残された難題
「絶対いやっ!」
「ここまで来て駄々をこねるんじゃない! 小学生か君は!」
「嫌だって言ったら嫌なのっ! ちょっ! 脱がさないでよ!」
「お前が早く脱がないからだろう! 女は誰でも体験するもんだ!」
「私はしたことないもん! 皆が皆体験してることじゃないでしょっ! 私は一生しない!」
「じゃあ初体験じゃないか! 喜べ! さあ早く脱げ!」
「ぎゃー! ちょっ! どこ触ってんのよエッチ!」
「……あのー……」
「真織が早くしないから手伝ってやってるんだろう!」
「……あのー……」
「そんな手伝いしないでいいっ!」
「あのぉ……」
「お前は何が不満なんだ!」
「あのっ!」
『何!?』
取っ組み合いながらも、声を揃えて真織と緒凛が振り返れば、申し訳なさそうな表情を浮かべた女性がおずおずと緒凛に言った。
「多分それはお連れ様がここから出て行かない限り続くと思うんですが……」
「なぜだっ!? なぜ君は俺と真織の邪魔をする!」
「そう言われましても……出来ませんよ? エステ」
女性の正論に、緒凛はグッと言葉を飲み込んで、真織は緒凛が気を緩めた隙に、脱がされかけていた服装をすばやく整えた。
緒凛は真織の行動に「あ!」とすぐさま気がつくが、女性店員は緒凛の腕を無理矢理掴んで、部屋の外へと追い出す。
「とりあえずご用意ができるまで外でお待ちください」
「ちっ……仕方ない」
女性店員の言葉に、緒凛は舌打ちをしながら自分の腕時計を見て、部屋の中にいる真織に叫んだ。
「俺は準備があるから先に行く。椎名を迎えに寄越すから必ず来い。いいか? に・げ・る・な・よ!」
緒凛の力強い言葉にも、真織はそっぽを向いて頬を膨らませる。
それにため息を漏らしながら、緒凛は諦めたように店を出て行った。
高級エステ、クレオパトラもご満悦コース。
本気でやらされる羽目になるとは思わなかった真織は、ベッドの上で落胆した。
一人取り残され、着々と準備を進めている複数の女性店員を見ていれば、これはもう逃げるだなんて失礼だし、腹を括るしかないと真織は鼻息を荒くする。
気合を入れなおしている真織を見て、女性店員はクスクスと優しい笑みを漏らし、真織に服を脱ぐよう促しながら、気を紛らわせるように話し掛けてきた。
「とても面白くて素敵な方ですね」
「……それは誰が? と聞いてもいいですか?」
「ふふふっ、もちろん黒澤様ですわ。いつも凛々しいお姿しか拝見しておりませんのに、あれほど無邪気な黒澤様を見るのは初めてです」
「緒凛はよくここに来るのですか?」
「ええ、お母様の付き添いでよくお見えになっておいでです」
通りでエステのコース名を知っているわけだ。
真織は呆れながらため息を漏らし、恥じらいの残るまま服を脱ぎ始める。
どこまで脱げばいいのだろうか、と聞くに聞けないで居れば、女性店員がバスローブを渡した。
「下着も全て脱いでください。この紙パンツを着用してバスローブを着てから、ベッドに横になっていただけると……」
優しい女性店員の言葉に、真織は顔を赤くしながらそれを受け取ると。
女性店員は小さく会釈をしてカーテンを閉めた。
さて、ここでなぜこういう状況になったのかを説明する必要がある。
◇◆◇
緒凛と想いが通じ合った後、真織は照れくささばかりがこみ上げてきて、居てもたっても居られずに帰ると言った。
あんなことがあったばかりだし、日も暮れたから危ないと、緒凛が車で送ってくれることとなって。
返し損ねたカードキーは持っていてもいいと言われたので、素直に受け取ることにした。
運転している間中、緒凛は空いている手で真織の手をぎゅっと握り締め続けてくれていて。
キスは……していない。
あの抱擁と、この手の温もりがあれば十分だと感じていたし、それほど先を急ぐ必要はないと思った。
けれどそれは同時に父親である直弥に、そして世間にこのことを悟られてはならないと強く感じていた。
一応、癌治療薬のことについて、緒凛のところへ行くというのは父には告げてあるが、本当の目的だった告白のことはもちろん言っていない。
