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11 宗教改革

「あとテストまで何時間?」

「あははは……あと15時間かな……?」

「いざとなったらテスト作る教科担任の傾向と対策で粘れ……。」



宗教改革


「まず宗教改革だが、どんな改革かは知ってるか?」

「あーカトリックへの批判?」

「まあ大筋はそんな感じだ。16世紀ヨーロッパに展開されたカトリックへの批判・改革運動だ。一言に宗教改革といってもこの16世紀は世界中で改革が起こっていた。」



ドイツの宗教改革


「ドイツの宗教改革の背景には教皇権の衰退、協会の腐敗・堕落、信仰の形式化への不満。人文主義者のエラスムスやロイヒリンの登場、以前からあった先駆者、ウィクリフやフスの存在だ。原因は二つ。一つは神聖ローマ帝国の分裂状態によってなされたローマ教会の搾取。これはローマの牡牛とも呼ばれた。もう一つがメディチ家出身のローマ教皇レオ10世。16世紀初め、サン=ピエトロ大聖堂の制作のための経費を集めるために豪商フッガー家を通して免罪符、贖宥状を販売された。これが皮切りになった。」


「そりゃあね……お金出してこれを買ったら罪が許されるって……いや、ないデショ。」


「このドイツの宗教改革の立役者がマルティン=ルター。一般的にいうルターの改革だ。ルターはヴィッテンベルク大学の神学教授で1517年に『九十五ヶ条の論題』を発表した。魂の救済と贖宥状は無関係だっていう主張だ。1519年はライプツィヒの討論でヨハン=エックと討論をして、ローマの権威を否定した。さらにその一年後1520年には『キリスト者の自由』を出版。信仰義認説、『人は信仰によってのみ義とされる』や聖書中心主義っていうのを主張した。」


「やりよるなルター……。でもそんななめた真似して大丈夫?五日のカノッサの屈辱みたいになりそう……。」


「おう。当然教皇が黙っているはずがない。当時の神聖ローマ教皇は誰だった?」

「メディチ家出身のレオ10世!」


「そう、レオ10世は1521年にルターを破門した。だがルターは謝罪をして許しを請うどころかその破門状を焼き払った。」

「ルター強ぇぇええ!!」


「で、まあこれは当然大問題だ。1521年ヴォルムス帝国が開かれ、神聖ローマ皇帝カール五世はルターに自説を否定するように圧迫したがルターは拒否。ルター派は禁止された。」


「え、ちょちょ、ルター大丈夫!?ここまで派手にやると物理的制裁が行われそうなんだけど!?」


「ああ、ルターは法律の保護外に置かれた。つまり何されても文句言えねぇんだ。だがルターは反皇帝派の諸侯であるザクセン選帝侯フリードリヒに保護されて『新約聖書』をドイツ語に訳した。」


「で、ルターの影響は農民にまで広がった。指導者ミュンツァーのドイツ農民戦争。神のもとに人は皆平等である、ということから、農奴制の廃止、領主制の廃止を求めた。だがこれはあまりにもひどかったからなのか否か、ルターはたびたび弾圧派に回っていた。1555年、アウクスブルクの和議で諸侯にカトリック派とルター派の選択を容認した。」

「なんで?」


「この1555年までの前期16世紀は何かとごたごたしたんだ。イタリアの支配をめぐり、オスマンのスレイマン一世と手を組んだフランソワ一世……ちなみにこれを何て言った?」


「突然!……カピチュレーション!」


「正解。神聖ローマのカール五世はフランソワ一世と抗争していたからあまり国内のことにばかり構ってるわけにもいかなくなった。しかもそんなときにルター派のドイツの諸侯・都市が反皇帝同盟のシュマルカルデン同盟を作り危うく戦争になりかけたから、皇帝は妥協せざるを得なかったんだ。これがドイツ宗教改革、ルターの宗教改革の顛末だ。」



スイスの宗教改革


「スイスでの大きな改革はカルヴァンの改革だな。カルヴァンの改革以外にツヴィングリの改革もあるが、ツヴィングリはスイスのチューリヒでカトリック派と争って戦死した。カルヴァンは『キリスト教綱要』を出版し福音主義を理論化した他、予定説を主張、長老制度をすすめた。」


「予定説は知ってるけど、長老制度って何?」


「長老制度はカルヴァン派の教会制度で、協会に司祭を置かず、牧師とその補佐をする長老で教会を運営する制度だ。カルヴァンの考えは世界中に広まり、特に商工業者に普及した。1514年からスイスのジュネーヴに招かれ、神権政治を行った。イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー(同盟者の意)、ネーデルランドではゴイセンって感じだ。」



イギリス国教会の成立


「イギリスで革命を起こしたのはヘンリ8世」


「……えっ!?王だよね?英王がやっちゃったの!?なんで!?」


「ヘンリ8世はキャサリン妃と離婚がしたかったんだが、キリスト教は神のまえで誓いを立てていて、離婚は禁止されていた。」

「……え?離婚したかったから?!そんな理由!?」


「うん、そんな理由。ちなみにヘンリ8世に離婚を反対した大法官のトマス=モアは処刑された。」

「あのトマス=モアが……!?」


「んで、ヘンリ8世は教会の首長はローマ教皇ではなくイギリス国王にある、っていう国王至上法を1534年に発布した。これによりプロテスタントこと、イギリス国教会が誕生した。」

「理由がくだらないんだよな……。」


「エドワード6世は一般祈祷書を1459年に制定。だが女王のメアリ一世は熱心なカトリック教徒でカトリックが復活。新教徒を処刑したから血のメアリとも言われた。スペイン王フィリッペ二世と結婚したことから、イギリスの権威をスペインに奪われる危機に晒した。」

「メアリ一世こわわ……。」


「だがヘンリ8世の娘で女王となったエリザベス一世は1559年に統一法を発布した。統一法は国教会の礼拝、祈祷の統一、イギリス国教会の確立の打点になった。」



対抗宗教改革


「まあそんなカトリックに反対する教会の一方でカトリックを押す教徒たちもいた。それがイグナティウス=ロヨラの作ったイエズス会。主に明清に来てた教徒だな。1540年、ローマ教皇パウル三世から許可をもらいイエズス会を結成。主に海外への布教を中心に行っていた。」

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