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同じ日常はもう来ない

事件はあっけない形で幕を閉じた。

あれから二週間が過ぎ、真織が救出されその数日後に坂上善一は収賄罪、他、たくさんの容疑があり逮捕されたのだ。

ニュースで大きく報道されたその逮捕劇で、真織は初めて彼が議員だったと知った。

真織に関することは恐ろしいほど何も取り上げられなかった。

緒凛が圧力をかけたのか、それとも坂上氏が自供しなかったのかはわからない。

真織の母親の死の真相も、結局はわからず仕舞いだったし、議員逮捕の報道で日本は揺れた。

ぽかぽかと暖かい陽気に、真織は縁側で寝転んでいた。

まるで全てが夢だったかのような平和さに、真織は小さくあくびをする。

のどかな日本庭園が広がるそこは、あまりにも自分に不似合いだと真織は感じた。


「お嬢」


ふと、真織は上半身を起こすと、自分をそう呼んだ人を見つめてため息を漏らした。


「小池さん、お嬢はやめてくださいって言ったじゃないですか」


むぅっと頬を膨らませそう訴えると、小池と呼ばれた男は中腰のまま「すいません」と申し訳なさそうに謝る。

素直な謝罪に肩透かしをくらいながらも、真織は気を取り直すかのように大きく息を吐いて、現実味のないそれから視線をそらすように日本庭園を眺めた。

緒凛達、黒澤兄弟に助けられ、黒澤の実家に帰ると、そこには姿を変えた父が待っていた。

父は真織との再会を喜び、しばらく離れようとしなかったのには参ったが。


「真織……今まで黙っていてすまなかった」


そう切り出されて語られた真実は、なんとも受け止めがたいものだった。

父は二宮組というヤクザの組長の息子だったということ。

借金などなかったということ。

緒凛が父に渡したお金は、父が組を引き継ぐ為や倒れた父親の入院費の支援金だったこと。

そして母親の死。

父親が本当の父親でないことと、真織の本当の父親のことについてのこと、緒凛との契約のことについては、真織の気持ちを配慮して伝えられなかった。

全てが寝耳に水で、受け入れがたいものもあったが、さすがにこれほど時間が立てば、受け入れられずにはいられなくなる。

そして父は一通り黒澤家に感謝と謝罪を述べて、真織に告げたのだ。


「俺と帰ろう」


これが一番の衝撃だった。

もう何も苦労はしなくていい、自由に好きな事をしてすごせばいいと父は言ってくれた。

組に帰ることで、新しい生活を二人で送ろうと言ってくれたのだ。

それは当然うれしかった。

父とは半ば無理やりに引き離され、今ようやく再会できたのだ。

その父がまた一緒に暮らそうと言ってくれている。

たとえヤクザ組の組長になっても、十七年間、共に過ごしてきたのは他でもないこの父親、直弥なのだ。

母が亡くなった事実を知った今、肉親と呼べる人はこの人だけだ。

本来ならば、なんの迷いも生じることなく頷けたはずなのに、真織はひどく戸惑った。

父と帰る――それは緒凛と離れることを意味する。

どんな理由であれ、緒凛と過ごした時間は短いようで長かった。

そして駄目だと思っていた自分の気持ちに気がついてしまった。

彼を好きだと……愛しいと思ってしまった。

離れたくないと……。


「……一日だけ……、緒凛のところへ行ってもいい? 周辺整理をしてから帰りたいから……。明日、必ず帰るから」


真織のささやかな抵抗だった。

今すぐにでも連れて帰りたい直弥は、一瞬表情を曇らせたが、まっすぐな真織の視線を見て、yesと答えることしかできなかった。

緒凛が、切なげに、苦しそうな表情を浮かべているとも知らず、真織は安堵したのだが。

直弥は真織が持ち帰った箱を持ち、部下を連れて帰って行った。

真織に雇われた真由羅も、自分の役目は終えたと、真織との主従関係を解除して、再会の約束をして自分の在るべき場所と帰っていく。

