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GOING UNDER  作者: 古蔦瑠璃
8/17

-8-

 リビングに移ろうよという真由子の言葉に従って、2人は階段を降りて、居間のカウンターテーブルに移動した。

 いつのまにか戻ってきていたパパが、車のキーを片手に、もう一度上着に袖を通そうとしているところだった。何処に行くのかを真由子に見咎められたパパは、母さんから電話があったから駅まで迎えに行くと答えて出て行った。パラパラと雨が降り始めていた。

 真由子は美奈子のためにホットココアを入れてくれて、自分のためにはドライベルモットとワインを使った自家製カクテルをつくって、美奈子の隣に腰をおろした。


 真由子の高校時代の話というのは意外にヘヴィなもので、当時桜井知明とつきあっていた女の子が妊娠したというものだった。そこまでは、よくあるとまでは言わないが、まったく聞いたことのないような話でもない。

 高2の夏休みの半ば頃、電車で30分ほども離れたところに住んでいる同じクラスの男子生徒がふらりと真由子を訪ねてきた。彼は、見知らぬ小柄な少女を連れていて、それが当の彼女だった。

 近くの喫茶店にでも、と誘われたが、2人の様子がなんとなく深刻そうだったので、真由子は彼らを半ば強引に部屋に上げた。

 少女は真由子たちと同学年で、知明と同じ中学の出身だったが、今は違う高校に通っているということだった。2月ほど前、模試会場で知明と少女は偶然再会して、詳しいいきさつは聞かなかったけれども、とにかく2人はつきあい始めた。


 高校1年のとき知明と同じクラスだった真由子だが、知明は真由子にとって、どちらかというと苦手なタイプだった。頭脳明晰でクールな優等生のイメージの陰にある知明の不遜さや傲慢さが、真由子は気に障ってしかたがなかったのだ。

 途中で家が隣同士になったこともあって、病欠などの際に必要事項を連絡しあったりプリントを届けたりという役割を担わされていたが、電話を掛けるたびに尋問口調で報告を要求する知明の母親も苦手だったし、必要最低限の用事以外でかかわりたいと思ったことなどなかった。

 知明は女子の間ではそこそこ人気があった。バレンタインには同級生ばかりでなく上級生がわざわざチョコを渡しに来た。しかし知明は、誰が来てもチョコを突っ返していた。それがどんなに可愛い子でも、美人の先輩でも、彼には関係ないらしかった。


 バレンタインすら歯牙にもかけなかった彼が、どうやってその少女とつきあい始めたのかは知らない。知らないというより想像もつかなかった。以前から憧れていた彼に猛アタックしたのが少女の方で、知明は何のきまぐれだかそれに乗っただけ。想像するに、そんなところだろうか。

 少女の話では、知明の月曜日から金曜日までのスケジュールはびっしり決まっていて、つきあいはじめてからも少女のために予定を変更する気などみじんもなく、少女の方が彼の都合に合わせて行動する日々だったという。

 そして、大きな喧嘩になったのが夏休みの数日前。少女は、妙に苛立った様子の知明に、夏休みの間は会えないと一方的に告げられた。忙しいから秋まで会えない。多分、電話もできない。きちんとした理由もわからぬまま、自由な時間がとれないからと説明されて、納得できない少女はこれまでの不満をぶちまけ、そのまま喧嘩別れになった。


 生理がひどく遅れているのに気づいたのは、8月になったばかりの頃だった。慌てた少女は友人に相談し、薬局で買ってきた薬で妊娠を確かめた。

 友人は、信頼できる何人かに電話を掛けたりしてカンパを募ってくれる一方で、知明とも連絡をとるべきだと言った。高校生同士で将来のこともあるし、まさか産んで育てるってわけにはいかないだろうけれども、知明には事後報告ではなく知らせておくべきだと思ったからだ。

 当時知明は携帯を持っていなかったため、電話は自宅に掛けるほかなかったが、知明とつきあっていた少女は、彼女の方からは絶対に電話を掛けてくるなと普段から言われていた。おふくろが尋常じゃないぐらいやかましいから、電話されるとややこしいことになる。

 なにそれ。信じられない。だってそんなこと言ってる場合じゃないじゃん。


 それに、喧嘩してもう別れちゃったんだしと、尻込みして電話できない彼女の代わりに、まずは友人が電話を掛けた。

 電話口に出た知明の母親は切り口上で、用件はなんでしょう、と聞いてきた。本人に直接言いますから代わってくださいと言うと、親に言えないことかと聞き返された。ええ、本人にでないと言えません。親に言えないような話をするのなら、取り次げないわ、まず、用件をお言いなさい。プライバシーに関する問題ですから言えません。言えないのなら取り次げないわ。一体何の用件?

