おやすみ前の本音
「も、だめ……」
「真織、せめて着替えなさい」
「ネグリジェ?」
「当然」
「……疲れは取れそうもないわ」
真織が悪態吐くのをみて、緒凛はケタケタと愉快そうに笑った。
黒澤財閥の城からようやく帰還した真織は何の抵抗もなくリビングのソファに身を沈めた。
あの会話が終わり、再開された古着ショーはやむこともなく、緒凛が様子を見に来るまで延々と続いていた。
おかげで真織が蘇芳から譲ってもらった服はダンボール四箱分にもなった。
さすがにそれを緒凛の車に積んで帰るわけにもいかず、後日郵送してもらえるとのことだ。
至れり尽くせりだと内心感謝しつつ、真織がソファで盛大にため息を漏らせば、緒凛はネクタイを緩めながら、ソファに寝転ぶ真織の上にのしかかってきた。
「……何をなさっておいでで?」
「無防備に寝転ぶ赤頭巾ちゃんを食べようかと」
「オオカミさん、口が臭いです」
「……真織は口が悪いな」
「育ちが悪いもので」
疲れからか、余裕もなく真織がそう言えば、緒凛は眉をあげて呆れた表情を浮かべる。
それから何も言わず真織から離れると、言われたことを気にしているらしく、口元に手を当ててハーッと息を吐いていた。
言われたほど酷い匂いではなかったと判断したのか、緒凛はもう一度真織を見ると静かに尋ねた。
「臭いか?」
「……嘘だから気にしないで」
「加齢臭だったら、どうしよう」
「ごめんね、これ以上のフォローができなくて」
淡々とした真織の言葉に緒凛は半ば肩を落としながら静かに脱衣所に入っていった。
それを見届けた後、真織はさすがに言い過ぎたかなと自己反省しながら重い体を起こし、うーんと背伸びをする。
やはり雇い主の命令は聞かなければならないのかと、昨日着たネグリジェを想像しながらため息を吐くと、高い天井を見上げた。
一人になれば考えることは父のことだ。
昨日の今日でおかしな話かもしれないが、やはりあのグータラな性格をした父がいくら生活援助を受けたとしても、まともな生活を送っているとは思えない。
どうせまた娯楽で生活支援金を使い込んでいるのではないかと思う反面、やはり食生活が気になった。
今日のディナーは本当に美味しかった。
今まで食べたことのないものばかりが目の前に並んだときは、本当にどうしようかと戸惑いもした。
けれど食べた瞬間感じたのは、この味を父にも食べさせてあげたかったということばかりだ。
「私ったらなんて立派な娘なんでしょう。こんないい娘を……売り飛ばすなんて最低の父親ね……」
自分を励ますつもりで独り言をつぶやいたが、あふれてくる涙は正直だった。
自分は売り飛ばされるほど要らない人間だったのだろうか。
どれだけ贅沢ができても、どれだけ他人に優しくされても、父のぬくもりには敵わない。
所詮、自分はこういう運命だったのだと思い込もうとしても、それが父に対する憎しみに変わることだけは避けたい。
「会いたいよ……お父さん……」
◇◆◇
「真織?」
一時間ほどして緒凛がお風呂からあがった。
頭を拭きながら昨日入ったばかりの同居人の姿が見当たらず、緒凛はきょろきょろと辺りを見渡す。
――途端、どうしようもない不安に駆られた。
まさか逃げ出したのではないかという衝動に走り、緒凛は風呂に入る前まで真織が存在したソファに、勢いよく駆けつける。
「居た……寝てやがる」
くぅくぅと心地のよい寝息を立てている真織の姿を確認すると、緒凛は安心して真織の顔を眺めた。
それから、ふと真織の頬に涙の跡を見つけ、緒凛はひどく悲しそうな表情をした。
「一人で……泣いていたのか……」
そう言って静かに真織の頬に触れれば、真織はピクッと動き、とっさに触れた手を引っ込める。
けれど真織が起きる気配はなく、再び寝息を立て始めた真織を見て、緒凛は真織の柔らかな髪に触れた。
彼女に最初に出会ったのはいつだっただろう。
あれは確か自分がまだ高校生の時だった。
幼い弟達の手本になろうと、緒凛は学業に励んだ。
財閥の総帥である父や、その妻である母に強要されたわけではない。
ただ自分には責任があり、自分は黒澤財閥の跡目を継ぐのだと必死だった。
家族からの強要はなかったにしろ、世の中の目は皆、自分に期待していた。
それに答えなければと思ったわけでもない。
けれど自分の中の誰かが自分を追い詰めていった。
もっと高みを目指せと。
もっと強くなれと。
――何のために?
