シンデレラの風呂掃除
真織は奮闘した。
このまま素直に大人しくしているのは性に合わない。
昨日はあまりにも突然だったし、始終、緒凛のペースに巻き込まれていたが。
兎にも角にも、掃除をしようと一時間かけて、部屋数の多いこの場所から掃除道具を探し出し、新品らしい青のワンピースの裾を左の方で縛り上げ、動きやすい格好をする。
頭にはタオルを巻き、一人で握り拳を作って戦闘開始だ。
お金を貰うからには――特に今回は日給手当てが並大抵の金額ではないので、今まで以上の働きが必要だ。
とにかく今は目の前の事だけに集中しよう。
自分にそう言い聞かせながら、真織は掃除を続ける。
新品のワンピースが汚れても、足の裏が汚れたって、それは後で洗えば済むことだ。
隅々まで掃除しているうちに、真織も気分が乗ってきた。
時々鼻歌なんか唄いながら窓を拭き、腰を振りながら洗濯物を洗濯機に放り込む。
男物の下着を見たところで、父のもので見慣れているから平気だ。
緒凛の物と父の物を同じような目線で見られるのは真織くらいだ。
グルグルとダンスを楽しむ洋服たちを見届けながら、風呂掃除。
広い分だけ掃除のしがいがある。
今できることを今楽しんで、どんな逆境でも楽しむことがモットーだ。
そうでもなければ今までの地獄のような生活を生きて来れなかったから。
「……何をやっているんだ?」
突然掛けられてきた声に、ハッと顔を上げた。
泡だらけでお湯の張っていない風呂場から、洋服を着たまま真織が顔を覗かせると、少々驚いた表情を作ってたっている緒凛の姿があった。
「あれ? もう帰って来たの?」
「いや、もうって……夕方の六時だが?」
「えぇっ! まだ二階の掃除までやってないのにっ!」
どうしようと慌てながら真織は風呂の中でオロオロとし始める。
いつの間にそんな時間になってしまったのか、本当に気付かなかったようだ。
ひとつの物事に集中すると、真織はなかなか抜け出せない。
時間を忘れ、没頭することがよくあるのだが、真織は自分のそういう性格を知っているくせに、どうも制御が利かないのだ。
真織がオロオロとしているのを見ていた緒凛は、スーツ姿のまま風呂の中に居る真織に近づいてきた。
「お、緒凛さん。スーツ汚れちゃいます」
「君は何度言ったら分かる? 敬語はいらないし、俺の事は呼び捨てで呼べと言ってるだろうが」
そう言いながら、緒凛はバスタブの傍にしゃがみこむと、すっと手を伸ばして真織の顔に付いている泡を指で掬った。
「こんなに汚れて」
「掃除……してたから」
真織が遠慮がちに敬語をやめて話せば、緒凛はその真織の努力に気付いたように、フッと微笑んで見せた。
「別にそんな事しなくてよかったのに」
緒凛の優しい嗜めの言葉に、真織はスポンジを両手で握りしめながら「ごめんなさい」と呟いた。
真織の謝罪に、緒凛は素直に驚いた。
「いや、掃除はありがたいんだ。ありがとう。そうではなくて――まさか掃除しているとは思わなかったから」
「……何してると思ったの?」
「てっきり逃げ出してると思ったよ」
緒凛が素直にそう言えば、真織はぷぅっと頬を膨らませた。
「逃げませんよ。だって私は雇われているんだもの。仕事を中途半端に放棄するのは好きじゃないわ」
真織のはっきりとした意見に、緒凛は安心したように息を吐き、それから立ち上がると真織を抱き上げ、バスタブから出した。
「スーツが――」
「汚れても構わないさ」
そう言いながら緒凛は汚れだらけの真織を抱き寄せる。
それはもう楽しげに、なんとも浮かれた声だったけれど、真織はなんだか納得いかないと、小さく首をかしげた。
真織の不思議そうな顔に、緒凛はただクスクスと微笑んだ。
それからクセのように真織の顎を指先で持ち上げ、自分の視線と絡めて満足そうに微笑む。
「挨拶をしていなかったね。ただいま、真織」
「お、お帰りなさい」
緒凛の言葉に真織が素直に返事をすれば、緒凛は静かに真織の額に唇を寄せた。
「まるでシンデレラだな」
「……灰被りって意味?」
「そう、今の真織はそんな感じだな」
「掃除をしたら誰だって汚れるわ」
