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「そっか」
走る電車のドアごしに流れて行く朝の町並みを横目に眺めながら、琴子はつぶやいた。
「お兄ちゃん、そんなこと言っていたの」
「ええ」
美奈子は頷いた。
「琴のこと頼むって、お願いされちゃったわ」
「そっか……」
他に言葉が見つからなかったらしく、琴子はただ、そう繰り返した。
駅のホームのベンチに隣り合って腰かけて電車を2本乗り過ごし、美奈子は土曜日の様子をかいつまんで説明した。おかげで遅刻ぎりぎりの時間。少なくともホームルームには確実に間に合わない。1本前の満員電車と違って、乗り込んだ車両は立っている人と人の間にかなりスペースの残る混み具合。
「琴のお兄さんに、高校の頃つき合ってた彼女がいたって話、知ってる?」
聞くと、琴子は目を見開いてかぶりを振る。
「その彼女とね、今度もう一度つき合い始めることになったんだって」
それは土曜日の夜、知明が店を出ていったあと、残った梅宮から真由子が聞き出した情報だった。
知明が席を立ってすぐさま、真由子は牽制するように梅宮に言った。
「あなたは先に帰るなんて言わないわよね、少年」
美奈子から見て姉の真由子は、6つも年上であるにもかかわらず、ひどく大人気ないところがある。美奈子も相当の負けず嫌いを自覚しているが、真由子の場合負けず嫌いに加えて子供みたいにむきになりやすいという短所を持っている。
パスタを食べ終わった後、デザートのシャーベットをつついて紅茶を飲みながら、真由子と梅宮はお互いに、傍で聞いているこっちがうんざりするような厭味の応酬を繰り返しながら会話のとっかかりを探り始めた。
それが途中から、どうして知明が異母兄弟の梅宮紀行とコンタクトを取るようになったのかを聞いたのがきっかけで、思わぬ打ち解けた雰囲気に変わってしまう。
梅宮が知明と知り合ったきっかけは──きっかけというのか、そもそも最初は知明が梅宮が中学1年のときに、通っている中学にやってきて校門で待ち伏せしていたのだという話だった。そう、ちょうど先週、梅宮が琴子を待ち伏せしていたように。
初対面の梅宮に知明は、いきなり言った。親父に押しきられてなりたくもないのに医者になることにしたのだったら、やめておけ。きついし汚いし、傍で思うほど楽して儲かる仕事じゃないぞ。
医者になれとは、おれは言われてない。
思いっきりむかっ腹を立てて、梅宮はそう答えた。
医者になったら親父の病院をくれてやる。そう言われたんだ。悪くない話だとおもったね。それにあんたが医者になる気がないのなら、後継ぎがなくて病院だって困るんじゃないの? あんたよりはおれの方がよっぽど見込みあるってさ。
病院の都合も親父の思惑も関係ないだろう。そう知明は言った。もしおまえが医師の仕事そのものに興味が持てなければ、そんなものしょい込んでも重荷になるだけだぞ。
そのいきさつを聞いた真由子は、思わず蓮村に顔を寄せてささやいた。あれよね、善意の無神経とかいうやつ。悪気がない分よけいにしまつに負えないのよね。言われて蓮村も頷く。ああ。桜井ちゃんの図太いのは昔から無神経すれすれだったからな。
ああいったとんでもなく強引なお母さんを持つと、少々のことでは応えないような鋼鉄の無神経に鍛え上げられるか、逆に琴子ちゃんみたいに気が優しくて繊細な子に育っちゃうか、どちらにしても極端なことになるしかないのかしらねえ。
鋼鉄の無神経、という真由子の言葉がツボにはまったらしく、梅宮は身を折って笑い出す。
その場にいない共通の知人の悪口というのは意外に盛り上がるものだ。それが悪意や軽蔑からではなく、親愛の情の裏返しであるものならば、場の雰囲気が悪くなることもない。普段から無駄に態度がでかいやつだとか、なんでああいきなり断定的な調子で結論を口にするのだろうとか、実は空気の読めないやつなんじゃないかとか、真由子と蓮村で散々言い合うのを聞いていた梅宮が、ふとつぶやいた。桜井さんときたら、あれだけクセのある性格のくせに、友達にも彼女にも恵まれてていいですよね。なんていうか、うらやましいですよ。
めずらしく棘のない、さらりとした口調だった。
なんですって?
