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分かりにくい優しさ

懐かしい夢を見た。

それはもう顔も思い出せぬ母の夢だった。


『あらあら……真織、また泣いているの?』

『うえぇー……ままぁ……』

『真織は本当に泣き虫ね……』


呆れたように微笑む母の口元。

優しく頭を撫でる母の手に、癒しを求めていた自分。


『そうだ、真織。元気になるおまじないを掛けてあげる』

『おまじない?』

『――』


あの時の私には、母のこぼした“本当”のおまじないの言葉は難しすぎて。


『ちょっと難しかったかしら?』

『わかんにゃぃ……』

『ふふっ、じゃあ真織、これを覚えておきなさい? 元気になるおまじない。お空に浮かぶ太陽さん、今日もニコニコ嬉しいな、泣き虫こむしも泣き止んで、今日も元気に笑うのさ』

『……覚えたっ!』

『もう? 真織は物覚えが早いのね』


クスクスと笑みを漏らして、それからぎゅっと自分を抱き寄せた母のぬくもり。


『忘れないで……そのおまじないは……きっと真織を幸せにしてくれるから……大切な人だけに教えてあげるのよ?』


その時、いったいどんな表情で母がそう告げたのが、わからなかった。

その温もりは現実味を帯びていく。

重い瞼をうっすら開けば、そこには見知らぬ唇が目の前にあり、真織は少しだけ視線をあげた。

そこには静かに寝息をたてる緒凛の顔があり、真織は一瞬にして覚醒することとなる。

今まで一緒のベッドに寝ているも、緒凛の寝顔を見るのはこれが初めてだ。

いつも真織が目覚める前に、緒凛は目を覚まして仕事へ行く支度をしているか、持ち帰ってきた仕事を書斎に立てこもって片づけている。

一体この人はちゃんと寝ているのだろうかと何度思ったのかわからない。

新聞配達をしていた為、自分は人より早起きできると自負していた。

目覚まし時計がなければ起きられない真織だけれど、緒凛はその上を行く。

仕事馬鹿と言ってもおかしくはない緒凛が、自分を抱きしめたまま眠っていることほど驚くことはなかった。

緒凛の元で過ごし始めて早一ヶ月。

会社での一騒動の後、真織は緒凛の元でアルバイトを始めた。

アルバイトといっても、簡単なデーター入力の仕事をしている。

それは緒凛の元で過ごすことは別に現金支払いで給料を払ってくれるので、自由に自分のお金を使えるようになると、真織は即座にそれを受け入れ、緒凛とともに会社に出社する日々が続いている。