いつ、どこでどういう風に情報が漏れてしまうかはわからない。
人に言いふらすようなことは絶対にしないと自分で誓っているし、緒凛も頭がいいからわかっているだろう。
これから内緒の付き合いが始まるのかと思うと、せっかく想いが通じ合ったと言うのに、真織は胸がぎゅっと苦しくなった。
大きな門構えの屋敷の前で、緒凛は車をとめた。
せっかく繋いでいた手も静かに離され、なんだか物足りなさを感じる。
ついさっきまでは想いが通じ合っているだけでこれほど幸せなことはないと思っていたのに、もっと傍にいたい、もっと触れていたいという感情が次々にこみ上げてくる。
自分は一体いつからこんなに贅沢で我儘になってしまったのだろうか。
真織が助手席から降りるのを躊躇していると、緒凛は車を端に寄せて、エンジンを止めた。
「……え? どうしたの?」
緒凛の行動に、真織はふっと顔を上げると、緒凛の真剣な眼差しと視線が絡み合う。
ただそれだけなのに、ドキッとしてしまうあたり、自分は重症だなと真織は内心で苦笑した。
「俺も行く」
「え?」
「俺も一緒に行くと言ったんだ」
緒凛の言葉に、真織は一瞬何を言っているのかがわからずに、戸惑いの表情を見せるが、緒凛が冗談を言っているようには見えず、思わず眉の両端を下げた。
「い、一緒に行くって……何をするつもり?」
「当然お前との交際を認めてもらうんだ」
「そ、そそそんなこと……」
「そんなことじゃない」
どうにかして緒凛を止めようと必死に言葉を探していると、緒凛はずいっと顔を近づけて真剣な表情で真織を見た。
「そんなことなどと言うな。俺がどれほどこの幸せを待ち望んでいたか知っているか? 真織が好きで好きで、たまらなく好きで、一緒に居たいと願って、卑怯な手を使ってお前と過ごす時間を手に入れた」
穏やかな声でそう言いながら、緒凛がすっと手を伸ばす。
その仕草に、ビクッと体を振るわせると、緒凛はふっと微笑んで真織の頬を撫でた。
「家柄など関係ない。真織は俺を家柄で好きになってくれたのか?」
優しい緒凛の言葉に、真織は小さく首を振れば。
「だろう? 世間がなんと言おうが俺はお前を幸せにする。どんな形であれ絶対に。直弥さんに誓う前に、おまえ自身に誓おう。必ず幸せにするから……俺を信じろ」
緒凛はそう言って真織の顔を寄せて、額に唇を押し付けた。
◇◆◇
恐る恐る緒凛を連れて帰ると、組の連中は明らかに緒凛にガンを飛ばしていた。
それもそうだろう。
ここで緒凛の話をするなど暗黙の了解で禁止されていたほどだ。
どうやら真織の父、直弥が緒凛のことを自分の娘を卑怯な手を使って手に入れようとしたとでも言ったのだろう。
真織を溺愛する組員達には、緒凛は最大の敵であり、殺せるなら殺してやりたい相手ナンバーワンだ。
……いや、多分殺してはいけないと言われても影で手にかけそうだ。
そんな緒凛を、真織本人が連れてきたのだ。
血の雨が降ってもおかしくない状況に、なぜか緒凛はどこ吹く風と清々しい表情を浮かべ、なぜか真織が萎縮した。
玄関先では綺麗に一礼をして靴を脱ぎ、脱いだ靴をしっかりと揃えるほど、緒凛の礼儀は完璧で、組員達は「ちっ」と舌打ちをしてみせた。
ひとつでも間違った礼儀作法をすると、それが餌食となって瞬く間に追い出されるだろう。
そんな素振りをひとつも見せない緒凛の行動に、組員達はギラギラとした視線を送った。
「おう、お帰り真織……と、緒凛君じゃねぇか」
真織の姿を見つけた直弥が、着物姿で現れ、真織に機嫌よく挨拶するも、その後ろに緒凛の姿を見つけた途端、唇の端をヒクヒクとさせながら緒凛を見た。
「お久しぶりです」
緒凛は一礼をしながらそう言えば、直弥は気後れしたのか「お、おう」と躊躇いがちに答え、真織を睨む。
真織はその視線に肩をすくめながら恐る恐る緒凛を見れば、緒凛はまっすぐに直弥を見て、静かに言った。
「お話があります」
「お、おう……こんなところで立ち話もなんだ、広間で話そうじゃねぇか」
