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事件は会議室で起きてるんじゃない! 社食で起きてるんだ!

それから他愛もない話をしながら、目指していた社食に到着すると、そこは広々としていて、昼休みらしく人がごった返していた。

椎名に進められるがまま、真織は社食で一番安い定食を手に持って、並ぶ机の一番端に座れば、椎名はそこに向かい合うようにして座る。

外食、と言えるかどうかはわからないけれど、外で食べるのは何年ぶりだろう、と胸をときめかせながら「いただきます」と挨拶をして食べ始めると、それは手作り感の感じられるおいしいものだった。


「おいしいですね」

「そう? よかった。俺はもう社食には飽きちゃってるんだけどね」

「こんなに美味しいのに」

「ははっ、なんか真織ちゃんが食べてると何でも美味しそうに聞こえるよ」


椎名はそう言いながら自分の箸を進めていると、どこからともなく緒凛の話題が聞こえてきた。


「エー! 何それっ!」

「ホントムカつくわよっ! 汚い小娘、一人入れなかっただけで人事異動とか信じられない!」

「って言うか専務の指示通りに知らない女来たから追い払っただけなのになんで私たちが責められなきゃいけないわけっ!?」

「泣いてんのに無視して行っちゃうしさぁ!」

「最悪! っていうかさ、会社までくるその女も女よねっ!」

「どんな女だったの!? 黒澤専務の女って興味あるっ!」

「黒澤専務って、ファッションも仕事のセンスもいいのに、女の趣味は最悪! きったない格好した若い女だったわよ」

「どうせ金目当てで近づいてきたんじゃないのぉ?」

「言えてるー!」


大声で話す彼女たちの会話は、周囲にも丸聞こえで、なんだ? なんだ? と興味津々にそちらを見る人もいれば、「俺も見た!」と話題をそっちに持っていく人もいる。

その噂の根源である真織がここに居るとは知らないで、大げさに事を話している女性の群れに、真織は気づかれたくないと萎縮した。


「気にしないでいいからね?」


椎名の耳にもそれは届いたらしく、真織のことだとすばやく察知して、優しくそうつぶやいてくれる。

椎名の気遣いに感謝しながら小さく頷いて箸を進めていれば、女性たちの声が急に静かになって、不思議と真織はそちらを見た。

――ふと、視線が合ってしまった。

ヤバイッと瞬時にそう感じ、真織がすぐに向き直るも、彼女たちは真織の存在に気づいたらしく、先ほどまで張り上げていた声を、ヒソヒソ声に変えていた。


「あの小娘よ」

「えー……確かにいい趣味とは言えないわね」

「何、あの明らかに私は貧乏ですって格好」

「同情引きたいんじゃない?」

「ってかなんで社食に……しかも椎名さんと一緒に?」

「金に目がないんだもん、いろんな男に手ぇつけとかなきゃいけないんじゃない?」

「あははっ、なるほどねー」


先ほどよりも抑えられている声のトーンだが、明らかに聞こえるように言っている。

真織はただぐっとこみ上げてくる感情を押し込めて、チラリと椎名を見れば、椎名は申し訳なさそうに真織を見た。

椎名も頭の回転が速いようでよかった。

ここで無理に椎名に後ろ盾をされれば、真織への悪口はいっそう広がっていくだろう。

それに、椎名や緒凛の立場もある。

自分ひとりのためにそこまでやってもらう義理はない。

真織はこみ上げてくる感情に、食が進まなくなって静かに箸をおけば、椎名は何か言いたげに口を開こうとするも、ポケットに入れていた携帯の震えを感じて、携帯に視線を落とした。


