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GOING UNDER  作者: 古蔦瑠璃
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-4-

 うつむいて歩く少女の手を、美奈子は少々乱暴なぐらい引っ張りながら、駅に向かってずんずん歩いた。

 気配で琴子が泣きそうな顔をしているのがわかる。

「ヤなやつ!」

 吐き捨てるように美奈子は言った。

「ヤなやつ! ヤなやつ! ヤなやつ!」

 繰り返して唱えたが、返事はない。

 美奈子は少し歩調を緩め、隣を振り返った。

「あんな感じの悪い先輩がいるようじゃ、将来のS高での高校生活も万事薔薇色ってわけにはいかないでしょうね。でも、少なくともわたしは一緒だからね、琴」

「うん……」

「気にしちゃだめよ、あんなやつの言うことなんか」

「うん、ありがと、美奈」

 琴子はちょっと泣きそうな顔をしたまま小さく笑う。

 琴子ちゃん、本番に弱いタイプだろ。

 少年の言葉はある意味的を射ていて、琴子には刺さったかもしれない。中学受験だって、落ち着いて受ければ受からないレベルではなかったのだ。

「大丈夫、高校行っても学年違うんだし、あいつが何言ってきたって気にしなきゃ大丈夫だよ」


 しかし、美奈子の言葉に琴子は首を振って、小さく言った。

「違うの。あたし、知ってたから。パパがあたしのことなんか全然眼中にないんだって。やっぱりそうったんだって改めて思っちゃったの」

「そんなのあいつが勝手に言ってるだけでしょ? どうでもいいじゃない、勝つだの負けるだのって。勝手に言わせておけばいいのよ」

「おとといママがパパに報告したの。あたしがS高に進む予定だっていうこと。そしたらパパ、女の子がそんなことしたって、どうせ年頃になったら成績が下がるんだから無駄だって」

 歩きながら、琴子はぽつ、ぽつと言った。

「ちょうどパパが言ったのと同じこと、言われたんだなって……だから今のは、そのままパパの言葉なんだって……そう思うと、なんだか落ち込むなあって……」

 無理に微笑んだ琴子に、内心の苛立ちをぶちまけそうになって、美奈子は思いとどまる。

 悪いといえば、そもそもは琴子のパパが悪い。本当はそう言いたかったけど、口に出して琴子にそれを言うのはさすがにまずい。

 奥さん以外にも外に女の人がいて、その女の人との間にも奥さんとの子と同じ年頃の子供がいて。そういった男の人について、美奈子はさっぱり理解ができない。理解ができないというよりも、気持ちが悪い。

 けれども美奈子がそう感じることについて、正直に琴子に打ち明けるべきかどうかは、少々悩む。なぜって、琴子はパパにもママにもどこか片思いをしているようなところがあるからだ。

 パパが琴子をどうでもいいと思っているのは傍で見ていてもわかる。兄の知明はそれなりに可愛いらしい。ハンサムでクールで落ち着いていて年の割に大人びていて。自分の分身のように感じるのだろう。

 おとなしくて内気で引っ込み思案な少女は、家庭の中での存在感が薄い。気が弱くてささいなことでめげたり落ち込んだりするところは、特にパパからは疎ましがられてきたようだ。琴子がいつも不安げなのは、パパやママの育て方、接し方がそもそもの原因だろうに。

 琴子のママは仕事をしているわけではなく、いつも家にいる。それなのに、仕事が一番の母親にろくに面倒も見てもらえず放ったらかされて育った美奈子よりも、琴子の方がなぜか愛情に飢えているように見える。

 美奈子の隣りに引っ越してきたばかりの頃は、兄の知明が一身に琴子のママの関心を集めていた。今は自分の思い通りにならない知明に対しては琴子のママは無関心で、身代わりのように琴子ばかりをかまう。といって、それは愛情というよりはむしろ支配とか干渉とかいった類のものだ。


「ねえ、琴」

 ラッシュ時の込んだ電車に2駅揺られて降り、改札を抜けて繁華街とは反対側の住宅街へ向かう階段を降りきったところで、美奈子はもう一度琴子を振り返った。

「あのさ、こんなこと聞くのなんだけど、その、琴子の家ではオープンなの? さっきの梅宮さんのこと。その、母親の違う兄弟がいるってこと」

 琴子は首を横に振る。

「ママはあたしが知っているってことは、知らないと思う。パパはどうだかわかんない。あたしはお兄ちゃんにこっそり教えてもらったの。お兄ちゃんの代わりにお医者さんになれっていわれたときに。おれが医者にならなければもう1人の男の子にパパは病院を譲るだろうから、ママのいうことは聞かなくていいって」

