このおっさんどうにかなりませんか?
「むーっ! 快晴! 暖冬最高!」
ベランダで大きく背伸びをしながら、揺らめく洗濯物を見つめつつ真織は言った。
緒凛の元へ来て早くも二週間が過ぎた。
最初は一日一日があまりにも長く、億劫だった生活も、今はやることが多くて助かっている。
洗濯、掃除、食事作りと家事全般を滞りなく行い、退屈な時は買ってもらったパソコンでテレビを見たり、ネットサーフィンをしたりして楽しんでいる。
本当はパソコンだなんて豪華なものは要らないと言っていたのに、退屈しのぎにはなるだろうと緒凛が人の意見も聞かずに買ってきてくれた。
今出ているもので最新型のパソコンを購入したと聞いたときは失神する勢いで、学校のパソコンに比べて最初こそ扱いにくかったものの、今となってはタッチタイピングができるまでに成長していた。
どんなことであろうと徹底的に学ぼうとする自分の姿勢が涙ぐましいとさえ思う。
その姿勢がよかったのか、緒凛は時々、真織に書類作成を頼むようになり、真織も真織で緒凛の仕事を手伝えることに充実感を覚えていた。
学校は相変わらず行っていない。
どうやら真織の知らぬうちに休学届けが提出されていたのだ。
それもちゃっかり四ヶ月間。
緒凛は最初から最後まで真織をここに閉じ込めておくつもりらしい。
かといって、まったく外出をしないわけではない。
食事の買い物も必要だし、いくらインターネットが普及してる世の中でも、エリンギ一個、モヤシ一袋で配達を頼むのはかなり忍びない。
そういう時は外出をするのだが、外出は必ず緒凛がついて来る。
逃げ出さないといくら約束しても聞かないので、それは諦めているのだが。
信用されていないのかと思うと少し悔しいが、それもまあ仕方ない。
緒凛と出かけるのは嫌ではないし、むしろ一人で出かけるよりも数倍は楽しい。
緒凛のセクハラ的態度はどこへ行っても健在だが、慣れてしまった自分にも泣きたい気分になる。
けれどそれほどひどいことをされているわけでもないから、そうなってしまっても仕方ないとも思ってしまうのだが。
緒凛は体の関係を求めてきたりはしない。
抱きついたり、頬や額にキスをしてくることはあっても、唇にキスされたことはないし、真織が嫌がるようなところを触ることはない。
いや、実際嫌でも太ももを撫で回してくることはあるのだが。
二週間の間で、緒凛の生活がどのように進んでいるかを理解できた。
出勤時間は曖昧で、午後からのんびり出社するときもあれば、早朝から出て行く時もあり、帰宅時間もバラバラだ。
フレックスタイム制なのかと尋ねたら曖昧な返事をされたあたり、多分本当に曖昧なのだろうなと察知した。
これもまた強制的に持たされたものではあるが、携帯電話にマメに連絡を入れてくれるので、真織も食事を作るときなどは助かっている。
まるで新婚生活だな、と真織は思った――と同時に嫌悪感を感じ、新婚生活の予行練習だと考え直した。
そんな充実した生活の中でも、ふと感じることがある。
なんとなく物足りないのは父の事もあるのだろうが、もうひとつ、真織には欠かせない物があった。
それは材料がなければどうしようもないし、場所も場所だからどうもできない。
本当は自分で材料を買い揃えてやりたいのだが、真織は無一文だ。
かと言って、緒凛におねだりするのはどうも気が引ける。
これだけはどうしようもないなと諦めてため息をつきながら洗濯籠を持って部屋の中に入り、次の洗濯物の準備をしようと一階へ降りて行った時のことだった。
「ただいま」
「おじゃましまーす」
同時に二つの声が聞こえ、真織は慌てて玄関へと顔を出した。
「おかえりなさい……と、高本君?」
