買った相手は×××?!
到着した場所を見て、真織は今まで渦巻いていた悲しみや憤りが全て吹っ飛んだような気がした。
真織もバイト帰りに何度かこの前を通ったことがあるが、これを見るたびに、誰がこんなところに住むのだろうか、と吐き気を覚えていたのを思い出す。
そこは市の中心にある高層ビルの立ち並ぶ場所で、目の前に立つマンションは、一時期ニュースにも取り上げられた、いわゆる億ションと呼ばれるほどの高級マンションだった。
マンションの地下駐車場に車を停めたかと思えば、そこから直通のエレベータの前に立った。
黒澤が懐から取り出したカードキーを差し込めば、エレベーターが口を開く。
エレベーターの床はふかふかとした絨毯張りになっており、黒澤は先に真織を乗るように促したが、真織は思わず靴を脱いで乗りたくなった。
それでも遠慮がちに靴のまま乗り込むと、そのふかふかの絨毯が、地球の引力によって真織が乗った場所だけ静かに沈む。
恐ろしいことこの上ないなと、真織が恐縮していると、後から乗り込んできた黒澤の行動に、また驚いた。
エレベーターのドアを閉め、行き先のボタンも押さずに、黒澤はボタンとボタンの間にある小さな隙間に同じカードキーを差し込んだ。
すると、一番最上階を指すボタンの上に、新しいボタンが出てきて、そこに書かれた数字は、最上階よりさらに上の数字を指している。
黒澤はそのボタンを押すと、カードキーを当たり前のように抜き取り、背広のポケットにしまいこんだ。
隠し部屋……というのだろうか?
ボタンが表示されていないのなら誰もくることはできないだろう。
この男の元に尋ねてくる人は一体どうするのだろうか。
けれど今はそんなことを考えている暇もなく、真織は黙ったままその一連の作業を見届けて、重力に逆らって上っていくエレベーターの中でじっとしていた。
エレベーターがようやく開けば、そこはすでに玄関だった。
エレベーターが直通だなんて、正直驚きもしたが、真織は何も言わずにそこに降り立った。
玄関だけで一部屋分あるのではないかというほどの広さ。
黒い大理石張りの玄関は光沢を見せ、顔が映るほどきらびやかだ。
玄関のシャンデリアは非常に高い位置にあり、マンションだと言うのに、玄関の前にはゆるく曲がった螺旋階段。
豪華すぎるマンションの装いに、真織はめまいを覚え、足をふらつかせれば、真織の後ろに立っていた黒澤がそれを支えた。
「おい、大丈夫か?」
家で話していた時の口調とはまったく違う黒澤の口調に、真織は飛び退いて黒澤を見る。
黒澤はその反応に「大丈夫そうだな」と呟いて、靴を脱ぎ、先に部屋へと上がっていった。
真織はどうすればいいのかもわからず、玄関先でオロオロとしていれば、部屋に消えたはずの黒澤が再び顔を出して、しかめた表情を見せた。
「何してる。早く来い」
もはや命令口調の黒澤に、真織は眉間に皺を寄せて反抗したいも、何も言えないまま靴をそろえて玄関を上がる。
部屋はモダンなつくりになっていて、それはもう恐ろしいほど無駄に広く、あまり生活感の感じられない殺伐とした雰囲気にあたりを見渡した。
部屋の中央に部屋の大きさとは反比例な大きさの淡いグリーンのラグがひいてあり、そこにベージュの大きなソファーが並んでいるだけの空間。
ラグの外側になるフローリングの床は冷たさを感じられず、これが世に言う床暖房かと真織は感動しながらその感触を靴下越しに確かめる。
奥を見ると広い対面型のキッチンがあり、綺麗に並んでいる調理器具はそれなりに使い込まれているようだった。
「ここがお前と俺の家だ。カードキーは今新しく作っている最中だから、今度渡す。それまでここを出るなよ」
背広を脱ぎ捨て、それをソファーに投げ放りながら、ネクタイを緩める黒澤の言葉に、真織は「は?」と目を点にして言った。
「こ、今度っていつですか?」
「来週末辺りには届くだろう。なにしろ急だったからな」
「でも学校が――」
「休め」
有無を言わせない黒澤の言葉に、真織はむっとした表情を浮かべた。
第一、自分はまだこの男のことを何も知らない。
何をしている男なのかも、年齢も、まったく知らないし、ましてや自分を買った男だ。
信用できるはずもない。
そんな男の言うことをいちいち聞いていられるかと思い睨んでいると、黒澤は静かに真織に視線を向けて言った。
「お前を買ったのは俺だ。俺の言うことは絶対だし、命令に背くことは許さない。命令に背けば気性の激しい中年親父にでも売り飛ばしてやるからそのつもりでいろ」
