕えることができて、主君も臣下も自分の意思で契約解除ができるんだ。」
「ええっ!?何人も主君がいたらストレスすごい溜まりそう…。」
「溜まらないために契約解除の権利があるって考えとけ。実際は知らないけどな。それと主君についてだ。主に主君とされるのは皇帝、国王、諸侯だ。諸侯ってのは支配地と臣下を持ってる奴らのことだ。それで臣下の方だが、」
「待って!私分かるよ!臣下の方はナイトでしょ!」
「乙女か。いや、まあうん。英語で言うならそうかもしれないが、世界史的には騎士で覚えてくれ。軍事的奉仕をする戦士階級だ。ただこうして臣下を持ち、力を諸侯がつけすぎたから国家権力は低下した。」
「そっか。臣下の権利は諸侯を調子に乗らせる要因の一つになってたんだね。」
「んで、次。諸侯のとこでちょっと言ったが、支配地を持ってるって言ったよな。その支配地にはそこに住む農民も含まれているんだ。この農民込みの支配地のことを荘園という。」
「荘園も日本史で聞いたことある。」
「頼むから世界史選択のお前は世界史を頑張ってくれ…。で、当初荘園の支配の仕方は二種類あった。」
「二種類?」
「一つは領主直営地、書いて字のごとく領主が直接経営していた。そこに住む農奴の賦役によって耕作され、全収穫は全て領主のものだった。」
「すいません先生。農奴ってなんですか?」
「まあザックリ言うと農民だが、農奴には移転と職業選択の自由がない、まさに農に殉ずる奴隷だ。もう一つの方法は農民保有地、こっちは領主が農民に保有させた土地で、農奴は地代を領主に払って、残りの収穫は全て農奴のものだ。日向、お前がもし農奴だったなら、領主直営地と農民保有地のどちらで働きたい?」
「や、働きたくないけど。どちらかと言われればそりゃあ農民保有地が良い。自分のものにならずに全部領主が持ってっちゃうのは納得いかないもん。」
「そう、農奴も同じだ。頑張っても全部領主のものになるのと、頑張れば頑張った分だけ自分の手元に収穫が残る方法。どちらの方が生産量が多くなるのは歴然。全部領主に巻き上げられるって分かってたらモチベーションあがんねぇだろ?」
「うん。それとさっき瑞季くんの言ってた賦役って何?」
「ああ、賦役ってのは領主直営地で労働する義務、労働地代ともいう。一方農民保有地からの生産物を納める義務は貢納っていう生産物地代だ。この賦役と貢納は領主に納めるものだったが農奴には更に教会にも税を納めなきゃならなかった。」
「えっ!なんで教会にまで?」
「まあ教会が税を取る仕組みはまた今度にしよう。税の種類は十分の一税、結婚税、死亡税とかが代表的だな。」
「取れるところから搾り取るみたい。」
「ああ、やっぱどこも金が欲しいんだよ。農奴はされるがままだ。」
「ところでさ、最初の方で臣下がたくさん諸侯についたせいで国家権力が弱体化したっていってたけど、それなら国が役人を送って収入源の農奴を抑えちゃえば良かったんじゃない?」
「なかなか良い目の付け所じゃないか?無論国もそう考えた。でもな、領主たちには不輸不入権、インムニタスっていう国のものの立ち入りを免除されるっていう権利があったんだ。領主はインムニタスで外からの干渉を避け、荘園内の農奴を裁判にかけたりすることのできる、領主裁判権を使って農奴を支配したんだ。」
「無駄に頭が回るなぁ…」
「まあそんな理不尽な経営が永遠に続けられることもない。7-8世紀は古典荘園っていって、保有地と直営地からなる荘園で、領主の収入は賦役が中心だった。11世紀になると三圃制、春、夏、休みって三分して三年で一巡するような農法が選ばれ、水車や重量農輪犂が発達する。これを中世農業革命っていう。簡単にいうといろいろ便利なことを思い付いたんだ。」
「本当に簡単…」
「そして12-13世紀には地代純粋荘園が主流になった。このときにはもう直営地は全て解体され、賦役中心だった収入は生産物地代が中心に変わったんだ。」
「じゃあ全体的な生産力は上がって、しかも農奴の負担も不満も軽くなったんだね!」
「そういうことだ!」