愛しくて愛しくて
すごい形相で仕事をしていたら、怖いからやめてくれと椎名に半泣きになって訴えられた。
三日ぶりに出勤した今日。
まだ体調が万全でない真織に何度も謝りながら泣く泣く会社に来た。
真織が熱を出した時には本当に心配したけれど、昨夜の様子を見ている限りでは問題はなさそうだ。
大事を取って今日も休むように言ったが、言わなきゃよかったと思う。
体調は万全だからと言い張っていたのだから、たとえそれが真織の気遣いでも無理に連れて来ればよかった。
真織が熱を出して寝込んだ日。
薬が効いてぐっすりと眠っている真織を尻目に、買い物へ出た。
いつ目を覚ますかわからない真織の傍に、できるだけ居てやりたい気持ちから、普段は決して行かない近くの商店街に足を踏み入れた。
車を出すほど遠くではなかったし、商店街ってこともあって徒歩の方があっている。
そう思って商店街を歩いていたのだが、スーパー派だった俺にとって、下町人情溢れる商店街は興味のひかれるものばかりだった。
真織がここに居たら喜びそうな、安い品ばかりが並んでいて、揚げ物屋なんかコロッケを一個六十円で売っていた。
試食をすればどれも美味いときたら、これはもう買うしかない。
真織は高いものを買いすぎると、もったいないと言ってなかなか口につけない人間だ。
安い、美味いがそろっていれば、真織も気兼ねなく食べてくれるだろう。
対応してくれる店の人はどの人も愛想がよく、外見のいい自分を見てかなりオマケをしてもらった。
こんな風に過ごすのもいいなぁと思いつつも、待ち人がいることを忘れてはならないと、俺は必要なものを急いで買い揃えて帰路についた。
今度真織と来ようと胸に秘めて――。
部屋へ戻ると、玄関先に真織の姿があって驚いた。
こちらに背を向けて座り込んでいるから、気分が悪くなったのかと慌てて駆け寄れば。
心臓が跳ね上がるってこういう事を言うのか。
いつも強がって、元気で明るくて、そんな真織が泣いていた。
ポロポロと涙を流して、苦しそうに顔をゆがめて。
気分が悪くなってここに座ってたのか?
「どうした真織? どこか痛いのか?」
俺が顔色をうかがいながらそう聞けば、真織は苦しそうな表情をすっと引っ込めて。
なぜか悲しそうに、切なげに見上げるものだから。
俺は一瞬息をのんだ。
「どこ……行ってたの? 」
え? どこ――?
「どこって……買い物だけど」
俺が素直にそう答えると、少しだけ安堵したようにけれどすぐに何かを我慢するようにきゅっと口を結んで。
ああ――真織。
何をそんなに耐えているんだ……。
もっと甘えていいのに……もっと、俺を頼ってくれていいのに……もっと、もっと我侭を言ってくれてかまわない。
お前は我慢しすぎるから、本当に心配だよ。
真織の心が限界だと叫ぶ前に、お前の不安をすべて取り除いてやりたいんだ。
「メロンを買ってきたぞ。あとイチゴ。桃もある。それと、元気になれるような食べ物をいくつか買ってきてみた。何か食べたいものはあるか?」
真織の口から好きなものを聞かせて欲しい。
そう思って口を開けば、次から次へと言葉が溢れ出す。
焦っているのが自分でもわかる。
だせぇな俺――ホントにだせぇ。
真織に笑って欲しくて、すっごく必死になってる自分がいるのに笑えてしまうんだ。
なんだよ、この余裕のなさ。
本当はもっとかっこいいところを見せたいのに、どうしてこうもうまくいかないんだろう。
もどかしくて、求めて欲しくて、けれどそれを口にできない自分がむちゃくちゃ腹立つ。
「――っ、真織?!」
それはあまりにも突然に訪れた小さな幸福。
泣きじゃくっていた真織が俺にしがみつくように抱きついてきて。
こんな……こんなこと……どうすればいいのかわからなくて。
事情もわからないまま、俺はどうしようもなくただ真織の頭を撫でるしかできなくて。
「……だ……」
「ん? 」
「やだ……一人にしないで……」
息が詰まる。
何が起こったか一瞬わからなかった。
何……なんて言ったんだ?
