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急展開への序章

真織は落ち込んでいた。

それは誰の目から見てもそうだと思えるほどわかりやすく。

風邪も治り、ようやく出社した真織を、皆は待ち遠しかったと喜んでくれていた。

それに答えるように真織も笑顔で接していたつもりだったのに、人の笑顔とは作って保てるものではない。

すぐに空元気と見破られ、何人もの人に「どうしたの?」と声をかけられた。

そのたびに真織は「なんでもない」と作り笑顔を返す。

自分にはそれしかできなかったし、こんなことが話せるわけがないと思ったからだ。

周囲は真織の落ち込みの原因は明らかに緒凛と関係したものだと理解していた。

真織の口から聞き出さなくとも、それは二人の様子を見ていればすぐにわかる。

真織を明らかに避けている緒凛と、何か言いたげに緒凛に視線だけを向けている真織。

いつもなら、夫婦漫才のような会話のひとつやふたつ、聞こえてきてもおかしくないのに、その状態がもう一週間以上続いている。

真織から本当の笑顔が消えた日から、会社の中はろうそくのともし火のように静まり返ってしまった。

影響とは恐ろしいものだ。

真織が会社の空気を変えているのだと誰もがわかる。

彼女が落ち込んでいるのをみてしまえば、こちらも心配になり気が滅入ってしまう。

誰もが彼女の笑顔を望んでいるのに、それが誰にもかなえられないことが酷くもどかしい。

けれどそれ以上立ち入ったことは聞けなかった。

いくら会社の人間だからとはいえ、二人にも触れられたくないプライベートというものがある。

どんな原因があるにしろ、早く仲直りして欲しいものだと誰もが願った。

二人きりになったときもそれは続いた。

マンションへ帰っても、緒凛は一言も話さないまま書斎に閉じこもり、持ち帰ってきた仕事を進める。

夕食の準備ができたと言っても、後で食べるからと言って、真織と同じ食卓につくことはなくなっていた。

なぜ、緒凛はあんなことをしたのだろうか。

そればかりが真織の心に深く渦を巻いている。

言葉の意味も、あの行為の意味も、まったくもって真織には理解できていない。

緒凛が風呂場から出て行った後、なぜだかわからないけれど涙が零れた。

苦しくて、苦しくて、緒凛を想うだけで喉が詰まるような感覚にとらわれる。

なぜ、と聞きたいのに、聞けない自分が心底なさけないとさえ思う。

ただあの時の緒凛を、不意にも怖いと思った。

何かに対して怒りを感じていて、自分はその怒りを買ったのだと感じていた。

だから聞けないままでいた。

緒凛が自分を避けているのは明らかで、真織もこれ以上緒凛に近づくことができないでいる。

何がいけなかったのだろうか。

こんなにも苦しい思いをするだなんて考えもしなかった。

真織はこみ上げてくる感情に飲み込まれ、いつもならちゃんと食べられる量の食事を目の前にして箸を置いた。

添い寝もしてくれることはなくなった。

真織が眠くなる頃に、緒凛の元へ行けば、緒凛は仕事があるからと、真織に先に寝るように言う。

真織は全てを否定された気がした。

自分がここにいることが、緒凛の気を害しているのだと悟ったのだ。

けれど契約期間はあと二ヶ月と半月ほど残っている。

ここで追い出されてしまえば、残りの借金返済はどうすればいいのだろう。

元はといえば自分は買われて来た身。

こんな想いなどあってはいけない。

相手は雇い主であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

いつのまにか自惚れていた。

自分は緒凛の一番近くに居ると、ただそれだけで緒凛の全てを理解できていると自負していた。

けれどその結果がこれだ。

あくまでもこれは仕事中なのだ。

恋などしている暇はないのに……。


「真織」


ふと名前を呼ばれて振り返れば、リビングの入り口に緒凛が立っていた。

思わず心臓を跳ね上げた真織は、戸惑いがちに緒凛を見る。

どれほどぶりに名前を呼ばれただろう。

それほど長い間呼ばれていなかったわけではないけれど、なんだか随分昔のように感じられてならない。


「済まないがベッドを借りる。一時間ほどしたら起こしてくれ」

「あ……わかりました」


真織が時計を横目に見ながら答えれば、緒凛はそれ以上何も言わずに踵を返して行ってしまう。

多分、緒凛も疲れているのだろうと、そう思わなければやっていけないと感じながら、目の前にある手の付けられたかった食事を見下ろして、ふいに涙が溢れ出した。


「ふっ……うっ……うぇっ……あぁっ……」


声を押し殺して、二階に行ってしまった緒凛に聞こえぬよう、キッチンの端へと移動する。

ここなら泣いている姿も見られないと、安堵した途端、ダムが決壊したように溢れ出す涙の量が増えた。

膝を抱え、暗いキッチンの片隅で涙を流す。


「うぅ……ぐっ……うえぇ……」


抑えても抑えても零れる嗚咽に、真織は自分の口を必死にふさいだ。

もう限界だ。

あの人の傍には居られない。

それほどまでに自分は彼を好きになって――いや、愛してしまっている。

傍に居たいといくら願っても、彼が自分を必要としないなら傍に居るべきではない。