彼女の話なんて聞いてないぞ。
そう顔を見合わせる蓮村と真由子に、梅宮は言った。高校の頃、つきあってた人だって話ですよ。よりを戻すことになったそうです。といっても、彼女の両親が強固に反対しているそうで、一緒に暮らすまでにまだひと悶着ありそうだってことですけど。
真由子と蓮村は、もう一度顔を見合わせた。
そんな大事なことを、菊本やおれに言わずにいくか? 今度会ったら、締め上げてやる。
あら、途中経過で報告して気を揉ませるのが嫌だっただけじゃないの? 桜井くんらしいじゃないの。ぶつくさこぼす蓮村をなだめるように真由子がそう言った。
ああ、おれも別に話を聞いたとかじゃないんですよ。ただ、偶然彼女連れてるところに出くわしたことがあるだけで。優しそうな可愛らしい感じの人ですよね。ところで真由子さん、さっき興信所だとか盗撮だとか言ってましたけど、桜井さんが高校の頃、一体何があったんですか?
「ほんとはお兄さん、琴にその話をしたかったんじゃないかと思うの」
考えながら、美奈子は口に出した。
「高校の頃好きな人が出来て、その人とつき合いはじめたら、琴のママ、興信所──探偵をやとってその人のことこっそり調べてたんですって」
「探偵?」
「ええ。お金をもらって、いろいろ調べたりする仕事の人。それでその女の子、別の男の人とつき合ってるみたいな写真撮られてね、琴のママ、その写真をお兄さんに見せたの。それでママはお兄さんに言ったんだって。こんないいかげんな子がこれ以上お兄さんの周りをうろつくんだったら、その写真を持って彼女の家の人に直に話をつけに行ってくるからって」
こうなったら相手の両親に直接会って写真を見せるしかないわね。おたくのふしだらな娘がうちの息子をたぶらかしているからなんとかしてくださいって文句を言うことにするわ。彼女と別れる気はないって答えた桜井に、おふくろさんはそう言ったらしいよ。
蓮村が口真似をした琴子のママの毒々しい言葉を、琴子に対して繰り返して言って見せる気は美奈子には起きなかった。
「琴のママって、なんていうかすごい行動的でしょ。お兄さんが止めなければ本当にそうしてたと思うって、蓮村さんは言っていたわ。だからお兄さん、心配してるみたいなの。いずれ琴の身にも、同じような災難がふりかかるんじゃないかって」
ママがこっそり調べたり写真を撮ったりしていたのがわかったとき、そこまでのいきさつを彼女に説明するのではなく、何も言わずに黙って別れることを知明は選択した。
そういえば、そのことについても蓮村はぶつぶつ文句を言っていた。
桜井ちゃんもさっさと彼女に打ち明けて相談すればよかったんだ。女の子をお飾りかマスコットぐらいに思ってて、相談して一緒に考えようって発想がないからややこしいことになってしまったんだよ。
でも、ま、普通言えないわよね。真由子がそう言って首を振った。自分の母親が、息子と別れろといって相手の家に乗り込むつもりだって。しかも、エンコーの現場を押さえた証拠写真があるって言って息巻いてるって。それを言うだけでも、間違いなく彼女にショックを与えてしまうもの。
「そっかぁ」
もう一度、琴子はそうつぶやく。
「知らなかったけど、お兄ちゃんも大変だったんだな」
ふんわりとした琴子の口調が妙にのんきに響いて、美奈子は苦笑した。
「他人事じゃないでしょ」
「うん」
「電話してみたら? 連絡先教えてもらったよ」
「お兄ちゃん、忙しいって言ってたんだよね?」
「ええ。でも琴のこと、心配してた」
「なんか実感ない。お兄ちゃんと、普段からあまり話とか、したことないし」
「うん。知ってる。けど、うちのお姉ちゃんも言ってたけど、年上の兄弟って、下の兄弟が考えているよりも案外弟や妹のこと、気にしてるものだって」
「そぉかなあ……」
腑に落ちない様子の琴子だったが、少し考えて口を開く。
「だったら、手紙でも書いてみようかな。電話してもあたし、お兄ちゃんとは何をどう話せばいいかわかんないし」
「手紙?」
押しの強い兄の前で萎縮してしまいがちな琴子が伸び伸びと対話するには、案外それはいい考えかもしれない。それに、パパやママのことを客観的に見つめなおすきっかけにもなる。
「うん。あたしは大丈夫だよって連絡する。頑張るし、美奈も相談に乗ってくれるからって。何かあったらあたし、真っ先に美奈に相談するからね。あっ……と、もちろん自分でちゃんと考えるようにも努力するよ。だから……」
ね、相談に乗ってくれるよね。そう問いかけてくる大きな瞳に向かって、美奈子は頷き返した。何があっても琴が話してくれさえしたら、一緒に考えていけるよ。一緒に考えていこう。
写真の話をしたあとで真由子は、梅宮に向かって言い添えていた。
