-14-
あの日の晩、真由子から連絡を受けた琴子のママは、小学校からの帰り道の途中で、美奈子の元からさらうようにして、琴子を車に乗せ、連れ帰った。
ひとり自転車を走らせて美奈子が家に帰りつくと、真由子は玄関の鍵を締めて、ママのミニカーのエンジンをかけているところだった。
「出かけるわよ、乗って」
車庫の隅に自転車を止める美奈子に、真由子はそう促した。
ふかふかのクッションを敷いたナビシートに身を沈めながら、美奈子は聞いた。
「回転寿司を食べに出るの?」
「ごめん。寿司が食べたかった?」
真由子は車を道路に出した後、一度下りて車庫の出入り口を閉めると、運転席に戻ってきて言った。
「実はプチ同窓会をすることが急に決まったのよ。回転寿司だと精算がややこしいから、『ヴェルモット』に集まろうってことにしたんだけど」
ヴェルモットというのは真由子の通う大学の通りにあるパスタ専門店で、昼は土、日でもランチメニューを置いていて、美奈子は真由子に2度ほど連れて行ってもらったことがある。
「お姉ちゃんの同窓会? だったらわたしがいても仕方がないし、うちで待ってるわ」
車を発進させる真由子に、美奈子は慌てて言った。
「駅前のお弁当屋さんの前で降ろして。おにぎり買って帰ってるから」
寿司もイタリアンも魅力的だけれど、それよりも、家に帰ってぼんやりしていたい。
軽く触れた小さな唇の、柔らかさ。
そっと繋いだ指先の、ほのかなぬくもり。
胸のうちに残る余韻を、もう少しだけ繋ぎとめていたい。今は1人でいて、その記憶を確かめたいというのが美奈子の本音だった。
けれども真由子はあっさり首を振った。
「だめよ。美奈子も連れて行くってもう言っちゃったんだもの。それに、桜井くんが、あなたと少し話がしたいんだって」
「え?」
同窓会って、琴子のお兄さんと?
この前真由子は、桜井知明が苦手だと言ってなかっただろうか? 態度が横柄だとか、高飛車で鼻持ちならないだとか、悪口のようなものを聞かされたような気がする。
いぶかる美奈子に、真由子は説明した。
「どちらかというと、桜井くんがあなたに会うのがメインなのよ」
小学校の運動場で、真由子が貸してくれた携帯にかかってきていた電話は、琴子の兄の知明からのものだった。
琴子を見つけて今から一緒に帰るという連絡を美奈子から受けた真由子は、すぐさま琴子のママに琴子が見つかったことを連絡したが、その電話を切ったかと思うと、呼び出し音がまた鳴った。ナンバーディスプレーに表示された番号は、真由子と同じ大学に進学した高校時代からの友人で蓮村大介という男の携帯のナンバーだったが、電話の向こうに出たのはなぜだか知明だった。彼は電話の相手が真由子だとすぐにわかった様子で、口早に言った。妹の美奈子さんと、話をさせてくれないか。
美奈子は今、出かけていないの。もう帰ってくると思うけれど。そう答えると、知明は言った。聞きたいことがあるんだ。30分ほどして、もう一度電話する。そのまま電話を切ろうとした相手を、真由子はとっさに止めた。待って、桜井くん。あなたの話って、ひょっとして、琴子ちゃんのこと?
知っているのか、と、知明は、鋭い口調で問い返してきた。琴子が家出したらしいんだ。おふくろから何か聞いていないか? もしも知っていることがあれば、教えてくれないか?
琴子ちゃんなら見つかったわよ。詳しいことは知らないけれど、美奈子は琴子ちゃんを捜しに出ていたの。小学校の運動場で見つかったって。今、一緒にこちらに向かっているわ。そう教えると、電話の向こうの相手は明らかにホッとした様子で、そうか、と言った。
じゃああとで、と電話を切り上げようとする知明を、真由子は再度呼びとめた。
ねえ、琴子ちゃんがどうしたのかを知りたいのだったら、どうしてあなたの家に連絡を入れないで、うちなんかに聞いてくるのよ。それに、無事に見つかったんだから、もういいんじゃないの? 美奈子に何の話があるの?
おふくろはまともに話のできる相手じゃない。すぐさまそう答えたあと、知明は、ややあって言い加えた。おれもきょう、家を出たところだから連絡を入れたくない。
桜井くんが家出? そう訪ね返した真由子に、おれのことはいい、と短く言い置いて、知明は説明した。琴子の家出の理由について、美奈子さんに心当たりがないか聞きたいんだ。おれは常々あの家を出たいと考えていたが、琴子もそうだとは気づかなかった。全く想像してもみなかった。ただ、近頃はあまり妹と話をしていない。話さないどころか、ほとんど顔も会わせていなかった。だから、琴子が何を考えていたのかは、おれには全くわからない。もし、なにか悩んでいたとか──美奈子さんとは普段から親しくさせてもらっていたようだから、何か打ち明けたりはしていなかったか──知りたいんだ。
そういう込み入った話なら、美奈子にではなくて、琴子ちゃんに直接聞くべきだわ。
美奈子の言葉に、電話の向こうで知明は頷いた様子だった。ああ、そのとおりだ。家にいるうちに、直接聞いて、こちらのことも──つまり、おれが家を出て1人で生活するつもりだっていうことを、きちんと話しておくべきだったんだ。
知明は一端言葉を切って、それからゆっくりと言葉を選ぶ。
美奈子さんが琴子から何を聞いていたとしても、それを無理に聞き出そうとか、そういうつもりはない。きのうまでにしておかなければならなかった話を、代わりに聞いて伝えてもらえたら、そのために少し時間がもらえたらっていうことだけで。
しばらく考えて、真由子は聞き返した。
もしかして、桜井くん、琴子ちゃんの家出の原因が、あなたにあるんじゃないかと思っているのね。あなたが何の説明もなしにいきなり家を出てしまって、あの両親のもとに1人で取り残されてしまったショックから、琴子ちゃんが行方をくらませたんじゃないかって。でも、もし仮にそうだとしたら、それを聞いて、あなたはどうするの? 琴子ちゃんがもしも本当に家を出たいと言ったら? あなたは琴子ちゃんを連れていけるの?
