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琴子の部屋を後にしたのは、10時をまわってからだった。一通り話し終えると琴子は一応落ち着いた様子で、聞いていたアルバムの最後の曲が終わったあと、アゼリン・デビソンの『Bigger Than Me』に代えて、それを聞きながら少しだけ他愛のない話をして別れた。
暗がりの中を用心しつつ、来たときと同じようにこっそりと屋根を伝って部屋に戻る。こんな風にこそ泥まがいの真似をしたのはずいぶん久しぶりだったけれども、不用意な物音を立てるようなヘマもせず、無事に美奈子は自分の部屋に帰りついた。
と思ったら、部屋の中には姉の真由子が待ちうけていた。
「美奈子」
豆球をつけただけの薄暗い部屋の中央に、腕組みをしたまま仁王立ちになっていた真由子は、窓をあけてそろりと入って来た美奈子に、難しい顔で言った。
「危ないでしょう、こんな夜中に」
「夜中だからよ」
美奈子は言い返した。
「昼間だったらちゃんと玄関のチャイムを鳴らして居間の横の階段をのぼって琴子の部屋にいくわよ」
「落ちたらどうするの」
「気をつけてるから」
「もう小さな子供じゃないんだから、無断で人のうちに忍び込むような真似はやめたほうがいいわ」
「電話がかけづらい状況だったの」
美奈子の言葉に、真由子は組んでいた腕をおろして溜息をついた。
「そうだったみたいね」
部屋の明かりを最大に切り替えて、美奈子が入ってきた窓のカーテンの乱れを直しながら、真由子は言葉を継いだ。
「さっき琴子ちゃんのお母さんから電話があったのよ。どうしても美奈子に聞きたいことがあるから電話を代わってくれっていうの」
部屋のドアを叩いて幾度か呼んだが返事がない。トイレや風呂に降りてきた様子もなかったから、部屋の中を確かめて、琴子のところへ行ったのだとピンときた。
何食わぬ顔で、美奈子は疲れて寝てしまっている様子ですと答え、ご用件は? と尋ね返した。
いえ、ちょっと、と言葉を濁そうとする琴子の母に対し、真由子はふと、意地の悪い衝動にかられた。
何のお話でしょう。どうぞ言ってください。用件をお伺いして本人に伝えておきますから。美奈子に何を聞けばいいんでしょう。ええ、そうです。急を要することなら起こして聞いてきますので。ええ、保護者として伺っておきたいんです。うちは両親ともに仕事で夜遅いことが多いので、実質上はわたしが美奈子の保護者代わりです。うちの美奈子が何かしでかしましたでしょうか? 違うんですか? ではどんな用件でしょうか。
「お姉ちゃん、それってすごく人が悪くない?」
話を聞いて呆れた顔になる美奈子に、真由子は顔をしかめて見せる。
「ちょっとした意趣返しよ。高校の頃、桜井知明に電話かけるたびに、用件を根掘り葉掘り聞いてきて、全然取り次いでくれなかったお返し」
美奈子は苦笑した。琴子のママは、琴子の周りに男子生徒を近づけなかったように、知明の周りの女子生徒をハエでも払うように追い払っていたらしかった。
「大人げないよ、お姉ちゃん。そんな昔のこと、根にもってるなんて」
「大人じゃないもの」
「保護者なんでしょ?」
「そうよ。あの人以前、息子にかかってきた電話の内容は、保護者として把握する必要があるって言ってたのよ。だからわたしもにわか保護者」
とはいえ真由子がずっと美奈子の保護者代わりだったというのは、あながち間違いでもない。朝早く夜遅く日曜も休日もない母親の代わりに真由子は、ずいぶんこまごまと美奈子の面倒をみてくれた。それでも美奈子が小学生の頃でさえ、美奈子にかかってきた電話の用件を相手に問いただしたりしたことはなかったけれど。
「で、お姉ちゃんも、琴のママに用件根掘り葉掘り聞いたの? よくやるよ」
「用件っていうのがまた、夜にわざわざ電話で聞くほどのこともないだろうってくらい……わたしにはばかばかしいとしか思えなかったんだけど」
真由子はそう前置きして、美奈子に訊ねた。
「きょうの昼間,琴子ちゃんに声をかけた男の子もしくは男の人がいなかったか、ですって。どう?」