「緒凛、こっちに向かうって」


誰にも聞こえないよう、静かに真織に告げれば、真織は力なく頷いた。

緒凛が来れば心強い。

ただその時を待って目の前にある中途半端な定食に視線を落としたときだった。


「あらぁ、あなたさっきの黒澤専務と一緒に居た子よねぇ?」


突然背後から声をかけられ、真織はビクッと体を振るわせた。

おそるおそる振り返れば、先ほどまで騒いでいた女性たちが真織を囲うようにして仁王立ちしている。

周囲の視線もほとんどがそこに集まり始めたとき、受付に居た一人が嫌味満載の笑みを浮かべて真織に言った。


「さっきはごめんなさいねぇ? 貴方があまりにも汚いものだから、てっきり頭のいかれた専務のストーカーかと思って」

「お金目当てにしてもその格好はないんじゃないかってさっき噂してたのよぉ」


そういって真織を見下すように見つめ、クスクスと笑えば、真織の周りに居る女性たちに感染していくかのように笑い声は増えていった。

それを合図のように、彼女たちは次々と、真織に中傷の言葉を浴びせていった。


「貧乏人の癖に社食で優雅にお食事なんてできるのねぇ?」

「金ヅル何人もいるんですもの。ここはさぞ最適な場所でしょうねぇ?」

「若さ武器にしてるつもりかもしれないけれど、身だしなみ整えてからにしてほしいわよね」

「一体何様のつもりか知らないけれど、貴方のような小娘が来るような場所じゃないと思うけれど?」

「無駄無駄、この子は自分が生きるのに精一杯ですもの」

「ねーその小汚い体で何人の男に抱かれたの?」


カッと顔を赤くした真織を見かねて、椎名が腰を浮かせたが、別の方向からざわつく声が聞こえ、女性たちだけではなく、真織もそちらに視線を向けた。

社食に似合わぬ風貌で、緒凛が現れたのだ。

真織は内心ほっとして、女性たちは時間切れかと顔を見合わせて真織から離れていく。

緒凛はなんだ? という表情を浮かべながら横を過ぎようとした女性たちを視線で追いながら真織に近づいてくると、その中の一人がボソリとつぶやいた。


「専務だかなんだか知らないけど自分の女連れ込むんじゃないわよ。親の七光りが」


一瞬、緒凛の目が見開かれた。


「緒凛、ごめん、堪忍袋暴発した」

「――え?」


緒凛が彼女たちに振り返ったと同時に、真織が立ち尽くす緒凛の横を通り過ぎながらそう言えば、椎名も突然のことに椅子を倒しながら立ち上がった。

勢いのある真織の手の平が最後に発言した女性の後頭部を殴りつけたのだ。


「ったーい!」


後頭部を思い切り殴られ、涙目になりながら殴られた場所を押さえながら振り返れば、周りを取り巻いていた女性たちも、いや、そこにいた誰もがギョッとした表情を浮かべて真織を見た。


「七光り! すなわちレインボー!」

『は?』

「あー、やっちまった……」


叫ぶように言った先ほどまでとは全然違う真織の態度に、女性たちは唖然とした。

ただ緒凛だけが額に手を当てて真織の行動にため息を漏らしたのだが。


「人を中傷することだけは一人前で仕事のセンスにしては半人前! 男に色目使って結婚願望丸出しにしてんのはどっちだ!」

「なっ――!」


図星を突かれたように、彼女たちが顔をカッと赤くさせて真織を睨むも、真織は負けじと睨み返して続けるように言った。

「あんたたち給料貰ってんだろっ! それならそれなりの仕事の仕方ってものがあるんじゃないのっ! お金貰ってんなら労力使え! 客の対応ひとつ満足できないアンタたちに、緒凛を悪く言う権利や義務はないっ! 何が七光りよ! 七光り大いに結構! 一個も輝いていないアンタたちに比べたら充分輝いてるじゃない!」

「な、なんですってぇっ!」

「アンタたちの言ったとおり私は貧乏人だよっ! そりゃあもう漫画で見ることしかできないような絵に描いたような貧乏人さ! 小学校低学年から知り合いの店手伝っては少ない小遣い貰って生きてきた! 金の大切さや人と人とのつながりの大切さはアンタたちよりもわかってるつもりよっ! そんな小さなことでグヂグヂ言っていられるほど私は暇なんかなかった! 文句言う前に一人前に仕事してみなさいよっ! やることやって、誰からも認められるような働きみせてから馬鹿にしなさいっ!」