「なっ――」
強引で自分勝手な言い方に、真織は言葉を失った。
「とにかく先に風呂に入って来い。俺は仕事があるから、二階の書斎に居る。階段を上って一番奥の部屋だ。何かあったら遠慮なく言え」
「ちょっと待ってよっ! 私まだここに住むとは――」
「俺の言葉を理解していなかったのか? 俺の命令は絶対だ。何も言わず素直に風呂に入れ。洋服はクローゼットの中に用意してある」
「ふざけんじゃないわよっ! 私まだアンタのこと信用していない! 第一、何も知らない男のところに連れてこられて「はい、そうですか」って聞けるもんですか!」
叫んだ勢いで、はぁはぁと息を切らす真織に、黒澤は静かに目を細めた。
それからゆっくりと真織に歩み寄ってくるが、その姿に恐怖を感じ、黒澤が近づいてくるたびに一歩一歩後ろに下がっていった。
背中に気配を感じたかと思ったら、そこには壁があり、逃げ場所がない。
そんな真織に、有無を言わずに近寄ってくる黒澤の視線に、真織は酷く怯えた。
トンッと真織の顔の横に、黒澤が手をついた。
覗き込むように、睨むように見てくる黒澤に負けじと、真織は睨み返す。
「俺を知りたいのか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべてたずねてきた黒澤の言葉に、真織はカッと顔を赤く染めた。
知りたいには知りたいが、この男の解釈は間違っている。
そういう意味で言ったわけでもないのに、真織は自分の発言を後悔した。
「教えてほしいなら教えてやる。家が不動産関係の会社を経営していて、俺はそこで専務をしている。二十八歳、未婚だ。他に聞きたいことは?」
「不動産――ちょっ、あ、アンタまさかっ! 黒澤不動産のっ!?」
黒澤の言葉に、真織は思い浮かんできた疑問を一気に投げかけた。
真織の慌てぶりに黒澤は思惑通りとでも言いたげにニヤリとほくそ笑みながら、空いている手で真織の頬を撫で、指先で顎をクイッと持ち上げて無理矢理自分の方へと視線を向けさせた。
「黒澤不動産を知っているなら、話は早い」
そう言って真織の唇を親指でそっと撫でる黒澤の笑みに、真織は体を芯から震わせた。
「黒澤財閥の長男、黒澤緒凛だ。これから仲良くしような真織」
浮かんできた疑問が肯定され、真織は言葉を失った。
黒澤財閥と言えば、日本の中でもつい数十年前に出てきたばかりの財閥。
そんな男に自分は買われたのかと、真織は再びめまいがした。
それからすぐに黒澤が言った言葉を思い返し、また驚愕することになる。
「……えっアンタ二十八歳なの?」
「アンタじゃない。緒凛だ」
「お、緒凛さん……二十八歳なんですか?」
「さん、はいらない。呼び捨てでいい。それと敬語も使うな。真織に敬語を使われるのは気味が悪い」
人の話を聞けよ。
しかも、自分に敬語を使われるのが気味悪いだなんて失礼な。
真織が恐る恐る小さく頷けば、緒凛は満足したように微笑み、それからようやく真織の質問に答えた。
「年は二十八だ。問題でも?」
特に問題はない。
が、もう少し老けているように見えた……という言葉はあえて飲み込んで。
自分と十一しか年が離れていないようには見えないなと感じながら、じーっと緒凛を見つめた。
間近で見てもやはり彼はいい男だ。
性格には問題がありすぎるが、長いまつげと綺麗に整った鼻立ち。
肌もきめ細かく、手入れがしっかりされているように感じられる。
それに比べ、自分はと言えば……と、真織は自分の容姿が酷く恥ずかしく思えて、押し黙ってしまえば、緒凛はそれを不思議に思ったのか、真織と視線を絡めて言った。
「他に知りたいことがないようなら、風呂へ入れ」
再三、風呂へ入ることを促す緒凛に、真織はむっとすれば、緒凛はその視線をニッと見つめた。
「なんだ、一人で入るのは忍びないか? だったら一緒に入るか? 服を脱がしてやろう」
「なっ、ちょっ――」
制服のボタンに手をかけてきた緒凛の行動に、真織はギョッとしてその手を払いのける。
緒凛の手はすんなりと制服から離れ、真織は両手で緒凛の胸を押すと、ようやく自分から離れてくれた。
「一人で入ります!」
「だったらさっさと入って来い。俺だって入りたいんだ。面倒なことをさせるな。風呂はあっち」
真織がようやく自分から動いたことに満足したように、緒凛が微笑みながらひとつのドアを指差した。
真織はギッと緒凛を睨みながら、勢いよくそのドアに駆け出し、すぐさまドアを開けてその中に入ると、彼の視界から逃げるように背中でドアを閉めた。