「やぁ二宮。お邪魔します」
スーツ姿の緒凛の後ろに、緒凛の実弟である茅の姿があったのだ。
真織はえ? と一瞬戸惑い窓の外を見るが、まだ外は明るい。
洗濯物を干したばかりだから間違いではないと気づき、それから笑顔を向けてくる高本を見た。
「今日、学校は?」
「今日はテスト前だから休み」
「あ、そっか。もうテスト……」
真織がポツリとつぶやいて、それから横を通り過ぎようとした緒凛に、真織は慌てて声をかけた。
「緒凛は、仕事どうしたの?」
「だるいから今日はやめてきた」
「……そんなことでいいのか社会人」
「いいんだよ。俺偉いから」
「うわ、否定できないところが腹立たしい」
「惚れた?」
「さっぱり」
「こりゃ手強いな」
「褒めて頂き光栄ですわ閣下」
「じゃじゃ馬なお姫様には手が焼けるよ、まったく」
ネクタイを緩めながら緒凛がため息交じりそう言えば、真織は真っ向からフンッと鼻を鳴らして勝ち誇ったような表情を見せた。
それを見ていた茅は、クスクスと笑いながら自分のカバンを探り、紙束を真織に手渡した。
「これ、二週間分の授業内容と、配られたプリント類」
「わざわざありがとう。すごく助かる」
そういってそれを受け取りながら三人はリビングへ行くと、茅と緒凛は向かい合うようにソファに座り、真織は立ったまま静かに二人にたずねた。
「何飲む?」
「紅茶、ミルクたくさん入れて」
「じゃあ俺も。俺はストレートで」
「了解」
真織がそういってテーブルにさっき受け取ったばかりのプリントの束を置くと、キッチンのほうへと消えていく。
それを見送った後、茅はやんわりとほほ笑みながら緒凛に言った。
「なんか聞いていた以上にしっかりしてるみたいでよかったよ。兄さん変なことしていない?」
「否定しきれるほど自信はない」
「うわ……兄さんらしいと言えばいいか……」
「学校はどうだ?」
「二宮のこと? それなら大丈夫みたいだよ。最初こそはクラスがバラバラで困ってたけど」
「……どういうことだ?」
「二宮が中心だったんだようちのクラス。クラス役員ってわけじゃないけれど、二宮あの性格だし、なんでもかんでもしっかりしているから、好かれやすいんだ。まあそれを気に食わない人も中には居るけれど、二宮に助けられている部分がほとんどだったから、最初は結構戸惑っていたけれど、今はなんとかやってる感じ」
「そうか」
茅の言葉に、緒凛は安堵の表情を浮かべた。
安心したというよりも嬉しそうな表情に、茅はすっと目を細めてほほ笑む。
「二宮、実はすっごいモテるから、休学届けを出したって聞いたとき、何人の男子生徒が落胆したことか」
「モテるだって? 初めて聞いたよ」
「本人は気づいてないもの。自分が人より綺麗だって事も。好かれているって事も」
「それは確かにあるな」
「なんていうかな。飾り気のない美しさって本当にあるんだって二宮見て思ったね」
「お前にしては珍しくキザな台詞だな」
「茶化さないでよ兄さん。ただ二宮、自分のことに関してはかなり鈍感だよ? 兄さんに落とせるかな?」
「落としてみせるさ。何がなんでもな」
ふっ、と余裕のある笑みを浮かべた緒凛に、茅はクスクスと笑った。
「何? 楽しそうだね?」
お盆に湯気の昇る紅茶のカップを持って現れた真織がそう尋ねると、茅は差し出されたカップを受け取り、感謝の言葉を述べながら真織を見上げる。
真織は「どういたしまして」と笑顔で答えながら、緒凛にもうひとつを渡せば、緒凛も無表情ながらにそれを受け取って感謝を述べた。
「ああ、そうだ二宮。二宮に作ってほしいものがあるんだけれど」
「え?」
紅茶を淹れ終え、真織も会話に参加するかのように緒凛との間を空けてソファに座れば、茅が思い出したように真織に言った。
