無意識の才能
「私が、なぜあのような子に惹かれているかと尋ねられましたよね? それはあの子がもつ才能に惹かれたからです。無論、それだけではありませんが」
「才能……?」
理解できないといったように彼女がつぶやけば、俺は静かに頷いて続けるように言った。
「彼女がここで働き……といってもアルバイトではありますが、この会社に出入りするようになってから二週間ほどの時間が過ぎました。アナタは?」
「え……あ、あの……二年ほどに……」
「そうですか。それで、この会社の社員の名前をどれほど覚えましたか? こちらの本社だけで二千人近く居ますが……」
俺の質問が理解できないらしく、彼女が戸惑いの色を顔に浮かべると、俺はその答えを最初からわかっていたようにふっと微笑んだ。
「彼女……真織は、この会社に勤める社員の半数以上の顔と名前が一致するそうです」
「え――?」
「ここ二週間で、彼女はそれを成し遂げたんです。多分、私よりも会社の人間には詳しいはずだ」
「そんなこと……」
できるはずがない……とでも言いたげな表情を浮かべた彼女に、俺は視線をそらしながら言い続けた。
「幼い頃から人並みならぬ苦労と努力を、彼女は重ねてきました。仕事の大切さやお金の大切さ、人と人との関わりの大切さを自らの経験で学んでいくうちに、自然と人の顔と名前を覚えるのが得意になったそうです」
それは、毎日ともに出社するたびに実感できたことだった。
俺と並んで歩いていれば、すれ違う人が上司の俺にではなく、真織に話し掛けてきたことに最初は驚いた。
「あ、真織ちゃん、この前は一緒にコンタクト探してくれてありがとう! すごく助かったよ」
「あら、橋場さん。いえ、お役に立ててよかったです。今度は無くさないでくださいよ?」
「あははっ、了解! ごめんね手伝ってもらっちゃって」
「真織ちゃん! この前相談に乗ってくれてありがとな! 女房の機嫌、あっと言う間に直ったよ」
「川上さんはおっちょこちょいですから、今度は奥さんの誕生日、忘れちゃだめですよ?」
「努力するよ」
「聞いてよ真織ちゃん! この前話してた彼! とうとう結婚決意してくれたの! もう嬉しくて! 念願の寿退社ってやつ?」
「よかったじゃないですか岸本さん! 寿退社、寂しくなりますけどおめでとうございます! 結婚式には呼んでくださいね? あ、ご祝儀は少ないかもしれませんけど」
「あっはははっ! わかった! 真織ちゃんにちょーおいしい物食べさせてあげる」
「期待してますよ」
俺の部署に着くまで、それは延々と続いた。
真織に話し掛ける人は全て笑顔で真織に接して、真織もそれに応えるように笑顔を振り撒いていく。
悪意も嫌味もない、そんな笑顔に周囲は癒されていることに気がつく。
一番驚いたのは他でもない、真織が会社に出入りするきっかけとなった受付嬢達との会話だった。
「あ、真織ちゃんおはよう」
「おはようございます織部さん。昨日の合コンどうでした?」
「もうバッチリ! 超高収入のイイ男捕まえたわ!」
「そうなの! この子ったら合コンに来てた一番いい男もってっちゃってさぁ!」
「そういう坂本さんはどうなんですか? 」
「まだまだ募集中よぉ」
「坂本さん、素敵な方ですからきっといい男性にめぐり合えますよ」
「真織ちゃんがそう言ってくれたらなんだかそんな気がしてきた!」
「あははっ、がんばってくださいね」
「もちろん!」
あれほどギスギスしていたのに、真織はあっという間に打ち解けていく。
人見知りのしない性格と、明るく気前のいい根性が、周囲を認めさせていく。
彼女を八方美人だと馬鹿にしていた人もいた。
けれど真織と接するだけで、すぐにそれが馬鹿らしい考えだったと恥ずかしく思わざるを得ない。
ここしばらく平均的な成績を保っていた人物が、いきなり営業のトップに踊り出た時は、真織効果だと納得せざるを得なかった。
仕事で失敗して落ち込んでいる相手に対し、彼女は何事もプラス思考に受け止めて社員を励ましてくれている。
一人一人というわけにはいかなくとも、少しずつ成績を上げていく同僚に対し、他の社員が負けじと体を張るのだ。
淡々と、その事実を語れば、目の前にいる彼女は唖然としたまま俺を見つめた。
「真織の人を和ませる力と認める力、潜在能力を引き出すことに関しては無意識の才能なんです。それを踏まえた上で言います」
そこで静かに言葉を切って、真織のことを考えれば。
ああ、ほら――こんなにも愛しいと思えるんだ。
「そんな彼女が傍にいて、好きにならない理由を教えてください」
きっと、今の自分は恥ずかしいほど照れたように笑っているんだろう。
もしかしたら自分の予想以上にデレデレと鼻の下を伸ばしているのかもしれない。
そんな俺を見て、彼女は唖然とした表情から、落胆、いや自分の考えが浅はかだったと気づいたのだろう。
切なげに微笑んで、立ち上がりながら静かに頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。そんな事情も知らず……酷いことを言ってしまって」
ほら、理解してくれた。
たとえ人伝いに真織のことを聞いても、真織のすごさは誰にだって理解を超えて尊敬の意思を示させる。
一皮剥けたように、穏やかに微笑んだ彼女に、俺は初めて本当の笑みを浮かべて言った。
「理解していただけて本当によかった」
◇◆◇
目の前でのんびりとお茶を飲むコイツ。
はっきり言ってしまえば馬鹿なんじゃないかと思う。
俺、一応客人よ?