時給も申し分ないほどの金額をもらえているし、会社の人たちも、あの一件以来、真織に嫌味を言う人などいない。

むしろ受け入れてくれる姿勢をとる人が多く見受けられ、居心地が悪いと感じることはなかった。

今日も緒凛とともに出社する予定になっているのだが。

顔が近い……と、真織は頬を紅潮させながらも、緒凛の寝顔から視線をはずすことができないでいた。

閉じられた瞼から伸びる長い睫毛、整った顔立ちはいつもながら綺麗だ。

いつも意地悪を言う唇はうっすらと開いていて、そこから聞こえる寝息がなんとも心地よい。

サラサラと揺れる漆黒の髪からは緒凛の使う独特のシャンプーの香りがする。

自分を抱きしめる手に力こそないが、払い退けることもできないでいる。

真織の心臓が大きく跳ねた。

緒凛に対し、今まで感じたことのない異性を感じ取ったのだ。

自分は今までこんな綺麗な人と過ごしていたのか、と考えれば考えるほど、心臓は気持ちと比例するように暴走していた。

とにかく、今はこの状況を抜け出さなければ。

が、頭ではわかっていても実行に移すことができない。

真織は緒凛の仕事風景をここしばらく見てきた。

それは本当にいつ倒れてもおかしくないほど忙しそうに働いて、自分について来る部下達を失望させないようにと必死になっている様子がうかがえる。

そんなことをせずとも、部下たちは緒凛についていくだろう。

緒凛もそれをわかっているはずなのに、手を休めることができないのは、もう病気といっていいのではないか。

こんな安らかな寝顔を見せられては、起こすことができないではないか。

真織はとりあえず、緒凛が自発的に起きるのを待つことに決め、少しだけ緒凛のぬくもりを確かめるように、自分の額を緒凛の胸元に押し付けた。


「ん……」


途端、緒凛が覚醒しそうになったのを察知し、真織は思わず目を瞑った。

寝たふりをしなければ、この嫌味な人に何を言われるかわからないと思ったからなのだが。

真織がしばらく目を閉じて待っていると、自分の頭の下にあった緒凛の手が抜き取られるのを感じた。


「やべっ……」


小さくもらした緒凛の言葉に、真織はピクッと眉を動かすも、隣で上半身を起こした緒凛の気配に、目は閉じたままだ。

なんだか見られているような感覚があったが、次の瞬間、緒凛の大きな手の平が、真織の頬を優しくなでた。


「……疲れてるな俺……このまま寝ちまうなんて……」


ボソッと独り言をそう残すと、緒凛は真織に触れるのをやめて、ベッドから降りていく。

ドアの開く音がして、そのまま静かにドアが閉まった音がすると、真織はようやく目を開いて部屋の中に緒凛の姿がないのを確認して起き上がった。

緒凛のもらした言葉、あれは一体どういう意味だったのだろうか。

真織はそう考えながら、枕元に置いてある目覚ましを手に取る。

時刻は明け方の四時。

カーテンの向こう側はまだ薄暗い。

今日の出社は緒凛の出社時間と合わせて午後からの出勤だ。

もう一眠りできるけれど、なにぶん、頭が冴えてしまい、眠ることなどできないだろう。

真織はあきらめて、起きて行ったはずの緒凛を探そうと部屋を出た。

まだ夜明け前ということもあって、部屋の外も薄暗い。

シンと静まり返っているせいで、足音ひとつが響いて聞こえる。

音を立てることが、なんだか悪いことのように思え、真織は足音を立てないように、緒凛が居るであろう書斎へ向かった。

静けさに配慮して、遠慮がちにノックを二回するも、返答はない。

おずおずとドアを開けて中を確認するも、中は真っ暗闇で人の居る気配はない。

真織は明け方の空気にブルッと身を震わせながら、リビングにおりたのだろうかと推理しながら、一回寝室に戻ってカーディガンを羽織り、それから目的地であるリビングへと降りて行った。

ひたひたと、自分の足音だけがお供についてきて、真織は静かにリビングの中を覗き込んだ。

ふと、視界に入ったそれに、真織は言葉を失った。

ソファの上に、緒凛が背広だけを自分の体にかけ、寝転んでいるのが見えたからだ。

真織はそれに驚きながらも静かにリビングへ入っていくが、緒凛の起きる気配はない。

すぐ近くまで行って顔を覗き込めば、先ほどと同様、すーすーと心地よい寝息を立てながら眠っていた。


――真織はすぐに悟った。


この人は、自分がここに来てから毎晩こうやって眠っていたということを。

先ほどつぶやいた独り言はそういう意味だったのだ。


私だ――と。


添い寝してもらっていたのは緒凛ではなく、自分の方だったのだと。

親元から突然離れて見知らぬ家にやってきた自分。

一人で寝るとなれば、当然毎晩のように枕を濡らしていたかもしれない。

寂しさと温もりの欲しさに、それを奪った緒凛を憎んでいたかもしれない。

けれどこの人は自分を一人きりになどしなかった。

人は明るいうちより暗い時間帯の方が、気が滅入りやすい。

それを分かっているからこそ、この人は夜自分を一人にしなかったのだと気がつかされ、真織はひどく戸惑った。

分かりにくい……この人の優しさはなんと分かりにくいものなのだろうか、と真織は緒凛の寝顔を切なげに見つめる。

……知らないはずがない。

この人の不器用で分かりにくい優しさは今にはじまったことではないのに。

なぜ今になって実感がわいてくるのだろう、と、真織は自分の卑怯さを責めた。

最初は分かろうとしなかった。

自分を買い取った人間のことなど、分かりたいとも思っていなかったのに、今はそれが恥ずかしいことだったと思わずにはいられない。

バクバクと耳元で聞こえる自分の心音の意味。

今までこんな風に誰かを思ったことなどなかったのに。

誰かを考えるだけで胸が張り裂けそうになったことなどなかった。

誰かを思うだけでうれしい気持ちになれることなんてなかった。

知らない――この気持ちをなんと呼ぶのか。

ただ単純に、この人のそばに居たいと……。

そう思った途端、真織はこみ上げてくる感情とは裏腹に現実味を帯びた思考を張り巡らせていく。

そばに居たいだなんてなんと浅はかな考えだろう。

この人は自分を買った雇い主で、自分はただの雇われの身だ。

そんな相手にこんな気持ちになるとは、自分はなんと恥知らずなのかと。

それに、彼は黒澤財閥次期総帥。

自分はしがない平民以下の貧乏人だ。

本来ならば手の届かぬ相手なのに、この人の優しさから自分は救われている。

今までの苦労に苦労を重ねた人生が、まるでうそのように優雅な暮らしを提供してくれた。

それだけで十分ではないか。

そんな欲張りなことを考えてはいけない。

真織は自分にそう言い聞かせながらも、目の前に居る緒凛の傍を離れられないで居た。

せめて、残りのあと三ヶ月。

それだけで十分だと、真織は静かに目を閉じて、頭の中で何度も唱えた。

真織、欲張りはいけない。

今までなんだって我慢してきたじゃないか。

大丈夫、我慢は慣れている。

雇用期間が過ぎれば、またいつものようにバイトに精を出せばいい。

ふぅ、と大きくため息をつき、真織は緒凛を起こさぬよう、寝室から毛布を持ってきて、静かに寝ている緒凛にかけ、自分は再び寝室へ戻って行った。


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