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ちょうど美奈子の目の前に、琴子の家出の元凶となった男が座っている。
梅宮の掛けたニセ電話が原因となって琴子が追い詰められてしまったことを思うと、彼がのんきな顔でここに座っていること自体がむしょうに腹立たしい。何か一言いってやりたい。
とはいえ、髪を切る切らないの問題にまで発展してしまったことに対して、梅宮紀行に責任があるかというと、それは違う。そのことで彼を責めるのは言いがかりに他ならない。そもそも、琴子のママの物言いこそが言いがかりだったのだから。
美奈子の複雑な胸中を知って知らずか、梅宮は身を乗り出して美奈子に話しかけてきた。
「お姉さん、美人だね。ちょうど美奈子ちゃんを大人っぽくしたような感じで」
「何しに来たの? そもそもどうしてこんなところにいるのよ」
我知らず尖った口調になる美奈子の返事に、梅宮は肩を竦めた。
「今言っただろう。君が来るって聞いたから、会いたいと思って同行したって」
隣りでは真由子と知明と蓮村大介の3人が、テーブルに頭を突き合わせてメニューを覗き込み、相談を始めている。
それをちらりと横目で見ながら、梅宮は言った。
「琴子を捜し出してくれたんだってね。小学校のグラウンドにいたんだって?」
「どうしてあなたがそれを知っているの?」
「琴子が失踪したという連絡を最初に受けたのはおれだからね。桜井のおばさんが電話してきて、心当たりはないかだとさ。しかし、あれは人にものを聞く態度では全然なかったけどね、あのひと、この前の晩電話したときのおれの声を覚えていたみたいで、電話を切る前に、問い合わせのついでというにはあまりにも念の入った罵詈雑言を浴びせかけてきたけれど」
そう言うと梅宮は、何がおかしいのか、くっくっと笑った。
「紀行」
隣りに座っている桜井知明が振り向いた。
「話はあとにして、先に何を食うか決めろよ。……美奈子さんもどうぞ」
知明は広げたメニューの1つを取って、美奈子の目の前に移動させる。アルファベットの飾り文字で書かれたメニューの上に、カタカナで小さくルビが振ってある。手書きをコピーした手作り感覚のものだ。
美奈子は置かれたメニューの向きを変えて、梅宮の前に置いた。
「どうぞ、梅宮さん」
「美奈子ちゃんが先に見たらいいよ」
そういって美奈子の方にメニューを押し戻そうといる梅宮を制止して、美奈子は言った。
「わたしはもう決めたから」
「決めた? 何にするの?」
「ラザニア」
「ふうん」
梅宮は冊子に視線を落としながら聞いてきた。
「美奈子ちゃんは、ここには来たことがあるんだね? 何がおいしい? 美奈子ちゃんのお奨めはラザニア?」
「わたしは2度ばかり来たことがあるだけ」
あくまでも親しげなというか、悪く言えばなれなれしい調子の梅宮に内心辟易しながら、美奈子は真由子を呼んだ。
「お姉ちゃん、梅宮さんが、お奨めのメニューを知りたいって」
呼ばれた真由子は顔を上げ、美奈子の表情を見て取って言った。
「妹に余計なちょっかいかけるんじゃないわよ、少年」
それぞれが出した注文をてきぱきと取りまとめて、真由子はウェイターを呼んだ。
呼ばれたウェイターはたどたどしい発音ながらも、意外とこなれた日本語の言葉遣いでメニューの確認をして、厨房にそれを伝えに行った。
それを見ながら真由子は、忙しそうね、と、つぶやくともなく言う。
「週末なのに、給仕が1人しかいないなんて」
「表にアルバイト募集の張り紙が出てたぜ」
「ほんと? 応募してみようかな。ここだと大学から近いし、時給はいくらだって書いてあった?」
「詳細は面談にて。けど、菊本、今のバイトはどうするんだよ?」
「今のとこ、スクーターで片道15分ぐらいかかるのよ。これから寒くなってくるとちょっとつらいかも、なんて」
真由子と蓮村大介がたわいのない会話を始める横で、桜井知明はもう一度振り返って、自らがさえぎった話題に、話を引き戻した。
「一体いつ、桜井の家に電話なんかしたんだ? 以前言っただろう。おふくろにかまうな。なるべくかかわるな」
「なんだよ、桜井さん」
知明の言葉に、梅宮紀行はかすかに眉を上げた。
「さっきの話を聞いてたの?」
実の兄を桜井さんと呼ぶその声の調子に、温かみは全くない。琴子の兄と梅宮が連絡を取り合っていたのは驚きだったが、さりとて2人が特に親しいというわけでは、どうやらなさそうだった。
「ええと、おれが琴子ちゃんに会いに行ったのは、木曜日だっけ?」