息を切らしながら、自分の言いたいことを言い終えた真織の行動に、社食はシーンと静まり返り、それからポツポツと拍手の音が聞こえたかと思うと、それは社食全体を包むほど大きな喝采となった。

ところが、だ。

真織はまだ満足しないらしく、今度は緒凛に振り返って叫んだ。


「緒凛のお馬鹿!」

「今度は何だ!?」


突然、怒りの矛先を向けれ、緒凛がギョッとすると、真織は緒凛に詰め寄るようにヅカヅカと歩き出した。


「今までどういう仕事の仕方をしてたか知らないけど、部下に馬鹿にされるような上司になるんじゃないっ! 七光りって何よ!」

「辞書で調べろ」

「知るか!」

「勉強しろよ学生だろ」

「辞書持ってないもん!」

「どんだけ貧乏なんだよお前は! 大体何が言いたいんだよ」

「私だってわかんない! もう! なんで光が七つなのよ! 二色でいいじゃん!」

「知るかっ! あーもう! 電子辞書買ってやるから!」

「いらないもん! 緒凛のお馬鹿!」


大いに暴れてから、プツンと糸が切れたように、真織はボロボロと泣き出した。

困ったのは他でもない緒凛だ。

子供みたいにメソメソと泣き出した真織を、どうすればいいかわからず困った表情で真織の頭を撫でれば、真織はその優しさに触れた瞬間、声を上げて泣き始める。


「おいおい、泣くなよ。むしろ俺が泣きたいよ」

「うぇー! だってぇ! 人叩いちゃったぁ!」

「そっち? 俺に対する発言は放置か? ……謝ればいいだろ?」

「ごめんなさーい!」

「どっちに謝ってんの? ……って駄目だこりゃ。完璧壊れた」


緒凛はそう言ってため息を漏らすと、何の躊躇もなく真織をひょいと抱き上げる。

真織は突然の事に緒凛の腕の中でバタバタと泣きながら暴れ始めれば、緒凛の整えられた髪は乱れ、痺れを切らせて真織に言った。


「暴れた罰として、高級エステティックサロンのクレオパトラもご満悦フルコースの刑」


はっきりと緒凛が言えば、途端、真織はピタッと暴れるのをやめて緒凛の肩に顔を埋めて泣き続けた。


「やーだー! 豪華やだっ!」

「ハイハイ、わかったわかった」


泣きじゃくる子供をあやすように緒凛はそう言って、真織を抱きかかえたまま女性達のほうへ歩み寄る。

一瞬、ビクッと体を震わせた女性達を見て、緒凛は盛大なため息をついた。


「やってくれたな……」

「あ、あの……」


どう言えばいいかわからず、クビ覚悟で身を固めれば、緒凛は疲れた表情で女性達に言った。


「コイツ、一回キレたら止めるの大変なんだぞ。何てことしてくれたんだ……」

「――へ?」


緒凛の言葉があまりにも意外で、女性だけでなく、周りの人たちも唖然とする。


「今見たとおり、コイツは人の金で豪遊するのを一番嫌ってるんだ。地位も名誉も人の稼いだ金にだって興味のない女だから手に入れるのを苦労した。そこだけは理解してくれ」

「……はぁ」


なんだか納得いくようないかないようなそんな表情で女性達が答えれば、真織はグジグジと鼻をすすりながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を女性に向けた。