念のため彼女の名誉のために言っておくけど、ホントはエンコーとかじゃなくて、元カレと会ってただけだったのよ。桜井くんとつきあい始めた頃は、まだはっきりとは元カレと切れてなかったっていうのがその写真の状況だったらしいの。ま、それはそれで桜井のおばさんが騒ぎそうな問題だって言えば言えないこともないけどね。
いいんじゃねーの。それについては桜井が納得してんだったらさ。今度は蓮村がフォローを入れる。恋愛の終わりだの始まりだのを、そんな転職するときみたいにすっぱり割りきれるやつがいたら、ある意味その方が不気味だろ。
頭越しに飛び交う姉達の会話を、美奈子はただ目を丸くして聞いているばかりだったが、蓮村のその言葉は妙に胸に残った。
自分にとってこれは、いつから始まった恋なのだろう。
電車のドアに軽くもたれた少女の立ち姿を前に、不思議な思いが美奈子の胸に湧き上がる。
思い起こせば遠い日、仔鹿のような茶色いつぶらな瞳に最初出会ったときにはもう、特別のときめきを覚えていたような気もする。
その日からもうずっと、琴子は美奈子にとってかけがえのない存在だったけれども、今はもう少し近くにいたい、手を伸ばして触れていたい。そんな風に感じている自分もいる。
あるいは、ほんの数日前の日の暮れかけた運動場で、ぽつんとブランコに腰をおろしてうつむいていた少女の、寄る辺なく揺れていたおさげの髪を見つけたあの瞬間が、消えることのない火が胸にともった瞬間だったのかもしれない。
斜めから差し込むきんいろの朝日の中で、やわらかく琴子が笑う。
ふわふわのおさげの頭に手を伸ばし、柔らかな手触りの髪をそっと撫でると、琴子はくすぐったそうな顔で少し目を細めた。
琴子の唇がかすかに動く。
列車が失速し、2人が降りる駅の名前を告げるアナウンスが車内に響く中で、ささやくような琴子の声を、美奈子ははっきりと聞き分けることができた。
「ずっと、一緒だよね」
もちろんよ。そう答えようと見返した刹那、電車が止まり、するするとドアが開く。人の流れに従ってホームに降り、歩き出しながら、美奈子は手を伸ばして隣りの琴子の手を握った。きゅっと握り返してくる琴子の手のひらのぬくもりが頼もしい。
手を繋いだままゆっくりと、人気もまばらな改札を通りぬける。
通りを横断し、コンビニの横の角を曲がって、校門までほんの6、7分。そのわずかな時間が惜しいような気がして、美奈子は歩く速度を少し落とした。
人気のない朝の道を、寄り添ってゆっくり歩く。
「久しぶりに、遅刻しちゃうね」
そう言いながら、琴子も急ぐそぶりはない。
「1年のときは、よくこの道を一緒に走ったっけ」
あのときも手をつないでいたけれども、こうやって並んで歩くのではなく、いつも美奈子が琴子の手を引いていた。姉のように。保護者のように。
琴子に対してずっと美奈子は保護者ぶってきたけれども、本当に切実に相手を必要としているのはむしろ自分の方だと、今では気づいてしまった。
どこにもいかないで、そばにいて欲しい。
ずっとこうやって手を繋いで、2人っきりで歩いていたい。
これから先琴子がもう少し強くなって、兄の知明の助力も得て、今みたいに美奈子の手を必要としなくなったとしても。
繋いだ手に知らず力がこもる。
それに気づいたのか、琴子が振り向いた。
「美奈?」
誰もいない校門を通り、門柱の陰で一度立ち止まって、琴子は美奈子の手をそっと引っ張った。
どうしたの? そう言いたげに薄明るい茶色の瞳で覗き込んでくる。
あどけないその顔は無邪気に見えるけれども、人の気持ちに敏感な琴子。
琴子のそばにいたい。
琴子とだけ、一緒にいたい。
不意に、ふわりと抱きしめられた。
美奈子の首元で柔らかなおさげが揺れ、びっくりするほどそばに近づいた顔が、小さく笑う。
「このまま教室に入るのやめて、2人でどっか行きたいね」
おとなしい琴子の発言とも思えない言葉に、美奈子の目が丸くなる。
「本気?」
「だって、美奈がそんな顔してる」
「わたし……?」
案ずるように覗き込んでくる目を、不思議な心地で美奈子は見返した。手のひらを伝って流れるように、気持ちが琴子に伝わっていたのだ。
「ええ、そうね」
素直に美奈子は頷いた。
「わたし、琴と2人きりでいたいと思ったのよ」
「うん」
それを聞いて、はにかんだように琴子が笑う。
もう少しだけ。
少女の柔らかなぬくもりをすぐそばに感じながら、美奈子は思う。
学校から逃げ出すわけにはいかないけれど、もう少しだけこうしていたい。
それでも顔を上げ、美奈子は琴子の手を引いた。
「そろそろ教室へ行こうか。もう、授業始まってるよね」
「うん」
柔らかく笑って、琴子が頷いた。
2人はしっかりと手を繋いだまま、歩き始めた。
《終》