風邪の功名
「真織……おはよう」
再び眠りについた真織は、優しいその声で目を覚ました。
ベッドに腰をかけ、上半身だけを覆いかぶさるように自分を覗き込んでいる緒凛の姿を見つけ、真織は一瞬にして覚醒する。
「お、おはよう……」
自分の気持ちを自覚した途端、なんだか緒凛と顔をあわせるのが気恥ずかしくなって、赤くなる顔を隠すように、真織が口元まで布団をひっぱって答えると、緒凛はキョトンとした表情で真織を見た。
「どうした真織……顔が赤いが、熱でもあるのか?」
「な、なんでもない。今起きるよ」
「そうか」
真織が慌ててそう答えれば、緒凛は真織の上から退きながらも心配そうに見つめてくる。
それからふと、思い立ったように緒凛はベッドから立ち上がりながら真織に言った。
「そういえば、真織。お前、俺に毛布かけてくれただろう。すまなかったな。喉が渇いて起きていって、そのまま寝てしまったんだ」
申し訳なさそうにそう言った緒凛の言葉に、真織は上半身を起こしながら小さく呟いた。
「嘘つき……」
「え? 何だって?」
「なんでもない……」
真織が少しだけ不貞腐れながら言えば、緒凛は怪訝そうな表情で再び真織に歩み寄ってきた。
「どうした真織、なんだか様子がおかしいぞ?」
「そんなことないよ。ご飯の準備するから緒凛、仕事してていいよ」
そういいながら緒凛の顔もまともに見られずに、真織がベッドから立ち上がろうとすると、緒凛は真織の両肩をつかむと、そのまま真織の体をベッドに押し戻した。
「何すっ……!」
突然、額に手を当てられ、真織は言葉を失った。
それは数秒、数ミリ単位の時間ではあったが、緒凛の手が触れた額が、ジワジワと熱を帯びていく。
今までどんなに触られても感じたことのなかった恥じらいが、今になって出てきたことに、真織自身驚いた。
「やはり熱があるな」
「え? 違――」
「寒いか? 咳は? 頭痛はどうだ? 腹痛は?」
真織の言葉をさえぎって緒凛が次々と質問をしてくる。
ふと、自分の体調を改めて考えたとき、少し寒気がするとようやく自分の体調不良を感じた。
それに幾分か体がだるくも感じる。
額から手を離し、様子を見る緒凛に真織はおずおずと言った。
「少し寒いかも……」
「風邪かな? 今体温計を持ってくるからおとなしく寝ていろ」
「で、でも仕事」
「今日は休め」
それほど高熱でもなさそうなのに、と言おうとしたが、多分今の緒凛に何を言っても無駄だろう。
何がなんでも休ませようとしている緒凛の態度に、真織は素直に布団の中へと戻っていった。
◇◆◇
「馬鹿は風邪引かないって言葉知ってるか? あれってな、馬鹿は風邪引いても気づかないってことらしいぞ。それを踏まえて言ってしまえば、真織は馬鹿ってことになるんだが……」
体温計を見つめながら緒凛が淡々とそう述べると、真織はうーっとうなって布団の中から緒凛を睨んだ。
「三十八度五分、完全に風邪だな。これだけ熱が出てて本当によく気づかなかったよ」
「だって……風邪とか……病気らしい病気なんて、小学校低学年以来なってないもの……」
「健康的だったんだな」
「働き詰めだったから……風邪引いてる暇なんてなかったの」
ブツブツと真織がそうつぶやけば、緒凛は呆れながら体温計をしまい、一緒に持ってきた水の張った洗面器の中からタオルをしっかり絞って真織の額に乗せた。
タオルから来る冷たさが真織の神経をブルッと震わすも、すぐに額から熱を奪ってくれる感覚にとらわれ、ひんやりと気持ちいい。
じんわりとその冷たさを堪能していれば、緒凛は立ち上がって真織に尋ねた。
「飯は何が食いたい? 好きなものを作ってやるから必ず食え。でないと、薬が飲めないからな」
「お腹空いてない……」
「食べないなら有無言わさず病院に連れ込む。点滴か注射を打ってもらおうか」
緒凛が少し脅すようにそう言えば、真織はそれだけはご勘弁と小さく首を振る。
真織の素直な反応に、緒凛は少しだけ笑みをもらして改めて尋ねた。
「粥は? 食べられそうか?」
「うん……少しだけなら」
「食べないよりマシだ。今作ってきてやるから待ってろ」
心なしか穏やかな緒凛の声に、真織はコクッと小さく頷けば、緒凛は真織の返答を待たずに部屋を出て行った後だった。
自分が風邪を引くだなんて天変地異の前触れか。
さっき言ったように、真織はここ数年、病気らしい病気などしたことがなかった。