梅宮は、確認するように美奈子を見た。
「桜井さんが連絡してきたのが水曜日だったから、やっぱり木曜だな」
「中学校までわざわざ会いに出かけたあと、さらに家に電話までしたのか? 一体琴子に何を話した」
「桜井さんがおれとの勝負は完全に降りる、金輪際、桜井の家にも病院の経営にもかかわる気はないっていうから、新しいライバルの顔を改めて拝んでおこうと思ってね」
やや詰問口調の知明にひるむ様子もなく、梅宮は口元に薄笑いを浮かべて言った。
「かわいいね、琴子ちゃん。一見おとなしそうだけど、芯は強そうだ。病院を継ぐのなんて似合わないし、おやじも反対しているし、やめときなよって忠告したら、あきらめるわけにはいかない、だってさ。いいね、なかなか歯ごたえがあって」
「琴子は別に芯が強いわけじゃない」
不機嫌な声で、知明は答えた。
「あいつは単に、おふくろの言いなりなだけだ」
梅宮紀行は、肩を竦めた。
「そうは思えなかったけどな。自分の意思で病院を継ぐ、決意みたいなのを感じたけど」
黙って見返す知明に、梅宮は言った。
「あんた、さっき電話で美奈子ちゃんのお姉さんに言ってただろう? 近頃妹とまともに話もしていないって。おれの方が、今の琴子ちゃんをよく知っているかもしれないとは思わない?」
「思わないな」
知明は梅宮の言葉を即座に否定した。
「一度会って話しただけのやつに琴子の何がわかる」
「そうは言うけどお兄さん。おれたちはいわゆる同じ穴のムジナだと思わない?」
問い返す顔になる知明に、梅宮は言い直した。
「おれたちっていうのは桜井さん、あんたのことじゃなくて、琴子とおれがって意味だよ」
「何の話だ」
「つまり、おやじにとってエースはあくまでもあんたで、おれも琴子も補欠に過ぎないってことだよ。おやじにとってあんたは常に1番手だっただろう。あんたが降りたからおれに順番が回ってきただけだ。琴子はどうやらおれの次の3番手みたいだけど」
「くだらん」
変わらず不機嫌な声で、知明は短くいらえた。
「おまえが医者になりたいなら、病院にとっては好都合だがそれだけだ。おやじが何を考えていようがどうでもいいことだ」
「それは、あんたが恵まれているからそう思うんだよ」
梅宮はそう言うと、口元から薄笑いを消した。
「琴子はあんたの母親のいいなりだったそうだけど、どうしてそうなのか、あんたは考えたこともないだろう。ずっと優等生で育ったあんたと違って、せいぜい聞き分けがいいぐらいのことでしか、琴子は両親に認めてもらえなかったんだ。自分がなくて親の言いなりだっていうのは、違うと思うな」
顔を上げた美奈子に、梅宮は視線を移した。
「どう? 美奈子ちゃん、おれの推察は当たってる?」
そうだとも違うとも答えかねて、美奈子はただ不審げに梅宮を見返した。一体梅宮は、どこに話を持って行くつもりなのだろう。彼は何が言いたいのだろう。何を考えているのだろう。そもそもどういうつもりで、ここについてきたのだろう。
彼は琴子のことを、一体どう思っているのだろう。
美奈子が梅宮に対して気を許せないと感じてしまうのは、彼が琴子に対して抱いている感情がどういった類のものなのかを、うまく読み取ることができないからだ。
琴子に会いに来た当初から彼の言葉の端々には、琴子に対する悪意といってもいいような棘が仄見える。といって、こんなことろまで美奈子の顔色を伺いにやってきた梅宮が、悪意や害意といったものだけに突き動かされているようにも見えない。
「おれはもっと琴子ちゃんとじっくり話がしたかったんだけどな」
美奈子の視線をゆったりと受け止めて、梅宮は再び微笑した。
「図書館では君が強引に連れ去ってしまうし、電話は結局取り次いでもらえなかったしね」
難しい表情のまま、知明が低い声で言った。
「おやじが何を考えていようが、そんなことは本当にどうでもいい。たとえおやじの不興を買ったところで、たいした実害はないからだ。だが、おふくろは別だ。琴子がおふくろに逆らわないのには、それなりの理由があるんだ。もう一度忠告しておく。おふくろには極力かかわるな。桜井の家に電話をかけるなど、もってのほかだ」
「あんたの忠告とやらを汲んで、一応名前は伏せて電話したんだけどね。琴子のクラスメートの名前を拝借したのに、ああも見事に剣突くらわされるとは思わなかったよ。あの琴子ちゃんの母親だから、もっと楚々とした人を想像していたのに」
「あの……」
少し迷って、美奈子は口を開いた。