何のために俺はここまでする必要がある?
思えば思うほど自分が何を追い求めているのかわからなかった。
考えれば考えるほど自分がちっぽけに思えてきた。
あの日、緒凛は初めて学校をサボった。
特に学校が悪いとか家庭が悪いというわけではない。
緒凛の中の何かがプツリと切れ、どうしようもない虚脱感から逃げ出すように見知らぬ町へ来た。
晴れ渡る空が腹立たしいほど綺麗だった。
どこにでもあるような草原の空き地を見つけ、寝転んでいた。
制服に土が付いて汚れても気に留めることなく、青々と生い茂るむせるほどの緑の濃い匂いが緒凛の思考を乱した。
突然幼女が目の前に飛び込んできて驚いた。
その驚きのあまりに上半身を起こせば、少女は安心したように笑みを浮かべる。
どうやらこの少女は緒凛が倒れていると思ったらしい。
一人の時間を邪魔されたと感じた緒凛が少女を睨むと、少女はキョトンとした表情を見せ、次の瞬間――。
「あげる」
緒凛の頭に被せられたシロツメクサの花冠。
雑草の匂いと土の匂いが入り混じったそれを、緒凛は取り払うことができなかった。
息の詰まるほどの懐かしい香り。
シロツメクサ独特の苦々しい、けれど暖かな香りが緒凛の鼻をくすぐった。
「げんきだせっ! おとこのこでしょっ!」
少女は何を思ったのかそう言って高々とこぶしを上げて見せた。
彼女にとっては精一杯の励ましだったのだろうが、それが何とも愛らしくて仕方がない。
嗚咽が出るほど涙がこぼれた。
空に比べてなんとちっぽけだと感じていた自分が笑える。
彼女は一瞬にして変えてしまったのだ。
自分の見つめてきた世界を。
人前で涙など見せたこともなかったのに。
しゃくりあげるように泣いている緒凛に、少女はただ小さな手で頭をなでた。
「げんきになるおまじない――おそらにうかぶたいようさん、きょうもにこにこうれしいな、なきむしこむしもなきやんで、きょうもげんきにわらうのさ」
たどたどしい日本語だったが、理解はできた。
これほどまでに元気になれる呪文がどこにあろうか。
緒凛は涙をぬぐいながら少女に優しく微笑みかけた。
「ありがとう」
「どういたましてっ!」
少女は若干間違いながらもそう言って笑うと、自分の名を呼ぶ母の元へ駆けて言った。
そのとき確かに聞いたのだ。
母親が少女を“マオリ”と呼んだのを。
それから数十年。
自分を変えてくれた少女の存在を片時も忘れたことはなかった。
その微かな記憶を胸に秘め、今まで様々な苦難に乗り越えてきた。
自分にできるかぎりのことをしよう。
もしできなくなったらやらなければいい。
ただ漠然と少女が教えてくれたあの呪文を唱えて、気合が入ったらまた再開する。
二度目に会ったのはつい先月の事だ。
会ったというよりも、緒凛がただ見ただけだったのだが。
駅前を制服姿で歩く彼女を見て、一瞬にしてあのときの少女だとわかった。
飾り気のない容姿、けれど誰よりも存在感をかもし出すあの不思議な雰囲気は、幼い頃あったときのまま成長しているように思え、緒凛は安心したと同時に心奪われた。
“マオリ”という名前は珍しい。
調べればすぐにわかると考え、緒凛は必死に彼女を探した。
思っていた通り、彼女はすぐに見つかったけれど――。