「二宮お得意のオーダーメイド。頼めない?」
「あ、えっと……」
茅の言葉に、真織が戸惑っていれば、緒凛はなんだ? と言ったように真織と茅を交互に見た。
それを見た茅は「え?」という表情をし、困り果てている真織をみて、ようやく理解したように眉をひそめて緒凛を見た。
「兄さん……二宮にさせてないの? いくらなんでもそれは過保護過ぎだよ。確かに火を使って危ないかもしれないけど……でもそれくらい……」
「ちょっと待て。何のことだ?」
「……え? 知らないの? 二宮、シルバーアクセサリー職人なんだよ?」
「何だって?」
「耳遠くなったみたいだね兄さん。だからシールーバーアークーセ――」
「年寄り扱いするな馬鹿者。そう言う意味で聞き返したわけじゃない」
「冗談だよ。というか、本当に知らなかったんだ?」
「誰かさんが教えてくれないものでな」
まさに寝耳に水といったように、緒凛が睨むように真織を見れば、真織は萎縮して持っていたお盆で口元を隠した。
「その……材料がないから……」
「それならなぜ言わないんだ。いくらでも買ってやるのに」
「でも……」
「また金の話か?」
緒凛が鋭い口調でそういえば、真織は申し訳なさそうに小さく頷いた。
事実、茅の言っていることは嘘じゃない。
真織はそこらでは知れたオーダーメイドのシルバーアクセサリー職人だ。
それでこそ指輪やネックレスのトップくらいのものしか作れないけれど、人の顔を見てその人にあったデザインを施した真織の手作りシルバーアクセサリーは人気があった。
シルバーアクセサリーの材料はかなり高価でお金もかかるため、さすがにタダで提供するわけにはいかない。
それで生計を立てていたときもあったくらいだから、真織にとって今の生活に物足りないのはまさしくそれだった。
「買ってやる」
「駄目です」
緒凛が静かに申し出れば、真織も即座に遠慮する。
むっとした表情を見せた緒凛の表情がおかしかったらしく、茅がクスクスと笑えば、緒凛は不愉快そうに茅を見た。
「じゃあさ、俺の作るついでに兄さんにも何か作ってあげたら?」
茅が助け舟を出すように言えば、真織は申し訳なさそうにおずおずと緒凛を見た。
「真織の手製か……。俺もひとつ作ってもらおうかな。それなら買ってやっても文句はないだろう?」
「はいっ」
緒凛の言葉に真織はぱっと表情を明るくさせ、それを見た緒凛は優しくほほ笑んだ。
「それで、あの……。道具……学校に置いてあるんだけど……取って来ていい?」
「学校に? 材料買うのと一緒に買えばいいじゃないか」
「使い慣れたものの方がいいものが作れるし、あるものをわざわざ買うのは忍びないよ……」
もごもごと真織が申し訳なさそうに言えば、緒凛は諦めたようにため息をつき、茅をチラリと盗み見した。
茅は緒凛の視線に何かを感じたらしく、深くため息を吐くと、降参したように両手を挙げた。
「わかったよ。俺が付き添う。但しテスト終わってからで構わない? 俺だって忙しいんだ」
「それで構わないさ」
「私そんなに信用ない?」
緒凛が茅に自分の見張りをお願いしたのだと思った真織は、膨れながらそういえば、緒凛と茅は慌てた様子で言った。
「そうじゃなくて、休学届を出しているのに学校へ行くのは可笑しいことだろ? 二宮は誰かに何か聞かれたらどう答えるわけ? 男の家に住み込みでバイトしてますって正直に言える? 何らかの理由付けしなきゃいけなくなるから俺がフォロー役に回るってこと。信用していないとかそういうわけじゃないから」
茅の答えに、真織はようやく納得し、それから自分の考えがあまりにも幼稚で浅はかだったと顔を赤らめた。