「あのとき梅宮さん、柿崎くんの名前を借りたそうだけど、次の日に、学校で柿崎くん、言ってたわ。夜、突然琴子のママから電話があって、なんだろうと思いながら出たら、間違いでしたって言われて切られたって」
「へえ」
梅宮は、ちらりと知明の方に目をやり、美奈子に向かって言った。
「なるほどね、用心深いおばさんだ」
「あなた、用件を琴子のママに聞かれて、うやむやにしたまま切っちゃったでしょ? だから、琴子のママ、柿崎くんのうちに掛けなおして、もう一度電話の内容を問い質そうとしたのよ。そうしたら柿崎直人の声はあなたとは別人だった。じゃ、さっきのは誰からの電話だったのってことになって、その件で琴子はずいぶん追及されたの」
いつのまにか真由子と蓮村大介も話をやめて、こちらを見ていた。
みんなの視線が一斉に集中したのが気まずくて、美奈子は言葉をとぎらせた。
「美奈子さん」
知明が口を開いた。
「ひょっとして琴子が家出したのは、そのことで琴子とおふくろの間に何かあったからなのか?」
どう返答するべきだろう。知明を見返しながら、美奈子はいそいで考えをまとめようとする。ママに責められても琴子は、梅宮紀行の名前を出すことができなかった。なぜならその名前は桜井家の秘密だったからだ。
そして、桜井家では秘密の存在だった当人が目の前にいて、知明や真由子とともに、美奈子の話に耳を傾けている。微妙にややこしいこの状況で、さしさわりのない言葉でうまく説明できる自信がない。
美奈子の戸惑いを察したのか、知明は質問を置き去りにしたまま、再び梅宮に話しかける。
「おふくろが電話を琴子に取り次がなかったのは、おまえの声に疑いを持ったからじゃない。たとえ本物のクラスメートでも、おふくろは男からの電話は琴子に取り次がない。それから電話した理由と用件は必ず問い詰める。納得できる詳しい説明を相手から聞き出すまで」
今まで黙っていた蓮村が、知明の後ろから口をはさんだ。
「相変わらずだな、おまえのおふくろさん。いまやターゲットはおまえから琴子ちゃんに移ったってわけか」
「そういうことだ」
知明は頷いた。
ウェイターが飲み物だけを先に持ってきて、後から来た3人の前に置いた。
それを期に、知明と真由子と蓮村の3人は、紀行と美奈子に聞かせるともなく高校時代の話をはじめた。
真由子と蓮村は3年間、知明と同じS高校に通った。蓮村は選択科目の関係もあって、ずっと知明と同じクラスだった。その中で、真由子も蓮村も、知明の母親には不愉快な目に遭わされた経験が、1度や2度ならずあるということだった。
電話はとにかく、絶対取り次いでもらえない。そればかりでなく、名前をフルネームで聞かれる。知明にどういった用事があるのか、それはクラスの用件なのか、クラブの用件なのか、委員会の用件なのか、根掘り葉掘り聞かれる。
「特におれは、初対面で桜井のおふくろさんに喧嘩を売ったせいもあって、電話するたびに露骨に嫌がられてたよな」
ぼやくように、蓮村は言った。
「2年のとき、2人とも文化祭の実行委員だったから、秋頃打ち合わせのためにちょくちょく桜井んちに連絡をしたんだけど、とにかく取り次いでくれないから話もできない。詳しい話をしようにも、おふくろさんを介してだからもともとうまく通じないところに持ってきて、あのひと、おれにむちゃくちゃ反感持ってるものだから、必要なことがまともに伝わらない。まったく苦労したよなあ……」
「へえ、蓮村さん、初対面であのひとに喧嘩を売ったんですか」
意外そうに、梅宮は蓮村を見る。
「温厚そうに見えるのに、人は見かけによらないな。それとも温厚な蓮村さんを怒らせるようなことがあったのかな。一体何があったんですか?」
梅宮の言葉に、蓮村大介は困った顔になって頭をかいた。本当に人のよさそうな人だ。
高校のころ、知明とつきあっていた少女が堕胎したあと付き添って行った、少女の友達の家で、蓮村は知明の母親と出くわした。傷ついた少女を悪し様にののしる彼女にあきれ、見るに見かねて口を出した。蓮村の初対面は、多分そのときのことだ。
「蓮村くんって、見かけほど温和じゃないわよね」
蓮村が口を開くより早く、真由子が何気ない顔で、梅宮の質問をさらりとはぐらかした。
「実は気が短い方だと思うの。白黒はっきりさせたがる性格だし。でも、味方には甘い。頼られると弱いのよね。いわゆるアニキ肌ってやつかな?」
真由子は梅宮に言葉をさしはさむ隙を与えず、そのまま話題を現在のことに転換した。