すっかりヤクザ組の組長らしい言葉遣いになってしまった直弥に、緒凛は「ありがとうございます」とまた丁寧に一礼をしてみせる。
真織はオドオドと挙動不審な視線をあちらこちらに向けていれば、緒凛は視線で直弥の後を追うように促した。
真織もそれを理解し、小さく頷くと、すでに踵を返して廊下を歩き出した父の背中を追うように歩き出す。
その背後から、緒凛の気配を確かに感じ、真織は心臓がバクバクと跳ね上がるのを必死に表に出さぬよう取り繕った。
二十畳以上もある広間に、三人は入った。
出歯亀を試みた組員達は、直弥の一睨みで部屋の外だ。
部屋の外といっても障子戸で仕切られているだけなので、影が映って見える。
これ以上は何を言っても無駄だろうと、直弥が諦めて上座に座ると、真織は直弥の横に正座してすわり、緒凛はそれに向かい合うように正座をして座った。
「足崩して座れよ」
「いえ、お構いなく」
「それで、話ってぇのはなんでぇ?」
早々に話を終わらせたいのか、直弥が直球で尋ねると、緒凛は静かに膝の上で握りこぶしを作る。
真織もただハラハラと、ドキドキが複雑に入り混じった感情のなか、ひたすら緒凛の出方を待った。
「お嬢さんとの交際を認めていただきたい」
はっきりと、あまりにもすんなりと言われた言葉に、直弥だけでなく真織も目を見開いた。
「な……なんだって?」
「ですから、真織との交際を認めていただきたいのです。真織の了承はすでに得ました。後は直弥さんの了承を得るだけです」
今度は聞き返されないようにか、ゆっくりと話した緒凛の言葉に、直弥は隣に座る真織を見た。
真織はその視線を見て、思わず肩をすくめながら頬を赤く染めれば、直弥は鋭い視線を緒凛に向けてドスの聞いた声で言った。
「おめぇ、自分で何言ってっかわかってんだろうな?」
「もちろんです」
「真織はまだ十七だぞ? おめぇとの年の差は十一だ。それでうまくいくと本気で思ってんのか?」
「何の支障もありません」
「家はどうするんでぇ? 黒澤財閥の次期総帥と、ヤクザ組の娘が付き合ってるなんざぁ、世間が知ったらどういうか分かって――」
「家を捨てる覚悟は出来ています」
直弥の言葉を遮って、緒凛は自分の意志をきっぱりと告げた。
その言葉に、驚いたのは他でもない真織だ。
「家を捨てるって……だって緒凛!」
「いいんだ」
真織が勢いで口を開けば、緒凛は穏やかな口調で真織に言う。
まっすぐ向けられた、迷いのない視線に、真織は浮き上がった腰を素直に戻した。
「……地位も、財産も、家族すら捨てるってことか?」
緒凛の発言に戸惑いながら直弥が聞けば、緒凛はすぐさま頷いて静かに言った。
「地位も、財産も、家族よりも……大切なんです。彼女が……真織だけが全てなんです。真織が傍に居てくれれば、僕は他に何も要らない」
緒凛の言葉に、真織は胸をドクンッと跳ね上がらせた。
なぜこの人は淡々とこんなことが言えるのだろうか。
何に変えても自分を想ってくれることは本当に嬉しいし、気を緩めれば涙が出そうだ。
けれど家族に変えてまで自分を選ぶと言った緒凛の気持ちが分からない。
家族は血のつながりのある大切な人たちだ。
一緒に育ってきたあんな素敵な兄弟も、あんなに素敵な両親も捨てて自分を選ぶだなんて、やっぱり間違っている。
真織は言葉にならない感情を、複雑に表情に出していれば、直弥はそれに気づかずに緒凛を睨みつづけていた。
「それでも……おまえさんには悪ぃが、真織を任せるわけにはいかねぇ」
「何がご不満ですか? 僕に出来ることなら何でもします」
「そうじゃねぇ」
緒凛が譲らずの態度を取れば、直弥は呆れたようにあぐらをかきながら、隣に居る真織の頭をポンッと撫でた。
「おめぇ、そんなことして真織が喜ぶと思ってんのか?」
直弥の一言に、緒凛の瞳が静かに揺れた。
けれど何も言い返さない緒凛を見て、直弥は静かに続けて言う。
「家族を捨てるだと? そんな簡単に言うんじゃねぇぞクソガキが。地位や名誉や財産は別にいい。だがな、血の繋がりを否定してまでコイツと一緒になろうなんざ、片腹痛いわ。おめぇはそれが正しいと思ってんのかもしんねぇけどな、コイツの気持ち考えてねぇ時点で、お前をコイツの男と認めるわけにゃぁいかねぇに決まってんだろ」