今、真織は俺になんて言った?
――“一人にしないで”
だめだ……
……だめだよ真織……
俺はお前を喜ばせたいのに
お前が俺を喜ばせてどうするんだよ
やべぇ……どうしよう
本当にどうしようもなく嬉しい
こんな……真織を不安にさせていた俺が
不意にも……真織が俺を必要としてくれて
俺に……甘えてくれて……
愛しくて
恋しくて
可愛いこいつを
俺はたまらずに抱きしめた
「真織……」
このままではこの場で押し倒しそうだと、自分の理性を必死に働かせて、擦れた声で真織の名を呼ぶ。
静かに向けられた潤んだ瞳。
ばかっ……おまっ……それ反則。
可愛すぎるだろうが。
本当に押し倒すぞ。
そんな危ない思考を振り払うように、俺は、多分今までで一番間抜けな笑顔を見せて。
「大丈夫、ずっと傍に居るから。一人にしてごめんな?」
そう伝えれば。
真織はまた泣き出したから、本当に困った。
病気になると寂しさが倍増するとか、よく聞くけど、今の真織がそうなのかな? って思った。
この際、病気のせいでもいいや。
真織が必要としてくれるなら、俺はずっと傍に居てやる。
風邪が治って、元気な真織が戻ってきても、うざいって言われるほど傍に居てやるから。
他の女にはない甘い香り。
香水なんかの出来過ぎた匂いなんかじゃなくて、真織本来の女らしい柔らかな香り。
一体、こいつはどれだけ俺を酔わせれば気が済むんだ。
ある意味魔性。
でもそれでもいいや。
相手が真織なら、どんな魔術にだってかかってやるさ。
あーちくしょう……我慢するのって結構大変。
真織ってばすげぇな。
愛しいよ――。
「黒澤さん?」
ふと名前を呼ばれてハッとすると、目の前に座る取引相手が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「あ、すいません、少し考え事を……」
「はは、黒澤専務ほどの人でもボーっとされることがあるんですな」
はっはっはー、と笑うオヤジに、俺が愛想笑いを浮かべる。
クソ……人がいい気分に浸ってたのに現実に引き戻しやがって。
って、仕事の最中にトリップしてた俺も俺だけど。
俺がごまかすように咳払いをして、開発計画の内容を確認していれば、相手方の傍に立つ女性がチラチラとこちらを見ているのが窺えた。
「それでは、この件は以上の項目を踏まえてよろしくお願いいたしますよ」
「はい、承知しました。本当に、ご贔屓して頂きありがとうございます」
立ち上がりながら手を差し伸べてきた相手に、俺も同じように立ち上がりながらその手を握り締める。
商談成立、と言ったところで、オヤジはちらりと自分の横に立つ女性を見て、それからこっそりと耳打ちするように俺に言った。
「うちの秘書、私の実の娘なんですがね」
ニカニカと笑みを浮かべながら自分の娘自慢を始めたオヤジに、俺は嫌な予感をさせながら隣に立つ女性を見て微笑んだ。
「それはそれは、お美しく、器量のある方と存じ上げております」
「そ、そんな……」
「いやいや、娘さんは実に謙虚な方でいらっしゃいますね」
「どうですかね? これを機に娘と食事にでも行かれては。きっと気に入りますよ」
このクソオヤジ。
商談の後に自分の娘を売り込みやがった。
きっと気に入りますよと、身内の娘をかなり鼻にかけているようだ。
俺は気があるようなそぶりで、女性をなめるように見れば。
女性はほぅっと頬を紅潮させて、俺から視線をわざとそらす。
箱入り娘ってところか。
酸いも甘いも知らないような女だな。
残念ながらすぐに泣くような女は好みじゃない。
男の影に隠れてハラハラと泣く女よりも、俺は肩を並べて隣に立ってくれる女の方が好みなんだ。
けれどようやくたどり着いた商談の話を不意にされても困るからな。
「ご期待に添えず申し訳ないのですが、なにぶん仕事が忙しく暇な時間がありませんので」
俺がにっこりと笑みを浮かべながらそう伝えれば、取引相手は残念そうに、女性に関しては酷く落胆した表情を浮かべて俺を見た。
