何を仰るこの坊ちゃん
部屋から直通のエレベータに乗り、最初に来た駐車場に降りていくと、昨日の車とは別のものがそこに停まっていた。
真織は一瞬躊躇したものの、緒凛は何食わぬ顔でその車のキーをあけ、運転席へと乗り込んでいく。
それを見ながら真織がどうしようかと迷っていると、エンジンがかかり、助手席の窓が開いた。
「何をしている。早く乗れ」
「この車は?」
真織の言葉の意味が理解できたのか、緒凛は「ああ」と漏らして真織に言った。
「これも俺の車だ。いいから早く乗りなさい」
緒凛に急かされながら、真織は戸惑いながらも助手席に乗り込んだ。
真織がシートベルトをしたことを見届けると、緒凛は前を見据えて車を発進させる。
真織は運転をする緒凛の横顔を盗み見しながらも、気づかれないように小さくため息をついた。
車を走らせている間、二人の間には沈黙が走っていた。
進む道は真織の知らない道順で、だんだんと高級市街地に入っていくのがうかがえる。
真織はそれに一抹の不安を覚え、運転に集中している緒凛に尋ねた。
「……今からどこへ? 」
「俺の実家だ」
「ああ、実家……ってえぇっ?!」
危うく聞き流すところだった。
助手席で叫んだ真織の驚きの態度にも、緒凛は特にたいした反応も見せずに運転を続けている。
たぶん……ではあるが、緒凛は真織のこういった反応を予想していたようだ。
平然としている緒凛の横顔に、真織は焦りと不安の気持ちが渦巻く中、再び叫んだ。
「無理!」
「何が?」
「だって実家なんてっ! 何で私が?!」
「俺の両親と一緒に食事をするだけだ」
緒凛がケロリとそう答えたことで、真織は言葉を失った。
まるで意味が分からない。
なぜ自分が彼の両親と食事をしないといけないのだろうか。
真織は緒凛の両親に会えるような立場にはいない。
それが黒澤財閥の現総帥とその奥さんだなんて、なおさらだ。
つい昨日まで真織はボロ屋に住んでいた人間だ。
緒凛のマンションとは比べものにならない、傾いた木造の家だ。
貧乏生活まっしぐらで生きてきた自分が、今の日本を担う財閥のトップに会うだなんて夢にも思っていなかったのだ。
そんな真織の考えを察したのか、緒凛は今更ながら今回の経緯を真織に伝えた。
「母がな、俺に見合い話を持ってきたんだ。三十路を目前にして結婚しないで仕事ばかりしている俺に痺れを切らせたみたいで、得意先の社長の娘との縁談が持ち上がった。策略婚というものではないが、母もそろそろ孫の顔が見たいらしい」
ため息混じりにそう言いながら運転を続ける緒凛の横顔を見て、真織は瞬時に緒凛の意図をつかんだ。
「結婚……しないの?」
「今はまだする気はない。好きな女とでもないならなおさらだ」
「見合い相手を気に入るかもしれないじゃない」
「見合い相手といっても昔からよく知っている顔馴染みなんだ。好みの女じゃないし、むしろ嫌悪感すら感じる」
「じゃあ、もしかして私を実家に連れて行くのって――」
「察しがいいようだな」
真織の言葉に、緒凛は前を見据えながら、ようやく口元に笑みを浮かべ、続けるように言った。
「俺の恋人としてお前を紹介する」
予想していたには予想していたが、本当にそんなことを考えていると知った真織は戸惑いを超え、失神しそうになって絶句した。
「嘘でしょ……?」
「嘘は好かない」
絶望の入り混じった真織の言葉に、緒凛は即座に否定の言葉を吐き捨てる。
真織は視線を泳がせながらも、どう言って断ろうかと必死に頭を働かせていると、信号機が赤になった為、緒凛は静かに車を停車させながらようやく真織を見た。
「真織に拒否権はないからな」
「で、でも、私みたいな貧乏人が、緒凛の彼女役なんて務まるわけないよ」
気弱な発言をしている真織に、緒凛は手を伸ばし、真織の頭を優しく撫でた。
「地位も名誉も財産も関係ない。父は一代で黒澤財閥を築き上げた偉人ではあるが、そういった概念にとらわれる人じゃない。母も俺が結婚さえすれば相手は誰でもいいようだから。真織は静かに何も言わず、俺の隣に居ればいい」
緒凛はそう言ってふと視線を信号機に向け、その直後に青色に変わったのを確認すると、再び運転する姿勢を整えて車を発進させる。
真織はそれを見つめながらも、彼の言うことは絶対なのだろうな、と諦めの気持ちが浮かび上がってきた。
◇◆◇
でかいことに越したことはない、と言う言葉はあるけれど、でかすぎるのもまた面倒で迷惑なものだ。
「ここだ」
「……ここ、って、ええぇっ!?」
ようやくたどり着いた緒凛の実家は、真織の想像を遥かに超越したものだった。
大きな洋風の門構えが緒凛の車を向かえ、入り口には警備員が立っている。
緒凛が車窓を開けて警備員に話しかけると、警備員は緒凛の姿を確認し、すぐに大きな門を開けた。
ゴゴゴッという鈍い音を立てながら、豪華な鉄格子の門が開き、緒凛はそのまま車を発進させ、中へ進入していく。
木々の並ぶレンガ造りの私道を抜け、見えてきたものは城といった表現が一番よく似合う洋風の建物だった。
玄関先に車をつけると、緒凛は真織を車から降りるように促す。
緊張のし過ぎで、なかなかシートベルトが取れないでいると、先に降りたはずの緒凛が、再び運転席に顔をのぞかせ、真織のシートベルトをはずした。
シートベルトをはずされても、真織はなかなか助手席から降りることができないでいた。
緊張が緊張を呼び、体が思うように動かない。
緒凛は自分の雇い主であって、自分は今仕事をしているのだと言い聞かせる。
そんな焦りのこもった気持ちに比例するように、体は鉛のように重たくなっていた。
「真織」
ふと名前を呼ばれ、真織はようやく顔を上げた。
穏やかに微笑みながら、緒凛は真織の顔を覗き込むように見て、それから静かに真織の頭を引き寄せ、額に、頬に、目元に、鼻先に、順番に唇を落としていった。
「おいで」
ひどく優しい緒凛の言葉に、真織は金縛りのように動かなかった体の緊張が、すっとほどけていくのがわかった。
この人は本当に卑怯だ。
意地悪ばかり言っているかと思えば、時々とてつもなく優しい笑顔を見せてくれる。
自分を気遣ってくれていると容易に察することのできる緒凛の態度に、真織は頬を紅潮させながら小さく頷き、車を降りた。
真織がようやく動き出したのを見て、緒凛は運転席から出ると静かにドアを閉め、すぐに真織の隣に来て腰を抱きながらエスコートしてくれた。
ようやく迎え出てきた男の使用人に車のキーを渡せば、使用人は緒凛に腰を抱かれている真織の姿を見つけ、とても驚いた表情を浮かべた。
「車を頼む」
「あ……は、はい。かしこまりました」
緒凛の言葉にようやく我に返ったように、使用人が動きだした。
使用人の行動を見る限り、どうやら緒凛は真織をつれてくることを誰にも伝えていなかったようだ。
真織はまだ心中に残る不安から、隣に並ぶ緒凛を見上げると、緒凛も真織の視線に気づいたらしく、視線を落として優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺が居る」
緒凛の笑顔に、真織は素直に小さく頷くと、それを合図のように二人は並んで屋敷の中へと入っていった。