確かに時たま頭痛や腹痛なんかに襲われることがあっても、病院へ行ったり寝込むほどだったりはしなかったため、自分は健康的だと思い込んでいた。
父が定職についていないので、保険証もないから病院なんてそれでこそ人の倍以上は支払わなければならなくなる。
それだけは絶対避けたいと思いつづけてきたのに、この様だ。
あまりにも生活に余裕がありすぎて風邪を引いてしまった。
今までの自分だったら本当にありえないことだな、と、今の生活の欠点を見つけて、真織は深くため息をついた。
それでも、今は風邪を引いてよかったと思ってしまう。
今のままでは自分の態度が、あからさま過ぎて勘の鋭い緒凛に自分の気持ちがバレてしまうのではないかと思ったからだ。
今は熱のせいにしてしまえばそれで片がつく。
けれど熱が下がって、風邪が完璧に治ったとき、果たして自分はちゃんと緒凛と向き合うことができるだろうか。
真織はボーっとする頭でそればかりを考えていた。
「真織、できたぞ」
数分後、顔を覗かせた緒凛に反応し、真織は額に乗せたタオルを取りながら上半身を起こした。
お盆の上に小さな土鍋を乗せた緒凛の姿を確認すると、近くにあったカーディガンを袖を通さずに羽織る。
緒凛は真織に近づきながら、近くのガラステーブルを足で引きずるように引き寄せ、その上にお盆ごと土鍋を置くと、蓋を開けて真織に見せた。
「粥の作り方がわからなかったから、ご飯に水を足して煮込んだだけだが、それでよかったか?」
「それでいいよ」
「ふりかけと梅干、あと佃煮もあるけどどれがいい?」
「佃煮がいいな」
「わかった」
緒凛はそういうと、淡々と土鍋の横に乗せてきた小鉢に入った佃煮を、惜しみもなく湯気の立つお粥の中に入れる。
緒凛はそれをレンゲですくうと、ふーっと自分の息をかけて少しだけ熱を取ると、真織の口元に差し出した。
「ほら、食え」
「自分で食べられるよぉ」
「俺が食わせたいんだよ」
どういう我侭だ? と内心そう思いながら、真織はおずおずとそれを口にする。
思っていたより少し熱くて、顔をゆがめれば、緒凛は慌てるように言った。
「大丈夫か? まだ熱かったか?」
「う、うん、少しだけ。ね、やっぱり自分で食べるよ。なんだか食べにくい」
「そうか、わかった」
緒凛は面白くなさそうにお盆ごと布団のかかった真織の膝に乗せると、真織はそれを片手で抑えながらレンゲを受け取り、何度か口に運んだ。
お粥なんて誰にでも作れる料理だけれど、緒凛が作ったものはなんだか格別に思えてしまう。
そう思ってしまうあたり、自分は本当におかしくなったんじゃないかとさえ感じられる。
けれど真織はそれをあえて表情には出さず、ゆっくりのペースで食べつづけていると、それをじーっと見つめる緒凛の視線に耐えられなくなった。
「緒凛、私のことはもういいから、仕事に行く準備しなよ」
「何言ってる。病人を残して行ける訳がないだろう。今日はもう休むと連絡を入れたからそんなこと気にせず、お前は風邪を治すことだけに集中しろ」
さも当然だと言うように緒凛が言えば、真織は呆れて口に運ぼうとしていたレンゲを持つ手を止めた。
「仕事、休んだの?」
「ん? ああ」
風邪を引いたのは自分であって、幼児でもないのに仕事を休むほどのことでもない。
そこまでされる意味がわからず、真織はレンゲを土鍋のふちに置いて、緒凛を見た。
「私は別に平気だから仕事行ってきてよ。なんだか悪いわ」
「傍に居るのが俺では不満か?」
ケロリと言った緒凛の言葉に、真織は息を飲んだ。
不満など、あるはずがない――そう言いたかったけれど口には出せない自分が酷くもどかしい。
緒凛は一体どういう意味でそう言っているのかわからないけれど、それほどうれしい言葉どないのに。
素直に喜べないことが胸をぎゅっと締め付けた。
「そうじゃ……ないよ……。ただ、緒凛に風邪がうつったら大変だもの」
思考を張り巡らせ、ようやく出した答えに、緒凛は「なんだ」と呆れたような笑みを浮かべ、それから穏やかに微笑んで真織を見つめた。
「そんなこと気にしなくていい。風邪は人に移した方が早く治るんだぞ」
「緒凛に移すってこと? それでこそ嫌よ。緒凛が風邪を引いたら面倒見るのは私なんだもん」
むっとした表情で真織が言うと、緒凛は苦笑いを浮かべながら、それに答えることなく言った。
「減らず口を叩かず早く食え。それが食い終わったら薬だぞ」
なんだか話をはぐらかされた気分になり、真織は納得できないまま、言われたとおり、少し冷めたお粥を再び口に運んだ。