「そうですか、それではまたお暇があれば誘ってやってください。娘も喜びます」
「承知しました」
暇があれば真織と一緒に居るよ……。
内心そう付け加えながらも笑顔で二人を見つめれば、椎名がタイミングよく入ってきて二人を送りだした。
「はぁ……」
ようやく終わった。
これで帰れる、と気を緩めて自分の仕事部屋である専務室の応接用のソファに深々と腰を沈めれば。
ノックもなしにガチャリとドアが開き、俺は反射的に身を起こした。
「あ、申し訳ありません……」
って、さっきの秘書じゃん。
なんだよ……さっさと帰れって。
「いえいえ、どうかなさいましたか? 何か忘れ物でも?」
俺が乱れたスーツを直しながら立ち上がれば、女は静かに背中でドアを閉め、顔を赤らめて言った。
「あの……このようなことを……不躾で承知しておりますが……。ワタクシ……以前から黒澤専務のことをお慕いしておりまして……」
繊細で、守られたい女を演じるように謙虚な振る舞いを見せる秘書。
これが真織なら泣いて喜ぶのに、と思いながら困った表情を見せれば、彼女もすぐにそれを察知して慌てるように言った。
「よろしければワタクシとお付き合いして頂きたく――」
「申し訳ありません」
彼女が最後まで言い終わる前に、俺がそれをさえぎるように言葉を漏らせば。
彼女は驚いた顔をして俺を凝視した。
「私には心に決めた女性が居ますので」
はっきりとそう伝えると、彼女は酷く傷ついたように顔をゆがめ、目を潤ませた。
「それは……私に入る隙はないと……いうことですか?」
「ええ、残念ながら」
と、言うわけだからさっさと出て行けよ。
笑顔を崩さないままそう言えば、彼女はぎゅっと下唇をかみ締めて、わなわなと体を震わせ始めた。
「酷いことを承知で申し上げますが……あのような女性のどこがお好きなんですか?」
彼女が挑発的に漏らした言葉に、俺は少しならずか驚いた。
それはもちろん、他社の人間である彼女が真織の存在を知っていたからだ。
この会社では真織を知らないものは居ないだろう。
つまりこの会社の誰かから伝わっているということだ。
ある意味好都合なのだが、こういった女性が跡を絶たないと非常に腹が立つ。
彼女も彼女で真織に自分が勝ると言いたげな表情だ。
確かに学歴や職歴をみるとそうかもしれない。
家柄からしても大手企業の娘であるし、外交的な会社の利益的面を踏まえると、充分過ぎるほどの相手だ。
けれど真織を馬鹿にすることだけは許さない。
誰が相手だろうがそれだけは絶対だ。
俺はこみ上げてきた怒りの感情を押し込めながら、平然を装って彼女に言った。
「少し、ゆっくりお話しましょう。どうぞおかけください」
俺の意外な勧めに、彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべるも、すぐに言葉の意味を理解して、先ほど自分の父親が座っていたソファに、遠慮がちに腰をかける。
俺はそれを見届けてから、向かい合うようにソファに腰掛けると、とりあえずこの女性が真織をどう認識しているのか確認するために質問した。
「彼女をご存知なのですか?」
「はい……御社に古くからの友人が勤めておりまして……その友人からお聞きしました」
「その友人はなんと言っていました?」
「小汚い貧乏人の若い女だと……」
全部正解――でも悪いところばかりしか聞いていないようだ。
「それに私、以前こちらに書類を届けさせていただいたとき、一目だけですが彼女を拝見させて頂きました。友人が言ったことに偽りはないと感じ……黒澤専務にはあまりにも不似合いだと……」
「心遣い感謝いたしますが、不似合いかどうかは他人が決めるものではなく、自分達で決めます」
「あっ――」
遠慮がちに言ったつもりだろうが、完璧地雷を踏んだよこの人。
スパッと切り捨てるような発言をした俺に、彼女は言葉を失ったようだ。
けれどここで痴態を見せるほど俺は馬鹿じゃない。
自分を落ち着かせるように深く息を吐いて、それから改めて女性を見れば。
――俺は静かに語りだした。