美奈子の返事を待たずに真由子は言葉をついだ。
「男の子が声をかけなかったかどうかって、共学だったら男子とだって会話するのが普通だし、なにズレたこと言ってんだか。娘に一切男と口をきいてほしくないなら、厳格なカソリック系の私立女子校へでも放りこめばいいのよ。あーばかばかしいったら」
「お姉ちゃん……」
まさか、ひょっとしてと思いながら、美奈子は訊ねた。
「琴のママにもそう言った?」
「言ったわ」
けろりとした口調で姉は答える。
「琴子ちゃんと話をした男子生徒がいてもいなくても、それを見てなくても見ていたとしても、そんな些細なことをうちの美奈子はいちいち覚えてはいないと思いますって」
そうしたらあの人ムッとしたみたいでとんがった声になって、それでも無理やり平静を装って、声を掛けたのは他校の、それも高校生だったみたいだから、美奈子ちゃんがもし見かけてたらわかるはずだから、とにかくあなたじゃらちがあかないから、明日の晩にでもまた電話しますとか言って。
ガシャン。大きな音を立てて電話は切れた。
「桜井のおばさんも充分大人げないと思うんだけどね」
人の悪い笑みを浮かべて言う真由子に、美奈子は抗議する。
「勘弁してよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんのせいで琴のママにわたしが睨まれたら、肩身の狭い思いをするのは琴なんだから」
「あら、部屋を抜け出して琴子ちゃんのところに行ってたことごまかしてあげたのに、その言いぐさ?」
「それは……助かったけど……」
「それで、ついでといっちゃなんだけど、桜井のおばさんが何にいきり立っているのか教えてくれる? 明日またあの人から電話があったらどうでもわたしが出て、きのうの件を美奈子に聞いたらこう言ってましたからって直接美奈子には取り次がずに説明だけしてさっさと電話を切る予定だから」
「あのねー、お姉ちゃん」
「言っておくけど、あの人以外にはそんな失礼な真似したこともなければ、これからする予定もないから」
「失礼だとわかってて、する?」
「ええ」
眉をひそめる美奈子に、真由子はにっこりと笑い返す。
「どのみち相手はそういう礼儀とかわかんない人間なんだから。それより協力してちょうだい、美奈子。明日、なんて言って答えたらいいと思う? 心当たりがなかったみたいだったって言ってもいいんだけど、心当たりはあるんでしょ? ひょっとして、さっき男の子からかかってきた電話と関係あるの?」
「ん……」
美奈子は少々迷いながら、勉強机の椅子に腰を下ろす。
「関係なくもないんだけど……昼間、わたしは口が固いよって言ったばかりだしなあ」
「わたしも口は固いわよ」
「でも、そうやって、噂って広がっていくものだと思わない?」
姉にとはいえ、琴子に断りもなく梅宮紀行のことをしゃべっていいものかどうか。
しかし、琴子のママは何か感づいてだか勘ぐってだかいる様子だし、この際姉とは共同戦線を張っておいたほうがいいかもしれない。梅宮紀行がまたうちに電話してくるかもしれないし、きちんと説明して改めて口どめをしておく方が安全かも。
迷っている美奈子の顔を覗きこんで、真由子は言った。
「美奈子、本音をいえばわたしはあなたに、桜井のうちにはあまりかかわってほしくないのよ。琴子ちゃんはいい子だけど、あのおばさんにはちょっと非常識なところがあるっていうか、人を人とも思ってないようなところがあって……あなたは知らないだろうけど、わたしたちが高校の頃、いろいろあったりもしたし……」
黙って見返す美奈子に、真由子は困ったように笑って、
「あなたにとって琴子ちゃんが大事な友達だって知ってるし、少なくとも琴子ちゃんに罪はないと思うから、あなたの行動を規制する気はさらさらないんだけど、少なくとも、あのうちに対してはもっと用心した方がいいと思うわけよ」
「用心?」
「ええ。わたしたちが高校2年のとき、桜井知明とつきあってて、あの人にひどい目に遭わされた人がいるの」
「琴のママに?」
真由子は黙って頷いた。