それに一度しか会ったことのない、初対面から最悪な態度をとったのに、なんでこの女は平気に俺と並んで茶なんて飲んでられんだよ。
納得できないし、ありえない。
不機嫌ながら出されたお茶を飲めば、じんわりと温かなお茶のぬくもりが芯から体を温めてくれる。
むかつくけど美味い。
そう思ってしまう自分にも腹立たしさを覚え、ふと、そいつの横顔を見た。
あ、寝癖……ってか、よく見たら綺麗な顔をしているな。
長い睫毛に綺麗な瞳、さらさらと揺れる漆黒の髪も一本一本が繊細で綺麗に見える。
なんだよ……むかつくな……。
俺がじっとそいつを見ていれば、そいつは俺の視線に気づいたらしく、ふとこちらを見た。
「何? どうかしたの?」
「別に……あーあ……凛兄ってば、どうしてこんな女がいいんだろ」
わざと悪態づく俺の様子に、彼女は傷つく様子も見せずにくすくすと笑う。
「アゲハ君って本当に緒凛が好きなんだね」
なんて、当たり前なことを言うもんだから、俺はむしょうに腹が立ってペラペラと話し始めた。
「当然だろ。凛兄ほどすごい人は居ないよ。何やっても完璧で、恐れを知らないって言うか、いつも人の先頭に立ってさ。仕事では鬼のように厳しいらしいけど、俺達兄弟にはすっごい優しくて。凛兄無くして黒澤家は成り立たないよ。それがさぁ! 女の趣味だけはどうしても悪いらしくて、もう最悪」
ふんっ、と鼻を鳴らして、お前といつも一緒に居る凛兄はこんなにすごいんだぞって自慢していれば。
彼女は尊敬の眼差しを向けるどころか、呆れたような表情で俺を見た。
「ああ、なるほど……アゲハ君が……」
「は? 何だよ?」
何か言いたげに一人で納得しているそいつに、俺は自分が理解できないことがムカついて聞き返せば。
コイツ、酷く真面目な表情で俺を見ると、静かに俺を叱咤した。
「アゲハ君が甘えるから、緒凛があんなに頑張っちゃうんだ?」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
何――それどういうこと?
言葉を置き換えれば、凛兄が手を抜けないのは俺のせいだって責められている気がするんだけど。
「アゲハ君って、緒凛が少しでも自分の理解できない行動起こせば、あの時私にしたみたいに緒凛に当て付けがましいことばかりしてきたんじゃない?」
ザックリと――そう見透かされて、俺は言葉を失った。
「自分の理想で緒凛を美化して、だから緒凛はその期待に答えようとしてる」
「じゃあ何――俺が悪いって言うの? 俺が凛兄に甘えてるって?」
あ、声が震えた。
コイツ……侮ってた。
最初、凛兄の隣に並んで家族水入らずの食事会に来たときには、なんてずうずうしい奴かと思ってたけど。
まるで全てを見透かしているような発言の数々に、俺は自分が間違っていると気づき始めているのに納得できなくて。
勢いよく立ち上がり、こいつに怒鳴るように言った。
「自分の兄弟に甘えて何が悪いんだよっ!」
そうだよ、何が悪いんだよ。
凛兄だって嫌な顔ひとつせずに俺の言うことを聞いてくれている。
俺だってそんな凛兄を尊敬している。
兄弟なんだから当然だろ?
