せくせくはらはら。
風呂の豪華さは後でまた語るとしよう。
今はこの現状をどうすればいいかと悩みに悩む。悩むどころか怒りがふつふつと湧き起こってきた。
真織は風呂から上がると用意されていたバスタオルで体を丹念に拭き、あることに気が付いてバスタオルを巻いた状態でドアの外を覗いた。
部屋に緒凛の姿はなく、もう一度ドアを閉めて目の前にあるそれに視線を落としてため息を漏らす。
風呂からあがると、自分の服がなくなっていた。
下着も制服も全部だ。
その代わりに、派手な下着と、綺麗だけれど透けたピンク色のネグリジェが用意されていた。
どうやらこれを着なければいけないらしい。
制服も下着もなくては、これを着なければいけないのだろうが、真織にはどうもそれに袖を通す勇気が出なかった。
高級すぎるというかむしろネグリジェなんて着たことがない。
ネグリジェが高級だという思考は真織独特のものだが、ここはあえて目の前にある状況を理解することに専念しよう。
下着も真っ赤なシルク素材に黒いバラのレースが施されている落ち着いたシックなものだったが、真織から見るとどうも派手なように思える。
どうすればいいのか悩んでいたが、やはり着るわけにはいかないと、タオルを巻いたまま、脱衣室を飛び出して、玄関を通り二階の書斎に歩いていった。
緒凛が教えてくれた一番奥の部屋のドアをノックする。
中から小さな声で返事が聞こえ、体が見えないよう顔だけをそちらに覗かせると。
沢山の本に埋もれながらこちらに背を向け、斜めになった机のようなものに向かっている緒凛の姿が見えた。
「あの……」
「ん?」
真織が声をかけるも、緒凛は振り返りもせずに返事をする。
緒凛の後ろ姿から煙が出ているのが見え、鼻を刺激するその匂いに、緒凛がタバコを吸っている事を窺えた。
振り返ることがないと判断し、真織はおずおずとタオル一枚の姿のままで中に入っていく。
ドアを静かに閉め、そっと緒凛の後姿に近寄って、緒凛が見つめているそれを後ろから覗き見た。
「……設計図?」
真織の零した言葉に、緒凛は振り返ることもなく机についている設計用の定規を器用に動かして描き進めていた。
「今度新しいマンションがこの近くに立つんだ。一部屋の平面図を描かなければいけなくてね。俺が描くこともないんだが、マンションのオーナーが俺の知人で、面白半分に俺に設計を任せてね」
そう言って、設計用のシャープペンシルを走らせる緒凛の横顔は、見たことがないほど真面目で、真織は一瞬、胸をドキッとさせた――が、すぐにそのときめきを振り払うように首を横に振った。
「で、なんの用――っ!?」
タバコを横に置いてあった灰皿の上に置き、ようやく振り返った緒凛は言葉を詰まらせた。
真織はそこでようやく自分の姿を思い出し「ぎゃっ」と品のない声を上げる。
「お前……服は用意しただろうが。なんでそんな格好を……」
「だ、だって、服――私の制服は?」
「あれなら下着と一緒に処分した。新しいものを注文したから、それまでは俺の用意した服で我慢しろ」
「ネグリジェなんて着たことありません」
「じゃあ初体験だな。喜べ」
「無理ですよっ」
顔を紅潮させて訴える真織の姿に、緒凛はイスを回転させて向き直ると、クスッと笑みを漏らして真織の腰を引き寄せ、自分のひざの上に真織を抱いた。
「ではその姿で過ごすがいい。俺は理性を保つ自信はないぞ? それとも、俺を誘っているのだとしたら大歓迎だ。今すぐ組み敷いてやろう」
「じょ、冗談――」
「冗談は言わないぞ。俺はいつでも本気だ」
緒凛の言葉に、真織は、この男ならやりかねんと、慌てて逃げ出そうとするも、緒凛は真織の体を力強く引き寄せ、真織の胸元に唇を這わした。
「ひゃっ」
突然の感触に、真織が声を上げれば、緒凛は愉快そうに声を上げて笑う。