 押し問答になった。らちがあかない。

 代わって別の友人が電話を掛けたが、同じだった。誰が何ていって電話しても取り次いでくれない。借りていた本を返したいから、なんて用件をでっち上げて掛けてみても、知明に聞いておきますから、なんて言われて切られてしまう。


 彼女たちは考えた末、少女と同じ中学の出身で今は知明と同じ高校に通っている男子生徒の中から信用できそうな相手を選び、事情を説明して、代わりに桜井の家に電話を掛けてもらうように頼んだ。みんなで交互に電話して取り次いでもらおうとして、ということを繰り返していたためか、知明の母親は警戒心を強めてしまったらしく、同じ高校の男子生徒の電話に対しても、用件をしつこく問いただしてきた。打ち合わせどおり彼が、気分転換に映画でも誘おうと思って、と説明したら、塾があるからと断られ、その場で電話を切られた。

 とにかく直接本人にコンタクトをとることができない。もういい、手術はもうあさっての予定だし、とあきらめ顔の少女を半ば引きずるようにして、その男子生徒は真由子を訪ねてきたのだった。


「いいよ。協力しても。けど、ちゃんと避妊しなきゃだめじゃん」

 多分友人らにも散々言われてきただろう言葉を真由子が口にすると、少女は黙ってうつむいた。

 付き添ってきた少年が言う。

「それ、桜井にも言ってやってくれ」

「安全日だって、あたしが言ったの。だから」

 消え入りそうな声で少女は答えた。

「ねえ、やっぱりいい、あたし帰る。知明には言わないで。怒られる。嫌われる。うっとうしいって言われる」

「よくねえだろっ!」

 少年が怒鳴って、少女は身を竦めた。


 その日から、隣家であることを利用して、出かける知明をストーカーよろしく真由子は待ち伏せた。しかし、進学塾の夏季集中講座に通うときも、参考書を買いに本屋に行くときも、いちいち母親が送り迎えしている様子で、1人でいる知明をつかまえることはできない。

  自由な時間がないから、と彼女に説明した知明の言葉の意味はこういうことだったかと、さすがに呆れた。


 桜井家は食料や日用品も宅配業者に頼んでいるらしく、知明の母親はめったに買い物に出ない。

 それでも1日中見張っていると、ちょっとした用事で出かけていくこともある。張り込みを頼まれてから3日目に、母親の運転する赤のアウディが妹の琴子だけを乗せて車庫を出て行くのを見届けて、真由子は電話を掛けてみた。留守番電話になっていた。玄関に回ってインターホンを鳴らしてみたが、やはり出ない。

 きょうが手術の日だと聞いていたので真由子は意を決し、表の庭に回って、雨戸を拳でガンガン叩いた。耳障りな音があたりに響いたが、構わずガンガンやっていたら、やっと知明は顔を覗かせた。

 チャイムを鳴らしたのになんで出ないのよ、と文句を言う真由子に、何の用だ、と知明はそっけなく返したが、説明を聞いて彼は顔色を変えた。


 病院の場所を聞き、駆けつけようとする知明に真由子がついていくつもりでいたら、家に戻ってシカトしててくれ、と頼まれた。

「おふくろが問い合わせてきても知らぬ存ぜぬで通せよ。あんたが巻き込まれる問題じゃない」

「そんなこと言ったって、いきなりいなくなったら家族は捜すでしょ? しらばっくれろっていうわけ?」

「家族にはあとでおれから電話を入れる。説明も自分でする。あんたは何も言うな」

 相変わらずの傲岸不遜な態度にむかっ腹が立ったが、知らせてくれて感謝する、と言い添えられ、少し気が治まった。


 そのあとの経緯については、少女を連れて訪ねてきた男子生徒が電話で教えてくれた。

 知明は手術には間に合わなかったが、術後彼女と面会し、夕方の退院に付き添って、あらかじめ外泊すると決めていた女友達の家に送っていった。

 揉め事はその友達の家で起こった。


 昼間、母親が戻ってくるころあいを見計らって、知明は家に連絡したらしい。きょう中に帰るから。帰ってから説明するから。そう告げた知明に、母親は食い下がった。どこにいるの? 帰ってらっしゃい。言えないの? どうして? 勝手なことして。帰らないのなら、今から迎えに行くわ。あなたがどこに行ったのか、ママ、知ってるんですからね。

 迎えになんか来るな。自分で帰る。そう言って知明は電話を切ったが、送っていった友達の家に、母親は先回りして待っていた。母親は少女の実家に問い合わせて、ここの場所を聞いたらしかった。家人のいないその家に友達が鍵を開けて入ると、母親は玄関の内側まで強引についてきた。

 知明ちゃん、帰るわよ。あなた、受験生なのよ。こんなところでフラフラしてていいと思ってるの? それにママ言ったでしょ。あなた、その子にだまされてるんだから。その子、援助交際してたのよ。写真見せたでしょ? あなたとつきあい始めた5月頃にもまだ、その相手と会っていたんだから。興信所の人が、そう報告してきたのよ。