黒澤の人々も皆、おのおのの生活へ戻っていった。

真織もまた、緒凛に連れられ、あのマンションへと帰った。

運転中、一言も――いや、それ以前から何も話そうとはしない緒凛との帰宅は、胸が苦しくなるばかりだった。

一緒に居るのはこれが最後だと思えば、思うほど辛い気持ちが募っていく。

一層、自分の気持ちを素直に伝えられればどれほどいいだろうとも思ったのだが。

真織はヤクザ組、組長の娘だ。

そして緒凛は黒澤財閥の次期総帥。

いくら主張したところで、世間はその関わりを許さないだろう。

財閥とヤクザ組のつながりは、財閥を一気に奈落の底へ落とす材料としては十分だ。

絃と緒凛が築きあげてきた財閥を、自分の気持ちひとつで潰すわけにはいかない。

自分の気持ちは財閥にとって痛手となる。

伝えてはいけない。

我慢しなければいけない。

大丈夫――我慢は慣れている。

何度も何度も自分にそう言い聞かせるたびに、真織の気持ちは沈んでいった。


「……真織」


動きやすいパジャマに着替え、周辺整理をしていた真織に、緒凛が静かに声をかけた。

今の今まで何も言わなかった緒凛が、ようやく自分の名前を呼んでくれたことに、うれしさがこみ上げる。

真織は作業をやめ、ソファに座ったままの緒凛に、静かに歩み寄った。


「真織……もうそれくらいにして、今日は寝なさい。明日、迎えが来るから、それまでゆっくり休め」


ボソボソと、真織の方を見ずに緒凛がそう漏らした。

確かに疲れているのは本当だ。

体調ではない、いろんなことがありすぎて、精神的に疲れている。

けれど緒凛の傍に、少しでも居たいと思ったからこそ、わがままを言ってここに来たのに、それすら許されないのだろうか。

まるで自分を否定されたような、もういらないと言われたような気持ちがこみ上げてくる。

もう……必要とはしてくれないのだろうか。

自分は……いらなくなったのだろうか……。

傍に――ずっと傍に居てくれると言ったのは嘘だったのだろうか……。

わかっているはずなのに、納得ができなかった。

きっと緒凛に「行くな」とさえ言ってもらえれば、自分はここに残るだろう。

それなのに、緒凛は自分を見てもくれない。

これほどまでに傍に居るのに、なぜ見てくれないの。

望んだのは自分なのに、なんと臆病なのだろうか。

全てを捨ててでもこの人の傍に居たいと、一瞬でも思ったその感情は、まだ子供なのだろうか。

何も言わない緒凛を見つめながら、真織は決断したように笑顔を作って言った。


「うん、わかった。先に寝るね」


そう告げて静かにリビングを出て行こうとして、それからもう一度振り返っても、緒凛はやはり床を睨み付けたまま口を閉ざしていた。


「……助けてくれてありがとう」


それが、まともに話した最後だったと思う。

次の日目が覚めると、緒凛の姿はなく、代わりにリビングに直弥の姿があった。

直弥は真織に、緒凛は仕事へ出かけたと告げ、ろくな別れも言わないまま直弥とマンションを離れたのだ。


「おじょ……真織さん」


ふと、現実に引き戻され、真織はようやく顔を上げた。

自分の名を呼んだ人を見れば、小池は心配そうな表情で真織の様子を伺っている。

この人は昔からそうだったな、と真織は思い返した。

直弥が借金があると偽った際に、借金の取立てをしていたうちの一人だ。

実際は直弥の部下で、そう頼まれていたらしく、真織は妙に納得をしていた。

この人や、他の借金取立ての人たちも、みんな自分が直弥の娘だと知った上でやさしくしてくれていたのだと。

たとえ直弥の娘でなくても、この人たちは真織に優しくしてくれていたのだろうが、真織は知らない。

小池は真織の気を使うように、生まれつき怖い顔に、必死に笑顔を浮かべて真織に言った。


「どうかしやしたか?」

「ううん、何でもないです。ちょっと、暗証番号が分からないから参っちゃって」