「叩いてごめんなさい……」

「あ……わ、私達も……その、何の事情も知らないのに酷いこと言ってごめんなさい……」


真織の素直な謝罪に、受付の女性も勢いで素直に謝れば、真織はにへっと力の抜ける笑みを浮かべて涙を拭った。

その笑顔に、女性達は頬を染めた。

なんと自分達は浅はかだったのだろうか。

この子はまっすぐで、嘘ひとつ言わなかった。

それなのに自分達の発言はあまりにも幼稚で……。

思い知らされた。

この子がどれほど凄い子かを。

あの黒澤専務を唯一落とした子だと認めざるを得ない。

緒凛は真織を抱きかかえたままそのやり取りを見ていると、静かに女性達に告げた。


「私も自分の地位を利用して君達を叱咤したことに反省しなければならない。不愉快な思いをさせてしまって申し訳ない。引き続き、自分達の仕事に専念してくれるか?」


まっすぐに、穏やかにそう言った緒凛の言葉に、女性達は顔を見合わせて深く二人にお辞儀した。


「真織、帰るか?」

「やだっ! まだ定食食べてないっ!」

「お前まだ食うつもりか?」

「ご飯残すの駄目っ!」

「その状況で飯が食えるのか?」

「うえぇー!」

「何でまた泣く?」


再び泣き出した真織をあやしていると――数秒後には心地のいい寝息が聞こえてきた。


「……こんの……お嬢さんは……」

「……寝てしまいましたね」


歩み寄ってきた椎名が呆れながらそう言えば、緒凛は力の抜けてしまった真織を抱えなおし、椎名に食事の片づけを頼むと、人だかりの中を掻き分けるように社食を後にした。

社食に残された社員達はざわめいた。


「なんか……黒澤専務っていつもムッツリしてるからとっつきにくい人だと思ってたけど」

「案外、面白い人だな」

「あの子すごい子だったよな。さすが黒澤専務の女って言うか……」

「只者じゃないよな」

「身なりはアレだけど、結構可愛くないか?」

「あ、俺も思った」

「結構面白い組み合わせじゃね?」

「ぶっ! 確かに!」

「ぎゃははっ!」


そんな空間を見て、椎名だけは穏やかに微笑んでいる。

少しずつ――確実に何かが変わり始めている。

今はまだわからないけれど。

きっと明日は、いつもと違う明日になるだろう。

そんな期待を胸に秘めた。


 ◇◆◇


仕事が終わり、帰宅した緒凛は、いまだに眠り続けている真織をベッドに運び終わると、ようやく肩の荷が下りたと首を回した。

穏やかに寝息を立てる真織を見て、緒凛は小さく微笑む。

仕事の疲れなんて、この愛らしい寝顔を見ていたらふっとんでしまう。

現金かもしれないけれど、そう思ってしまうのだから仕方がない。

後で椎名から聞いた話だ。

真織はどれだけ自分の悪口を言われても耐えに耐えていた。

けれど緒凛の悪口を言われた途端、彼女の怒りが爆発したのだ。

それは、やはり期待してもいいのだろうか? 

彼女の中で、確実に自分の存在が大きくなっていることを喜んでいいものだろうか。

規律正しい呼吸を繰り返す真織に、額を寄せて抱きすくめる。

こんな風に甘えてくれることはあと何回あるだろう。

甘えて、甘えて、自分しか頼らなくなればいいと思う。

そうすれば自分だって、甘えに甘やかして、何もかも自由にさせてやりたい。

会社に呼び寄せたのも、ただ単純に自分が会いたかっただけかもしれない。

人前に晒すなんてこと、本当はしたくなかった。


見せびらかしたい優越感。


閉じ込めておきたい独占欲。


そのふたつの思いが緒凛の心の中で複雑に絡み合い、堕ちていく。

もう自分はとっくに真織に夢中だというのに。

早く彼女の心を自分一杯に満たしたい。

思いを告げることが許されないのなら。

せめて眠り深く、彼女の心に届かぬように。


「愛してる真織……誰よりも……誰よりもお前を愛してる」


全てを自分のモノに。


「愛してるよ真織……お前が俺の全てだ……」


触れる指先から、幸せをかみ締めて、緒凛はゆっくりと真織から離れた。

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