もう自分に微笑みかけてくれることはないのだろうか。

あの大きな手の平で頭を撫でてくれる事もなくなってしまうのだろうか。

雇用期間が終わって、父の元へ帰ったとき、自分は本当にもとの生活に戻ることができるのだろうか。


「緒凛……好き……」


決して伝えられない想いを、真織はかみ締めるように呟いた。


 ◇◆◇


ゆらゆらと、世界が揺れる。

ふわりと自分の体が浮遊感に満たされて、懐かしいぬくもりと香りが自分を包み込んでいる。

ああ、多分これは緒凛だ。

そう思ってゆっくりとまぶたを開ければ、緒凛の切なげな瞳と視線が絡むのを感じた。


「緒凛……?」

「……ああ、どうした?」


緒凛が、傍に居る。

これは夢なんだ。

なんとも都合のいい、自分の妄想が夢になってしまった。

虚ろ虚ろな頭で、必死に考えれば。

夢ならば……どうせ夢ならばそれでいいと……。


「緒凛……嫌わないで……」

「……真織?」

「嫌わないで……緒凛……嫌いにならないで……ちゃんと……言うこと聞くから……何でも緒凛の言うこと聞くから……嫌わないで……緒凛……お願い……傍に居てよ……」


言葉を漏らすたびに、夢の中の緒凛が切なそうに眉を寄せる。

温かな緒凛の手が頬に触れ、慈しむように何度も撫でてくれる。


「緒凛……私ね……私……」

「……なんだ?」

「私……自分を買い戻したら……緒凛に言わなきゃいけないことがあるの……」

「言わなきゃ……いけない……こと?」

「自分を……自分に返したら……緒凛に……言わなきゃいけない……こと……」

「ああ……わかった……必ず聞こう……」


そう答えた緒凛の表情は穏やかで。

優しく微笑んでくれているのを見て、真織は自然と口元に笑みを浮かべた。

ああ、緒凛が笑っている。

夢の中だけでも……緒凛が笑っているから、今はそれで十分だ。

真織は襲い来る睡魔の力には勝てず、その瞳を静かに閉じた。


 ◇◆◇


真織が目を覚ませば、そこには緒凛の寝顔が見えた。

いつの間に自分は寝てしまっていたのだろうという気持ちと、なぜ緒凛がここに居るのだろうという気持ちが複雑に交差して、真織を覚醒させるのには十分な材料となった。

自分を抱き寄せて眠る緒凛を起こさぬよう、あたりを見渡せば、そこはいつも寝ているベッドの上で。

どうやらあのまま泣き疲れて眠ってしまったらしい事実と、それを知り緒凛がここまで運んできてくれたのだと理解したとき、あの夢が急に現実になった気がして、目を閉じたままの緒凛を見た。

相変わらず緒凛は綺麗だ。

男の人にこんな表現は失礼かもしれないけれど、この言葉しか緒凛の容姿をあらわす言葉は見つからない。

穏やかな寝息と、安らかな寝顔。

温かな緒凛のぬくもりに、真織は幸せをかみ締める。

緒凛の胸に額を寄せ、ぎゅっと緒凛のTシャツを握り締めると、緒凛の香りが真織の鼻をくすぐった。

ふと、緒凛が身動ぎしたのを感じ、真織は再び目を閉じた。

どうも緒凛の寝顔を見ていたことに気恥ずかしさが先走り、そういう行動を取ってしまうようだ。

緒凛は「んっ……」と艶のある声を漏らしながら覚醒し、腕の中に居る真織を見つめ、寝ぼけ眼を細めて笑みを浮かべる。


唇に触れたかすかなぬくもり。


それは触れるか触れないかのささやかな挨拶。


突然の出来事に、真織は身を固め、寝たふりを続けていれば、緒凛は気をよくして何度も角度を変えて真織に口付けた。


「愛している……」


小さくそう囁くと、緒凛は何事もなかったかのようにベッドから降りて部屋を後にする。

途端、真織は体を丸め、体全体が心臓になったかのようにバクバクと脈打つ音に息を潜めた。

何が起こったのかわからない。

彼は寝ている自分になんと囁いた? 

なぜ、起きている時ではないのだろうという疑問も浮かんだが、今はそれどころでない。

緒凛も……また自分と同じ気持ちで接していたのかと思えば、まるでそちらのほうが夢だったかのように思えてしまう。

頬を抓っても痛みが走り、それは夢じゃないのだと現実に呼び止められる。


――気づいてしまった。


彼もまた、自分を好きで居てくれているということを。

けれど答えることができないのは、自分が寝たふりをしていたという罪悪感があるからだ。

どうしようもなく、ただ幸せ以上のこの気持ちを、なんとたとえればいいかわからずに、真織は静かに目を閉じた。


 ◇◆◇


そこは黒澤財閥と差して変わらぬほどの豪邸だった。

一人用のソファに腰をかけ、優雅に湯気の立つお茶を飲む人影がそこにある。

アンティークの机の上に並べられている数々の写真。

それはすべて真織の姿を隠し撮ったものだ。

人影が、その中の一枚を手にとると、そこには笑顔で微笑む真織の姿が映し出されている。

ビキッと、その人影が手に持つティーカップにヒビが入った。

よほど力を入れていたらしいと、自分で自分の失態を笑いながら、その人物はカップをテーブルの上に置くと、その手で静かに写真の中の真織を撫でた。


「ようやく見つけた……あの女の娘……」


クッと気味悪く口元に弧を描きながら、慈しむようにその写真に口付けた。


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