まるで真織の気持ちを見透かすように、真織の言いたかったことを全て言ってのけた直弥の言葉に、真織は賛美を贈りたかった。
借金まみれだと思っていたあの頃の生活。
それは本当に耐え難いものがあった。
直弥は道楽でどうしようもなくて、本当に情けない父親だったけれど、本当に真織のことだけは大切にしてくれていた。
いらない借金を増やしてまで、真織の誕生日を祝ってくれたこと。
真織の作ったご飯を、どんなに粗末なものでも残さず食べてくれたこと。
学校やバイト先で悔しいことがあって、部屋の隅で泣いていれば、何も言わずに抱きしめて頭を撫でてくれたこと。
疲れてバイトから帰ってきても、必ずその時間は家に居てくれて「おかえり」と笑ってくれたこと。
寒くてたまらない日は、一緒の布団で寝たこともあった。
ごめんなって、悲しそうに笑いながらも真織の頭を撫でてくれた。
本当にどうしようもない父親だった。
どんなに借金が膨れ上がっても、返すことはなかったにしろ、絶対一人で真織を置いて逃げ出すことはなかった。
本当にこの父親が大好きだ。
そんな父親が、自分をどれほど理解してくれているか、自分をどれほど大切にしてくれているのかが分かる言葉だ。
こみ上げてくる熱い感情を、真織は下唇をかみ締めてぐっと堪えた。
頭を撫でてくれる父のぬくもりが酷く懐かしい。
もし自分が緒凛の立場になれば、緒凛のようなことは絶対にできないと思った。
たった一人の肉親を、突き放すような冷たいことはできない。
家を、家族を捨てることが出来ないのに、それでも緒凛と共に生きていきたいというのは、やはり無理なことなのだろうか。
何の反論も出来ないで居た緒凛を見つめれば、緒凛は酷く悲しげに、切なげに真織を見つめて。
――三人の間に沈黙が走る。
重苦しい雰囲気の中、真織は今にも零れそうな嗚咽を必死に喉の奥へ追いやっている。
解決の糸が見つからない。
このままでは緒凛と離れ離れになってしまう。
けれど、家族を捨てるということも出来ない。
途方にくれた真織の表情を見て、直弥は小さくため息を漏らせば、真織は潤んだ瞳を直弥に向けて静かに口を開いた。
「お父さん……。私と……緒凛と……付き合うのは何がいけないの? 何が足りないのか言って?」
沈黙を破るように真織が呟けば、直弥は心底困った表情を見せて、真織の頭を撫でながらあからぬ方向を見て言った。
「何が駄目ってなぁ……世間一般の目があんだろうが。俺たちゃあ慣れてるけど、黒澤財閥とヤクザの繋がりなんて世間に広がってみろ。あっという間に黒澤財閥は終わるぞ?」
直弥がそう言えば、真織は零れそうになった涙をぬぐい、それから横目で緒凛をチラリと見れば。
緒凛は真織に不思議そうな視線を向けていたので、ただ笑みを返して直弥に向き直った。
「それじゃあ世間一般の人に認められればいいのね?」
「そりゃあそうだが……真織……おまえ一体……何考えて……」
「もちろん世間一般の人に認められる方法を考えているの。認められたなら緒凛も家を出ずに住むし、私も堂々とお父さんと外を歩けるわ」
真織の決断した言葉に、直弥は驚きの表情を見せ、すぐさまどうにか真織を止めようかと緒凛に助けを求めるように視線を向ければ。
緒凛は見せたことがないほど企みを含む満面の笑みを見せて、直弥はそれにヒクッと口の端を動かした。
◇◆◇
『創立記念パーティー?』
真織と直弥は声をハモらせて、緒凛の言葉をオウム返しに尋ねた。
二人の言葉に、緒凛は笑いをかみ締めながら「はい」と小さく呟いてから答えた。
「来月の頭に、黒澤財閥、黒澤不動産創立二十周年のパーティーがあるんです。各業界、著名人、報道マスコミ各社を集めての盛大なものです。本社の人間も出席する予定ですし、そこで真織をお披露目するのはいかがでしょう?」
「おま……し、しかしだな? そこで失敗したらどうするつもりなんだ? 真織が二宮組の娘だって披露して、そんで世間の人から反感を買ったらどうなるんでぇ?」