「なんだ? かわいい声を出して。やはり誘っているのか」
「だっ、誰が!」
「ふむ、期待に沿わなければ男として廃るな」
「期待してないし、沿わなくていいっ! 一般的思考を持て!」
「充分一般的思考だ。男の」
「嫌がる女を無理矢理犯すことが男の一般思考なら、日本も終わりだわ」
「なるほど。それは由々しき事態だな。嫌がる女が相手ならな」
「私の態度は貴方からどう見えていらっしゃる?」
「……てっきり誘っているのかと」
「男失格。生まれる前からやり直してきて下さることを推奨します」
「女心は難しいな」
真っ赤になりながら抵抗を続ける真織を、緒凛はようやく開放してクスクスと笑う。
真織は少しだけはだけたバスタオルを直しながら緒凛から逃げるようにドアに向かった。
「それが嫌なら早く着替えて来い」
「ふ、普通の洋服はないんですか?」
「後は寝るだけなのにどうして洋服が必要になる?」
「普通にパジャマとかあるでしょ?」
「脱がす服を着る必要はない」
ケロッとそう言った緒凛の言葉に、真織は絶句しながら次の瞬間には「変態!」と叫びながら書斎を後にした。
自分の犯した行動を酷く恥じ、後悔の念が押し寄せてくると共に、やはりこの男は信用ならないと感じた。
そして自分自身に決意したのだ。
この男から自分を買い戻そうと――。
◇◆◇
結局、真織は仕方なくネグリジェを着用してソファの上に体育座りでおとなしく座っていた。
どうもこの広い部屋はソワソワとしてしまって落ち着かない。
部屋は暖かく風邪を引く心配はなさそうだが、心に隙間風が吹き込んでくるようで――真織は自分を守るようにぎゅっとひざを抱え込んだ。
緒凛は今現在、風呂に入っている。
真織が着替え終わったのを見計らって二階から降りてきた緒凛は、ネグリジェ姿の真織を満足そうに見つめてきた。
派手な下着に、透けたネグリジェ。
あまりにも大人びたそれが、自分には似つかわしくないと思って酷く恥じたが、緒凛はそれを見るだけで、何も言わずに風呂へ消えていった。
この場所はテレビもなければ何もない。
まあ真織の家にもテレビはなかったけれど、そう言うときは勉強をしていた。
今はその勉強道具さえないのだから暇を持て余して仕方がない。
むしろ、このソファで寝てしまおうかと思ったが、あの変態な緒凛に何かされるのではという恐れが湧き上がり、眠るに眠れない。
眠いことは確かだが、明日からどうすればいいのかもわからない真織は、ただ時間が過ぎていくのを待ち、ぼーっと残してきた父親のことを考えた。
あまりにも突然だったため、夕飯の準備ができなかった。
父はちゃんとご飯を食べただろうか?
緒凛から資金援助をしてもらったらしいから、きっと一人で豪華な食事でもしているに違いない。
こみ上げてきた胸のつっかえが、真織の瞳を潤ませるも、真織は泣きたくないと心の中で思い、潤んだ目を手の甲で擦った。
こんなところで泣くのは卑怯だ。
涙は女の武器と言うけれど、だからといってそれを利用してまでどうにかしようとはしたくない。
真織が持つ女という性に対する信念だ。
女の質を落とすようなことだけは絶対にしたくない。
弱みを見せることができないだけなのかもしれないが、その信念を覆すことはできなかった。
「……お腹空いたな」
気分を紛らわそうとポツリと呟けば、その空腹感がますます空腹をもたらしてくる。
目の前にある対面キッチンを盗み見るも、人様の家のキッチンを勝手に漁るわけにもいかないだろうと、真織はその空腹感でさえ気のせいだと自分に言い聞かせた。
ドアの開く音がして振り返ると、脱衣所から緒凛が姿を現した。
頭をタオルで拭きながら、白いTシャツにジーンズと、ラフな格好で出てきた緒凛の姿に、真織は思わず瞬きを繰り返した。
オールバックにしていた髪は洗いたてのようでしっとりと水分を持ち、前髪もしっかりと降りている。