「部屋を綺麗にしてくれた分、君が汚れてしまうのはもったいないな。シンデレラの話は知っているよな?」
「ええ、魔法で綺麗なドレスを着て、王子の待つお城で開かれている舞踏会へ行くんでしょう?」
「では、シンデレラ。魔法はかけてあげられないけれど、綺麗にめかし込んでくれるかい? 食事に行こう」
柔らかな笑みを向けてくる緒凛の表情に、真織は思わず頬を赤く染めて、ごまかすように言った。
「シンデレラと踊る王子に不満があるけれど……」
「ほう、シンデレラは口が達者なようだ。その口、ふさがれるのと早々に風呂に入って準備をするの。どちらがいいか選ばせてやる」
「お風呂入らせて頂きます」
真織の素直な回答に、緒凛は弾けた様に笑った。
◇◆◇
今更ながら違和感があった。
昨日あれほど嫌でたまらなかった緒凛に対し、嫌悪感を感じなくなっていたのだ。
相変わらずあの傲慢で口説き口調の緒凛の言動には慣れないが、さして悪い人でもないなと思い始めている。
何事もプラス思考な自分を褒めたくもなる。
真織はそんなことを考えながらも風呂からあがると、相変わらず真織が着なければいけないらしい下着と洋服が脱衣所の籠の中に用意されていた。
これもやはり緒凛が用意したのだろうか。
男という生命体を意識したことがなかった真織にとって、緒凛の織りなす言動は理解不能で未知のものだ。
こうやって女性の下着を当たり前のように用意できるものなのか、恥辱を感じることはないのか、まぁそんなことを考えてしまうが。
真織は納得いかないまま、昨日にも増して派手になっている下着を身につけた。
――ここで新たなる疑問が浮かんできたのだが。
「……何で私の胸のサイズわかったんだろう」
疑問に思うほどピッタリだった。
「あがったか?」
ノックもなしに、突然脱衣室のドアが開かれた。
入ってきた人物と目があった瞬間、反射的に叫び声をあげた真織だったが、入ってきた本人は何食わぬ顔で、下着姿の真織を見てケロリと言った。
「何やってる。早く着替えろ。時間が押してる」
「そう思うなら出て行って!」
「……なぜ?」
「き、着替えるからに決まってるでしょ!」
真織が自分の体を必死に隠しながらそう叫べば、緒凛はようやく真織の言いたいことが理解できたようで、すっと目を細めた。
「安心しろ、今は押し倒していられるほど時間はない……っ?!」
ドガッ! ――と、大きな音がなったかと思うと、緒凛は額に汗を垂らした。
緒凛の顔の隣に、真織の拳が素通りし、真織の拳は見事に脱衣所のドアに穴を開けたのだ。
「ま、真織!」
「出て行け! この変態おやじっ! 今度はその鼻へし折るよ!」
「暴力はいかん! 暴力は!」
「私に暴力振るわせるような発言したのはどこの誰だっ?!」
「……俺か?」
「自覚なしの発言か!」
「落ち着け真織! 俺に下着姿で啖呵きる女なんて初めてだぞ?!」
「自慢なのか快挙なのかわからんわっ!」
真織は怒鳴りながら、洋服の入ったままの脱衣籠に手をかけた。
緒凛はそれを見て慌ててドアを開け、逃げるように出て行く。
真織はようやく――と、深いため息をつきながら、やっぱりアイツ嫌いだ、と改めて思ったのだった。
◇◆◇
用意されていた服を着用し、髪を乾かしている間、真織はその服があまりにも自分に不似合いだと感じていた。
それは洋服というよりドレスだ。
シルク生地で淡いピンク色をしており、腰の辺りに生地が絞り込まれ、大きな華の形をしている。
胸元が大きく開いているが、決して色っぽさはなく落ち着いた感じのものだ。
こんな服を着ての食事だなんて、一体どこに連れて行かれるのか不安でたまらなくなったが、ここで緒凛に文句の一つを言ったところで聞いてもらえるわけがないだろうな――と、真織は一人で苦笑いを浮かべた。
脱衣室からようやく準備を終えて出てきた真織はソファでくつろぎながらタバコを吸う緒凛の姿を見つけた。
ドアの開く音と同時に、緒凛がこちらに振り向くと、タバコを灰皿に押し付けて立ち上がり、真織に近づいてきた。
「へ、変じゃない?」
「よく似合っているよ。真織はノーメイクか」
「化粧なんてしたことないから」