「どういうことだ……? “あの女”の娘である彼女が……“あの男”の娘である彼女が……どうしてこんな生活を送っている?」
調べ出した事実に、緒凛は驚愕した。
“あの女”の娘だったなんて知る由もなかった。
“あの女”に娘がいたことすら知らなかったのに。
彼女の家を突き止めればそこは荒れ放題の木造の一軒屋だった。
彼女がどうしてこのような貧乏生活を送っているのかがわからない。
張り込むヤクザ達。
けれど対処する真織には友好的な態度をとっている。
その恐ろしげな顔にだらしのない表情を浮かべて、優しく笑顔を向けてくれる真織に心を開いている男達。
彼らに嫉妬した。
自分は今の彼女の目にすら映っていないのに、なぜ彼らが彼女に優しくされているのか理解できなかった。
そしてあの場になぜ自分が居ないのか、なぜ彼女が自分に気づいてくれないのか――。
彼女を手に入れたいと思った。
どうにかして自分の物にしたいと願った。
そして……緒凛はこの後、真織の父親に真実を問い詰め、ある条件を飲んだのだった。
「真織……早く俺を好きになれ……お前の口から聞かせてくれ……」
静かに眠る真織に、緒凛は切なげにつぶやいた。
閉じられた彼女の瞳に自分は決して写ることはない。
けれど、一瞬でも彼女の視界に自分が入り込むだけで、舞い上がるような思いになる。
まだだ――まだ足りない。
こんなものでは満たされない。
早く好きだと言ってくれ。
俺を愛していると。
そうでもしなければ、気が狂いそうになる。
手元に置き続けるのには限界があるのだ。
けれど――決して自分から想いを告げてはならない。
それは出された条件に反すること。
真織を四ヶ月以内に落とさなければ、真織は自分の元から去ることになる。
愛しい人よ……どうか俺を愛して――。
「……ん……苦し……」
突然漏れた声に、緒凛はハッと我に返った。
いつの間にか力強く真織を抱きしめていた自分に気がつき、真織を開放する。
すると真織はうっすらと目を開けて、おぼろげな表情で緒凛の姿を確認すると、寝ぼけたまま困ったように尋ねた。
「どうか……したの?」
「……なぜ……そう思うんだ?」
「だって、泣きそうだもの……」
真織の言葉に、自分がようやくどういう表情を浮かべていたのかを悟った緒凛は、ひどく焦りを感じ顔を背ける。
すると真織は「うんしょ」と静かに声をあげながら上半身を起こし、緒凛の頭に手を置いた。
「元気になるおまじない……お空に浮かぶ太陽さん、今日もにこにこ嬉しいな、泣き虫子虫も泣き止んで、今日も元気に笑うのさ」
静かに、けれどおぼろげに歌われた唄に、緒凛はたまらず真織を抱きしめた。
真織は緒凛の突然の行動に、ようやく目が覚めたようでビクッと体を振るわせた。
けれど緒凛の抱擁を拒否することなく、静かに大人しく緒凛の腕の中に居る。
変わらない優しさがここにある。
今はそれだけで十分だと思った。
「真織……こんなところで寝ていては風邪を引く……。一緒に寝よう」
「……ネグリジェ着なきゃだめ?」
どうも納得がいかないらしく、膨れ口調の真織の言葉に、緒凛は笑いをかみ締めながら言った。
「仕方ない、今日はパジャマで我慢しよう」
「これからもパジャマを希望します」
「考えておくよ」