真織がごまかすようにそう笑っても、小池の表情が晴れることはなかった。

実際、本当に困っているのは確かなのだ。

あの時持ち帰った箱は、結局今の今まで開いていない。

直弥の協力を得てでも開かなかったあの箱に、真織はずっと奮闘していた。

学校には四ヶ月の休学届けが提出されている。

いろんなことが一気にありすぎて、真織はそれを取り消してまで学校へ行く気にはなれなかった。

けれどここに来てからは組の人たちが何でもかんでも身の回りのことをしてくれるので、今まで家事をしてきた真織にはすることがなくなってしまったのだ。

好きなことを好きなだけしていいと言われた。

欲しいものがあったら何でも言ってくれればいいとも。

前ならば何でも思い浮かんだだろうし、何でも欲しいと思っていた。

けれど今は何もそういう気にはなれないのだ。

今更……という気持ちさえ浮かび上がってくる。

真織が無意識にため息を漏らせば、小池は悲しげに表情をゆがませて、真織に言った。


「気分転換に散歩でも行きやせんか?」


小池の誘いに、真織は二つ返事をした。

平日の昼下がりというだけあって、住宅街の道を歩いても人はおろか、車すらほとんど通らない。

真織は物思いにふけりながら空を見上げて歩き、小池はその後ろを静かに寄り添うように歩いている。

何も考えられない。

考えることが多すぎて、考えられることも考えられなくなっている。

そう、自分で分かっていても、なかなかまとめることができない自分の足りない脳みそが腹立たしい。

スズメの鳴く声を聞きながら、歩いていけば、小池が「あっ」と声を漏らしたことで、真織は足を止めて振り返った。


「お嬢、ここ覚えてますか?」


ふと指を差された場所を見て、真織は小さく首をひねった。

そこには小さなアパートが建っていて、一階には子供用の補助輪がついた自転車や、小さなバケツが並んでいる。

生活観のあるそこを見つめながら、ここがどうしたのだろう、と小池を見た。


「ここ昔、空き地だったんですぜ。真理さんがまだ生きてらしたころ、お嬢はここで遊ぶのが好きでねぇ……」


しみじみとそう言った小池に、真織は「そうだったっけ?」と、かしげた首を、反対に曲げた時だった。



『――なさい』



『貴方が好きな言葉を……貴方だけの太陽を見つけなさい……貴方が全てを許すことのできる何かを、元気の出る言葉を――』



「――っ!? お嬢!?」


突如と駆け出した真織の行動に、小池は驚いて声を上げるも、真織は足をとめることなく今来た道を走った。

バタバタと慌しく帰ってきた真織の姿に、だだっ広い屋敷に居た誰もが驚き、視線を向けた。

その後を追うように入ってきた小池に、誰もが詰め寄り真意を問う。


「おい! お嬢は一体どうしたんでえ!?」

「俺にもわかんねぇんだよっ! 散歩してたら急に走りだしてっ!」


満足できる答えを得られなかった連中は、ちっと舌打ちをしながら真織の後を追った。

屋敷の一番端に用意された真織の部屋。

実際は一番いい部屋を用意していたのだが、豪華すぎて自分には合わないと、真織がここを申し出た。

ドアも閉めず、中にいる真織を覗き込めば、真織はこちらに背を向けて、勉強机の前に立ちすくんでいた。


「あ……あの……お嬢?」


しばらく覗いていても、ピクリとも動かなかった真織を気にして、入り口にたむろっていた連中の一人が、遠慮がちに声をかけた。

すると真織の背中がピクリと動き、顔だけを静かに向けてきた。

それはなんとも切なげに、困ったような、嬉しいような、複雑な表情で。

手に何かを持ちながら、そんな顔をして振り返られた連中は、ひどく戸惑っていた。


「……たの……」

「え?」

「箱が……開いたの……」

『なんですってぇ!?』

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