「その時はその時ですよ」
「は……?」
「僕は成功させる自信があります。世間一般の方々に、真織を認めてもらう自信が」
「そ、そんな……どっから沸いてくる自信だよ」
強引過ぎるほどの緒凛の呆れた提案に、直弥は眉の両端を下げてそう言えば、緒凛は何食わぬ顔で直弥に言った。
「アナタは自分の娘さんを信じていらっしゃらないんですか?」
「そんなわけねぇだろ。真織は自慢の娘だし、当然信じてる」
「だったら信じてください。僕が見せる自信は、真織を信頼しているからこそ出てくる自信ですから」
してやったり、と言わんばかりに緒凛がやんわりと笑みをこぼせば、直弥は目を白黒させ、真織に至っては顔を蒼白させて緒凛を見つめた。
「ひ、ひ、人前に出るの!?」
「世間に知らせるためにはそうするのが一番だろう?」
「ほ、ほほほかに方法は?」
「それしか考えられないよ」
明らかに挙動不審な質問を繰り返す真織に、緒凛は顔色ひとつ変えずに淡々と言ってのける。
直弥に至っては、自分の大切な娘を人前に晒すという行為に酷く悩んでいる様子だったが、緒凛に言われた一言もあって、口をつぐんだまま真織の回答を待っていた。
「……どうする真織?」
黙り込んだ真織に、緒凛の優しい声が届いた。
真織はふと顔をあげて、泣きそうな表情をみせながらも、緒凛の穏やかな表情を見て、ぐっと感情を押し込める。
彼はきっと強制などしない。
自分が嫌だといえばそれでこの話は終了だ。
けれどこの話を不意にしてしまえば、他にどういう作戦が残っているだろう。
真織はグッと膝の上で握りこぶしをつくると、意を決したようにまっすぐに緒凛を見つめて言った。
「やる」
「よし、決定だな」
緒凛はそう言ってスクッと静かに立ち上がれば、直弥と真織に静かに一礼して言った。
「後日招待状を送らせて頂きます。直弥さんも是非いらしてください。それと……もしこの件がうまくいけば、真織を僕に任せてくださる、そうとってもよろしいですね?」
「あ、ああ……。問題ない」
緒凛の言葉に、直弥は自分がなぜ押され気味なのかと疑問に感じつつも素直に答えれば。
「ではこれで失礼致します。また改めてお伺いさせていただくことになりますので」
緒凛がそう言ってスタスタと障子戸の方へ歩み寄り、スラッと音を立てて障子を開けば。
野次馬になっていた組員達が気まずそうに重なって緒凛を見上げて。
何か気まずかったのか、ヘラッと笑みを漏らして緒凛のために道を明けた。
これがことの始まりである。
思い返せばこれほど緊張した時間を過ごすことはなかった。
緒凛はあれから招待状を渡しに、一度だけ訪れただけで、後はまったく真織に会いに来ることはなかった。
先ほどここに連れてこられる前に聞いた話、パーティーの準備で忙しかったと聞いたのだが、連絡のひとつくらい寄越してくれてもよかったのではないかと悪態づく。
そんな真織を気遣いもしないで、緒凛は何食わぬ顔で真織をここに連れてきて、冒頭の言い争いが始まったということだ。
一通りの体のマッサージを終え、真織は両手がふさがった状態に飽き飽きしていた。
下着だけを着て、バスローブを身につけ、手はネイルをするのに片手に一人ずつ担当者がついて、綺麗な宝石をつけていく。
こんな手では家事ができないではないかと思うと同時に、セレブの人たちはどうやって家事をしているのだろうかという疑問が頭をよぎる。
つい最近まで自分が行っていたはずの家政婦といった職業があることを、真織の貧乏思考の中には存在しないようで、飾られていくネイルに視線を向けてすぐさまそらした。
豪華すぎて見ていられないといったような雰囲気である。
頭の上では、ヘアスタイリストが一生懸命真織の髪を整えているのがわかるが、何しろ退屈すぎて真織は気づかれないようふぅっと息を吐いた。
クレオパトラもご満悦、とは言っていたが、満悦どころが不満が爆発しそうだ。
真織の豪華嫌いには、クレオパトラもびっくりだった。