「ああ、通りで」
そういって緒凛は静かに真織の頬に触れる。
優しくなでられる指先からは、タバコの匂いが感じられる。
真織は静かに緒凛を見上げると、緒凛はふっと微笑んで言った。
「真織の肌は綺麗だ。染みひとつない」
満足そうに笑みを漏らす緒凛の態度に、真織は先ほどまでこみ上げていた怒りがあっという間に静まった。
この人は口説き上戸らしい。
恥ずかしい台詞でもケロリと言ってしまうあたりがすごい。
真織はなんとも言えず、言葉を探すように視線を泳がせていると、緒凛は背広のポケットの中から、光るなにかを取り出した。
「真織のために用意した。真織の白い肌によく似合う」
そう言って首に両手を回されたかと思うと、胸元にずしりと重力を感じる。
緒凛が手を離したのを見て、真織は自分の胸元に輝いているそれを見た途端、驚きのあまり目を見開いた。
「こ、これ――」
触れるのも恐ろしいと、真織が緊張していると、その様子を察してか、緒凛は優しく微笑んで真織の胸元のそれに優しく触れた。
それはあまりにも豪華すぎるネックレスだった。
青白く美しく光る宝石が並び、まるでシャンデリアを思わせるような豪華さ。
胸元の中央にある宝石は親指の頭くらいの大きさをしており、その周りを花が咲くように小さな宝石が並んでいた。
「これを選んで正解だったな」
緒凛の満足そうな言葉に、真織は戸惑いながら遠慮がちにたずねた。
「これって……ダイヤモンド、なわけないですよね?」
「ダイヤ以外に見えるのか君は」
「え、本物? ガラス球じゃなくて?」
「そんな偽物を君に身につけさせてどうする。本物に決まってる」
ケロッと答えた緒凛の言葉に、真織はあわてて自分の首の後ろに手を回した。
「何をしている」
「は、外したいんです。こんなの私には似合わない」
「そんなことはない。気に食わなかったのか? ならばすぐに別のものを用意しよう」
「そうではなくて」
「真織、俺が勝手に君にプレゼントしたものだ。ここでつき返されてはひどく傷つくんだがな」
緒凛はそういいながら、真織の手をつかみ、そのまま優しく握り締めると、真織の手の甲に唇を這わせた。
「でも、私には豪華すぎて……」
「真織は遠慮しすぎだ」
「嫌なの」
「俺からのプレゼントが?」
「そうじゃなくて……」
手をつかんだまま離さない緒凛の態度に、真織は頬を赤く染めながらも、自分の意思をはっきりと伝えるために、緒凛と視線を合わせた。
「人のお金で贅沢したくないの。これは緒凛が自分の時間を費やして稼いだお金で買ったものでしょう? 働くことの大変さは知っているわ。それなのにこんな高価なもの、受け取れるわけがないじゃない」
真織がしっかりとそう伝えると、緒凛は驚いた表情を浮かべて真織を凝視した。
これはある意味、自分の信念だ。
お金の大切さは小さいころから嫌と言うほど身をもって実感してきた。
確かに贅沢をしたいだとか、お金持ちになりたいだとか、そういった願望を持ったことはある。
けれどそれは自分が働いて、自分の稼いだお金で――という意味であって、人様からお金をかけてもらうだなんて、考えることができなかったのだ。
真織の言葉に、緒凛は一瞬息を呑んだのがわかったが、次の瞬間には本当に穏やかで優しい笑みを浮かべた緒凛の表情に、真織は言葉を失った。
「真織、君は本当に高校生かと疑いたくなるぐらい立派な考えを持っているな。それはとても素敵なことだし、否定はしない。ただな、俺が働いて稼いだお金を自分の好きなように使わせてくれたっていいじゃないか。真織のために何かしてあげたかったんだよ」
「でも……」
「お金の大切さを知っているなら、俺がプレゼントしたこのネックレスを、大切にしてくれるだろう?」
緒凛の言葉に、真織は何も言い返すこともできずに、小さくコクリと頷くと。
真織の反応に緒凛はうれしそうに笑い、真織の額にキスを落とした。
「さあ、行こう。時間がない」
「はい」
緒凛の言葉で、この話は終話となったのだが、真織はいたたまれない気持ちと、感謝の気持ちが複雑に交差して、胸元に輝くネックレスに視線を落としたのだった。