それは今まで老けているように見えた要因だったらしく、前髪を降ろした緒凛の姿はあどけなく幼い感じがした。
「なんだ、寝ていなかったのか」
真織の姿をソファの上に確認すると、緒凛は少しだけ呆れたようにそう言って真織に歩み寄ってくる。
真織は何も言わないままふと、視線を下にさげて、自分の姿を隠すように、自分のひざを抱きすくめる腕に力をこめた。
「どうした? 腹が減ったのか?」
幾分か穏やかな緒凛の声に、真織はどうすることも出来ずに、ただ小さく首を横に振った。
本当はすごくお腹が減っている。
けれど素直に言うだけで、また馬鹿にされるのではないかと思い、思わず否定してしまったのだ。
真織の態度に緒凛は小さくため息を漏らし、タオルを首にかけると真織の横に間を空けずに座った。
「真織、言いたいことがあるなら言いなさい」
穏やかに嗜めるような緒凛の言葉に、真織は出かけた言葉を飲み込んだ。
言ったところで、かなえてもらえるはずもない。
そう思っての行為だったが、緒凛はそれに気づいたらしく、真織の顎を指先でつかみ、無理矢理自分の方へと向かせた。
「真織。言いたいことがあるなら言って」
優しく問いかける緒凛の言葉に、真織は顔をしかめた。
「――でしょ……」
「ん?」
「……家に帰りたいって、言っても……聞いてくれないでしょう?」
真織の切羽詰った言葉に、緒凛は酷く悲しげに瞳を揺らして、真織を優しく抱きしめた。
「それはできないよ真織。ごめん」
「わかってます……だって、私はアナタに買われたんだもの」
「真織――」
切なげな緒凛の言葉に、真織は胸がギュっと締め付けられた。
本当はわかっている。
この人に買われたのは事実、しかしそれは悪意よりも善意があってのことで。
緒凛の援助がなければ、自分と父親は本当に路頭に迷うことになっていたことも。
バイトをしてもバイトをしても借金返済にお金が消え、生活代もギリギリの中で生きてきた。
学校から奨学金が出ていたが、それでも間に合わないような生活だった。
だから、父が幸せならばそれでいいと思った。
けれどあの小汚くも狭い家が、酷く懐かしく思えるのは嘘じゃない。
これだけのことをしてもらっておきながら、自分の考えは贅沢なのだ。
だからせめて、自分は自分のものでありたいと願った。
そうでもしなければ、きっと自分はこのまま彼の言いなりになり、彼に甘えてしまうだろうと。
「私……バイトしてもいい?」
ポツリと漏らした真織の言葉に、緒凛は顔を上げて真織を見た。
「なぜ? ほしいものがあるなら買ってやる。バイトなんて必要ない」
緒凛の言葉に、真織は首を横に振って静かに答えた。
「私が欲しいのは自分自身です。自分をアナタから買い戻したい」
真織のハッキリとした口調に、緒凛は言葉を失ったように驚愕した表情を見せた。
それからすぐに悲しげな表情をみせ、決意の固い真織に言った。
「バイトは許さない。そのかわり、真織が俺と共に過ごす時間の代金を俺が支払おう」
「そんな――」
「真織の父親が作った借金は六千万。俺はその二倍の金額を支払ったから一億二千万円。真織、君は俺の元で住み込みのバイトをしていると思えばいい。日給百万円。百二十日で君は俺への借金を返し終える。そうしたら、俺は――真織、君を君に返してやろう」
百二十日間。
つまり四ヶ月の間はここで過ごさなければならないらしい。
それでも四ヶ月だけで自分を買い戻すことができるなら、願ってもいない申し出だ。
真織は緒凛の言葉に素直に頷くと、緒凛はようやく優しい笑みを浮かべて付け足すように言った。
「その代わり、俺は君の雇い主となるわけだから。俺の命令は絶対だ。わかったね?」
「……はい」
四ヶ月の我慢だ。
そう自分に言い聞かせ、真織は静かに頷いた。