それの一体何が悪いんだよ。
そう、思っていたのに……。
コイツの次に発っした言葉に……俺は……どういい返すこともできなくなった。
「じゃあ緒凛は誰に甘えるの?」
「……え?」
「長男である緒凛は誰に甘えるのよ?」
穏やかながらも、はっきりとした口調。
それは確信をもっている、少なくとも凛兄をかなり理解していなければできない発言。
凛兄は……甘えない。
親にも、俺達兄弟にも、弱音ひとつ吐いたことなんてない。
弱音を吐く凛兄なんて想像できないから。
ありえないと思っていたのに。
なのに……なんでコイツ……。
「緒凛も人間よ? 気が弱くなる時だってある。そんな時、アゲハ君は緒凛を支えてあげられてる? 私、兄弟とかいないからわからないけど、少なくとも緒凛は家族に弱いところを見せられるほど器用な性格してないわ」
ああ畜生……。
凛兄……アンタ本当にすごいよ。
この人、最初からこういう人なんだって気づいてた凛兄をマジで尊敬する。
コイツは、人を人として見てるんだ。
黒澤財閥の息子とか、黒澤不動産専務とか、そんな肩書きなんてまったく眼中になくて、凛兄を凛兄としてみている。
そして俺も……。
この人は俺を“チョウ”と呼ばない。
アゲハなんて女っぽくて嫌だと感じていたから、その名前を呼ばれるたびに不機嫌になっていた俺を見かねて、皆が“チョウ”と呼び始めた。
それなのにこの人は最初から俺のことをアゲハと呼んだ。
俺という人間を肩書きなんて関係なしに最初から受け入れている、そんな感じだ。
悔しいよ――本当に悔しい。
なんで俺じゃないんだろ。
なんでこの人の隣に居るのが俺じゃなくて凛兄なんだよ……。
この人を先に見つけたのは俺なのに……。
最初は、学校の近くの工事現場でやけに元気に働いてる女が居るって、そんな認識ぐらいしかなかった。
けど時間をズラすと、別の場所で働いている姿を見つけて。
何? 双子? とか思った。
分身の術とか心得てんのかと本気で疑った。
ファミレス、工事現場、新聞配達、路地でのティッシュ配り、いろんなところで彼女を見るようになった。
彼女を見れば、必ず誰かが笑顔で彼女と接している。
彼女も彼女でそれを嫌な顔ひとつせずに受け答えしているのが見受けられて。
いつしか、街の中で彼女の姿を探す自分が居た。
仕事が大変そうなのに、彼女はいつも笑顔で。
嫌そうな、ダルそうな素振りなんてひとつも見せず、せっせと働いて。
特別、美人とかそういうもんじゃない。
けれど彼女は誰もが目を惹く魅力をもっている。
それを見抜いたのは俺が先だ。
俺だったら彼女をあんな忙しそうにさせない。
無理矢理にでも暇を作らせて休ませてやりたいと思っていたのに。
なんで……なんで凛兄の隣にアンタが居るんだよ……。
あの家族水入らずで過ごすはずだった食事会。
あの時アンタが凛兄に連れてこられた時、初めて俺は凛兄をずるいと思った。
人を動かす才能も、頭脳も、全てを兼ね揃えた凛兄が、俺が欲しいと思っていた彼女までもを手に入れたと知った時。
凛兄の存在が疎ましいと思ってしまった。
ずるい……ずるいよ凛兄……。
なんで……俺が最初に見つけたのに……。
先に俺が好きだと思ったのに……。
なんで彼女が凛兄の隣に居るのさ……。
悔しかった。
これほど悔しいと思ったことはなかった。
だから……だから意地悪したんだ。
彼女を馬鹿にして、彼女を怒らせれば、凛兄も目を覚まして、彼女なんてろくな女じゃないって思わせたくて……。
それなのに……それは逆効果で……。
彼女は俺の何倍もすごい奴だった。
初めて見たよ。
母さんにあんな態度とる人なんて、本当怖いもの知らず。
思っていたよりも頑固で、感じていたよりもずっとまっすぐな性格をしていて。
捻くれた自分がすごく惨めに思えた。
凛兄は言っていた。
自分は彼女に本当の気持ちを伝えてはいけないんだって。
理由はよくわからなかったけれど、凛兄は彼女を振り向かせることが目的で傍に置いているんだって。
それって俺にもまだチャンスがあるってことじゃない?
彼女はまだ凛兄のこと好きじゃないなら、俺にだって可能性はある。
そう思っていたのに……なんだよ……この人めちゃくちゃ凛兄のこと意識してんじゃん。
無意識なのかそれはわからないけれど、この人は凛兄を受け入れて、凛兄を守ろうとしている。
なんだよ……むかつくな……。
俺に入る隙間なんてありやしないじゃないか。
「ホント……ムカツク奴だよアンタ……」
俺はそう呟きながら、静かに彼女に詰め寄ると、彼女は俺のその行動に驚いて恐怖に満ちた瞳をこちらに向けてくる。
その瞳が、俺の背筋をゾクゾクさせた。
ああ、ヤバイ。
凛兄から奪い取りたくなるほど可愛い。
すっと、手を伸ばし、彼女の頬に静かに触れれば。
彼女はビクッと体を震わせて目を細めた。
「ね? 俺と遊ぼうよ――」