知明は真由子の言葉には答えなかった。
とにかく、あとで電話するから。そう繰り返す彼に、真由子は、蓮村くんに代わって、と頼んだ。そっち蓮村くんのケータイでしょ? そこにいるんなら代わってもらえないかな。
「じゃ、その蓮村さんって人も一緒に来るの?」
店内は昼間と違って少し照明を落とし、各テーブルにランプの火が揺らめいている。
そこそこ広いテーブル席の4分の3ぐらいが埋まっていたが、カップルが1組いるほかはすべて女性ばかりのグループだ。中南米か中東あたりの出身か、日本人ではないが白人でもない面立ちをした若いウェイターが、料理の皿を乗せたカートを押しながら、せわしなく行ったり来たりしている。
店内は静かで、国籍不明のエスノ系ポップスが小さく流れている。
美奈子の質問に、真由子は軽く頷いた。
「蓮村くんと、桜井くん。それから桜井くんの連れがもう1人」
「お姉ちゃんの知りあいじゃなくて?」
「蓮村くんと相談して、どうせなら、桜井くんの引越し祝いというか、事実上の独立祝いも兼ねちゃおうかってことにしたの」
「独立って、琴のお兄さん、まだ学生でしょ?」
「塾講師のバイトをしているんですって。それが平均すると月収15万ぐらいになるそうよ」
月15万と言われても、それが学生が1人暮しをするために多いのか少ないのか、美奈子にはよくわからない。充分なような気もするが、琴子の兄は私立の大学に通っている。授業料と教材費全般を引いて、アパートの家賃を差し引けば、生活費としていくらも残らないのではないだろうか。
「桜井くんには気に食わないところもいろいろあったけど、あのお母さんから離れる決心がついたのだったら、ちょっとぐらい祝ってあげてもいいかなって気になるじゃない」
真由子はそう言うと、先に運んできてもらった炭酸入りのミネラルウォーターを一口飲んだ。
「この前、桜井くんの高校時代の話を少ししたでしょ。あのとき話した、桜井くんの彼女だった子を連れてうちを訪ねてきたクラスメートっていうのが蓮村くんよ。ていっても美奈子、あの話をわたしがあなたにしたってことは、コレだからね」
人差し指を立てて、内緒よ、といった仕草をする真由子に、そんなこと念を押されなくてもわかるわ、と美奈子は答える。
お店のドアを開けて入ってきた蓮村大介はひょろっとした長身の男で、不釣合いなぐらい手足が長く、顔も細長く、鼻梁が目立って長く、とにかく色黒で、エプロンをつけてせかせかと動き回っているここのウェイターよりもさらに日本人に見えないぐらいの黒さだったが、少々垂れ気味の目と人のよさそうなハの字型の眉の、愛嬌のある風貌の青年だった。
どこかで見たことがある。美奈子はそう考え、すぐに思い当たる。昼間、知明の引越しの手伝いに来ていた人の一人だ。
続いて入ってくる桜井知明は、蓮村大介よりも少々背は低かったが、肩幅が広く、均整のとれたしっかりとした体格をしている。ハンサムだがどこか冷たい印象も与える怜悧な目許と薄い唇。兄妹なのにあまり琴子とは似ていない。いや、面差しは似ていなくもないのだが、優しげなところが全くない。兄に比べれば、腹違いの兄弟の梅宮紀行の方がまだしも琴子に似た印象を持っている……気がする。
美奈子がそんな風に考えていたら、なぜか当の梅宮紀行が、さらに続いて入ってきた。
最初見たときの記憶が、ふと蘇る。薄明るい髪の色と柔らかそうな質が、琴子の髪とよく似ていると思ったんだっけ。今は制服を着ていないため、あのときよりも少し大人びた印象で、高校3年生から大学1年生ぐらいに見える。
それにしても、どうしてここに?
いぶかしげに眉を上げる美奈子をめざとく見つけて、梅宮紀行は近づいてきた。
「やあ、美奈子ちゃん。また会えたね」
蓮村大介が、よっ、と真由子に片手を上げ、桜井知明が、つきあわせて悪いな、と挨拶をする横で、梅宮紀行は美奈子に話しかけてきた。
「美奈子ちゃんが一緒に来るって聞いたから、思わずついてきてしまったよ。こんなに早く再会できるなんて思いもかけなかったけど、嬉しいな」
「桜井くん、誰? このナンパな少年は」
「弟だ」
振り返って見上げる真由子に、知明は悪びれる様子もなくそう答えた。
「ふうん。この前電話で美奈子とわたしを間違えた子ね?」
ぶしつけな真由子の視線に対し、梅宮はにっこりと笑って見せた。
「そのせつは済みません。声がそっくりだったもので」
真由子は隣りの美奈子の仏頂面にちらりと目をやると、今度は蓮村を見上げて短く言った。
「座ったら」
水を運んできたウェイターが、3人の後ろで黙って待っている。
蓮村に目で促され、桜井知明と梅宮紀行は、真由子と美奈子のテーブルの向かい側の3人掛けの長いすの1番奥から、順に腰をおろした。