「だったら」

 だったら無理をして医者にならなくても。

 小学生のとき、琴子は保育士さんになりたいと言った。ものものしい建物の中で消毒液と薬品の匂いに囲まれて過ごすよりも、絶対その方が琴子に似合うと美奈子は思う。小さな子供に絵本を読んで聞かせたり、一緒にお絵描きをしたり、歌を歌ったり。きっと子供に慕われる。いい先生になれる。

「ねえ、琴、どうしてあいつにあんなこと言ったの?」

 並んで歩き始めながら、美奈子は聞いた。

「琴には小さな頃からの夢があったのに。それしかない、だなんて」

「だって……」

 琴子はうつむいた。

「あのときママが、初めてこちらを向いてくれたんだもの。付属中学に進んでお医者さんになるって言ったら、琴子ちゃん頑張ってねって言って、あたしを見てくれたの。笑ってくれたの。だから」

 そんな理由で、という思いと、やっぱり、という思いが、美奈子の心の中で交錯する。

 それしかない。本当に琴子は心の底から思っているのだ。それだけが、ママにとっての琴子の存在理由なのだと。そしてそれに反発することもなくただ従っている。

 無論、反発する元気など琴子にないことを、誰よりもよく美奈子は知っている。見捨てられる恐怖と、少女はいつも背中合わせだから。

 大学の理工学部で機械工学を専攻した知明は、今でもママとは冷戦状態だ。ママは兄の分の朝食をつくらない。兄はバイト先で夕食を済ませ、家で食事をとろうとしない。大抵は夜遅く戻ってきて、いつも家にいるママと顔を合わせようとしない。

 もしもそんな状態になったとしたら、琴子にはとても耐えられないだろう。

 ママの期待に添うことだけを願って一生懸命な琴子。けれども、それを歯牙にもかけない父親。突然やってきて宣戦布告をしていった少年に対してよりも、美奈子は琴子のパパに対して、いっそう腹立たしい思いになる。


「ね、琴……もしもだけど、もしもね……」

 少しだけ迷ってから、美奈子はこう切り出した。

「もし琴のパパが、あいつに病院継がせるつもりでも、幾つかの……幾つでも道はあると思うな。小児科のお医者さんになって、大きな病院に勤めて、そのあと独立して。例えば、私と共同経営なんて、どうかな」

「美奈と?」

 琴子は、目を丸くして聞き返す。

 美奈子は頷いた。

「うん。夢みたいな話だけど」

 夢みたいな話だけど、具体的にはどんなにして個人で病院を開設するのか美奈子にも見当もつかなかったけど、琴子には逃げ道が要る。パパの病院が琴子の第一志望コースなら、滑り止めといった感じで。

「そうしたらパパが考えていることに関係なく、琴の頑張り次第で、ママに認めてもらうこともできるよ、きっと」

 勢いで言ってしまった美奈子の言葉を聞きとがめて、琴子は問い返す。

「けど、美奈は? 美奈は別に個人病院の経営なんて考えてなかったんでしょ?」

「私の動機はさっきあいつが言った、琴のパパの言葉。女に病院の経営は無理だなんて決めつけられるとなんかこう、むらむらと闘志が湧いてきたりして」

 言われて琴子はちょっと困ったように笑う。

「けど美奈、医者になったらアメリカに留学してNASAに行くとか言ってなかった?」

「えー、それこそ全く適当に言ってただけだもの」

 苦笑して美奈子は否定する。

「パパがノリノリでさ。女医になるんだったら、向井千秋さんみたいに宇宙飛行士を目指せ、なんてけしかけてくるものだから……」

 それこそ全く夢みたいな話だ。独立して個人病院を経営するよりももっと実現の可能性は薄い。

「パパの子供の頃からの夢だったんだっていうのよ。アストロノウツになって、火星に行くのが」

 パパに代わって夢を叶えてくれよ。冗談めかしたそのセリフの中にたとえ幾ばくかの本気が混じっていたとしても、その言葉が美奈子にとってプレッシャーになることは決してない。

 美奈子の父親は、子供が目指す進路に対して、こういった道もあるよという1つの可能性を指し示しているにすぎないからだ。美奈子が臨床医になろうが学者になろうが企業の研究員になろうが、パパは手放しで喜んでくれるだろう。

「……ママ、それでもいいって言ってくれるかな。パパの病院継ぐのでなくても」

 こころもとない顔で小さくつぶやいた琴子に、美奈子は言った。

「そうなったら勢いで、いいって言わせるの」

 琴子がママの言う通りにしなくても、世界が終わるわけではない。琴子にそのことがうまく伝えられたらいいのに。もどかしい思いを胸に、美奈子は琴子の手をきゅっと握って歩きつづけた。

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