「桜井のおばさんだけど、今は琴子ちゃんに対して、高校のときの桜井くんに対してみたいに執着してるわよね。出かける先なんかもいちいちチェック入れてるみたいだし、クラスメートからの電話もほぼ取り次がないみたいだし。なのに、美奈子に対しては例外みたいなの。美奈子からの電話はおよそフリーパスで琴子ちゃんにつないでもらってるみたい。美奈子は、どうしてだかおばさんに気に入られているみたいなのよ。一体この子のどこが気に入られたんだか……もともとやんちゃで破天荒なところのあった子で、こっちはずっとハラハラさせられてきたのに。最近は大分落ち着いてきたみたいだけどもね」
「お姉ちゃん、ひど」
話題を転換するためとはいえ、自分が肴にされてはたまらない。美奈子は腕組みをして姉を睨みつけたが、姉はそ知らぬ顔で話を続けた。
「公園のブランコの上の柱を平均台代わりにして歩いたとか、家の屋根に梯子を持ち出して、2階の屋根によじ登ったとか、そのテの武勇伝には事欠かなったわ。特に琴子ちゃんたちが引っ越してくる前の年ぐらいまではね」
口を尖らせた美奈子の視線を今度はにっこり笑って受け止めると、真由子は言い加えた。
「てっきり体育系に進むとばかり思っていたのに、医者になるですってよ。ま、体力だけはあるから向いているかもね」
「美奈子さんは格別優秀だと、おれは聞いたな」
だれに聞いた話なのか、知明が言った。
「小学校のときの予備校の模試で、全国総合順位で1ケタになったことがあっただろう。今でも全国でトップレベルだそうだ。美奈子さんとつきあいだしてからの琴子は、ずいぶんと成績を上げたみたいだ。だからおふくろは美奈子さんに一目置いているんだ」
「へえ……」
知明の言葉に、梅宮が口笛を吹く。
「天は二物を与えずっていうけれど、それだけ可愛くて頭もいいなんて、神様もイキな真似をするね。成績がよくて医者志望で、義理の兄でさえなかったら、案外おれもおばさんに気に入られることもできたかな。まあ、おれはおれで、ライバルが美奈子ちゃんでなかったことに感謝しておこうか」
梅宮がぶつぶつ感想を述べる横で、口には出さずに美奈子は考える。確かに知明のいうように成績のこともあるかもしれない。琴子のママは琴子に、成績のよい子とだけ友達づきあいをしろという。勉強の出来ない子はダメだ、とまでいう。
それでもそれ以上に、美奈子が琴子のママに受けがいいのは、意識して美奈子が彼女に気に入られるように振舞っているからだ。
ママと美奈子の間がぎくしゃくすると、琴子が動揺する。不安定になる。琴子に笑っていてほしいから、安心していてほしいから、幸せでいてほしいから、だから難しい琴子のママと努力してそつなくつきあって来たのだ。
けれども今も、どこかで美奈子の心は揺れている。
琴子のママは、琴子を自分に従属するものとして扱い、暴君のように振る舞い、平気で傷つける。このあいだの夜のようないさかいは、これからもきっと繰り返されるだろう。
本音を言えば、いっそ、琴子とママを引き離してしまいたい。自分にそれをする力さえあれば。そして、琴子がそれを望みさえすれば。今は無理でも、琴子がもう少し大人になったら。知明のように、家を出て1人で暮らすことのできる年齢になれば。
でも、琴子はママを切り捨てることはできないのだと言った。お兄ちゃんのようにはなれないと。
ここに来る途中の車の中で真由子は、琴子が帰ってこない理由を、知明が家を出たショックからではないかと話していたが、多分それはない。あの日、美容院でそのまま母親と別れた琴子に、兄のことを知る機会はなかったからだ。けれども琴子は知っていたのかもしれないとも思う。琴子は知明が近いうちに家を出ようとしていたことを、なんとなく察していたのかもしれない。
父親は実害がないので気にならない。一方母親には用心した方がいい。異母弟にそう忠告した彼の言葉には、自分の親に対するいかなる思いも込められていない。反発や失望といった、ネガティブな感情すらも。すでに知明はすっきりさっぱりと、親に対して見切りをつけてしまっているのだ。
知明の顔が冷たく見えるのは、その表情があまり変わらないせいだ。真由子の言っていたような尊大で傲慢といった印象を、今まで美奈子は持ったことはない。だが、とっつきにくい印象なのは確かだ。よくしゃべり、表情も豊かな梅宮とは対照的だ。そんなことを考えながら父親によく似て整ったその目許をぼんやりと見ていたら、目が合った。
「美奈子さん」
目が合っても笑いかけるでもなく、真顔でこちらをじっと見たまま、知明は口を開いた。
「実は、頼みたいことがあるんだ」