 知明、あたし、援助交際なんてしてない。玄関で立ちすくんだ少女が、悲鳴のような声をしぼり出した。

 なら、これはどう説明するの? 母親はバックを開けて写真の入った封筒を取り出す。少女がサラリーマン風の男と肩を組んで笑いあっている写真。ホテルのロビーらしきところに座ってお茶を飲んでいる写真。遊園地とおぼしき場所で、一緒にアイスクリームを食べている写真……。

 少女に突き出された写真を、知明は横から無造作にひったくると、母親に突き返す。今はそんな話をしてる場合じゃないんだ。帰ってくれ。

 帰るのはあなたよ。ママ、言ったでしょ。知明ちゃんがその子とつきあうのをやめないのなら、この写真をその子のうちの人に見せて、知明がこの子にだまされているから、何とかしてくれって言うわよ。

 勝手な真似をするなという知明に、母親は言葉を返す。勝手な真似をしているのは、あなたの方でしょう。


 そして、母親は少女の方に向き直る。いいこと、知明はあなたみたいなふしだらな子とつきあっていいような子じゃないんですからね。もう、金輪際近寄らないでいただきたいわ。

 目を見開いた少女に、母親は次々に酷い言葉を浴びせはじめる。

 待ってくれ、おれ、彼女を妊娠させてしまったんだ。きょうは手術して帰ってきたところなんだ。休養が必要なんだ。だから帰ってくれよ。罵詈雑言をさえぎるように投げかけた知明の告白にも、母親は動じない。

 引きつったような笑いを浮かべ、少女をねめつけて、ひどく冷たい調子で返す。

 ふうん、そう。そうなの。なるほどね。そんな子とつきあってたら、どうせそんなことになるんじゃないかとママは思ってたわ。だからおよしなさいってあれほど言ったのに。でも、それだって本当は相手があなたかどうかわかったもんじゃないのよ。お家の人にわからないように、友達のところに泊まる計画を立ててたんでしょ。その子はこういう状況に慣れてるってことなのよ。大体、わけも聞かずにそんなに簡単に外泊を許すなんて、親御さんもいいかげんだと思うわ。きちんとしたおうちじゃないってことよ。


 泣き出した少女の肩を抱いて、友達は家の玄関に座らせる。彼女は小さな声で少女にささやく。先に中、入ってなよ。こんなおばさんの話なんて聞くことないから。

 それまで呆然とことの経過を眺めているしかなかった真由子のクラスメートは、そこでやっと我に返ったのだという。

 おばさん、そりゃ、あんまり一方的な言いぐさじゃない? こういうことって男の方も悪いんだよ。第一桜井ちゃんが、自分に責任があるって認めてんだよ。あんたが往生際悪いこと言っても仕方ねえだろ。

 ちょっと一言口をはさんだだけで、百語ぐらいの罵詈雑言になって戻ってきた。

 知明にも責任があるですって? 知明はだまされているのに? いいかげんにしてほしいわ。それに、どうしてその子の肩を持つのかしら? あなたもその子にだまされてるんじゃないの? そもそもしっかりしたお嬢さんなら、どんな誘惑があっても自分ではねのけるだけの芯を持っているはずよ。

 そして、攻撃の矛先は、その友人にも向かう。こんな態度の悪い柄の悪い生徒が同じS高に通っているなんて信じられないとか、友達を選ばないと知明もこんなに柄が悪くなったら困るだとか、大人に隠れての隠蔽工作に一役かってるなんてどうかと思うとか。


「全くよく口が回るもんだと、最後にはぽかんとして聞いてたんだけどな」

 電話の向こうで彼は、最後にそう括った。

「とにかくすげーおっかねー、うぜーおばはんだよな、桜井のおふくろってのは」

「写真を持ってたってのが、すごいね」

「探偵を雇って撮らせたらしいや」

「ほんとにエンコーだったの?」

「いや、違う。少なくとも彼女は違うって言ってた。以前つきあってた相手らしいんだけどさ、んなこと当事者でもないのに聞けないし」

「桜井くんはなんて?」

「さあ。いくら桜井が帰れって言っても、おばはん1人では帰りそうもなかったし、とにかくもう、おばはんを連れて帰ってくれって、桜井ごと追い返したんだ。それから連絡取れてないし。連絡方法ないし」

 彼は溜息をついて、言い加える。

「桜井もさ、オヤがあんなでキレたりなんかせず、よく平静でいられるよな。おれ、あいつもよくわかんねーや」


 後日談だが、知明と少女はやはり別れたそうだ。

 知明の母親が慰謝料だか手切れ金だかを手に少女の家に現れ、息子に2度とちょっかいを出すな、出せばこちらにも考えがある、と脅しともとれるセリフを口にしたため、少女の父親が、そんなのこっちが願い下げだと言い返し、一触即発の状態になったが、少女の母親が子供たちの将来を一番に考えましょうととりなして、諍いは避けられたのだという。

 少女の両親は慰謝料を受け取らなかった。

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