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GOING UNDER  作者: 古蔦瑠璃
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 この手をずっと繋いでいたい。

 バックネットの下の隙間を先に這って出て、続いて潜りぬけてきた琴子に手を貸して引っ張り起こし、そのままぎゅっと手を握って歩き始めた美奈子は、強くそう願う。

 冷えきっていた琴子の指先は、今はほんのりと暖かく、琴子の胸のぬくもりを素直に伝えてくる。


 曲がり角のところで一度振り返って琴子の顔を覗き込んだら、美奈子が気遣っているとでも思ったのか、琴子は頷いて見せた。

「大丈夫だよ」

「うん」

「美奈がいてくれるから、平気」

 強がりなどではなく本当にそう思っているのが、にこりと笑った表情でわかって、安心するとともに、美奈子の胸のうちにもふわりとぬくもりが広がっていく。

 まだ伝えていない、伝え足りない何かがあるような気がして、美奈子は言葉を捜した。


 けれども、学校の敷地を囲むフェンスのすぐ脇の細い道の、正門までの距離はとても短い。

 なにも言い出せないまま美奈子は、琴子から返してもらった上着のポケットを探り、鍵を取り出して、止めてある自転車のチェーンを外した。電池式のライトをオンにしたところで、さっき校庭にいたときに鳴り響いていた真由子の携帯が、ポケットの中で再び鳴り始めた。


 誰もいない小学校の運動場の遊具の陰で、2人は初めてのキスを交わした。

 そっと重ね合わせた唇が離れても、しばらくはお互い動けずにいて、両手を取り合ったまま見つめ合っていた。琴子がほんのり上気したあどけない顔で見つめてきたけれども、なぜか美奈子は胸が苦しくなるばかりで、目の前の少女を凝視して、好きよ、とただ繰り返した。

「琴が好きなの」

「うん」

 はにかんだ口調で、琴子は返してきた。

「あたしも美奈のこと、好きよ」


 でもね、琴、琴がわたしのことを好きな分よりも、わたしの方が何倍も、何十倍も琴のことを好きなのよ。思わず口に出しそうになって、さすがにあんまり子供っぽいような気がして言うのを止めた。でも、多分、と、美奈子は思う。

 母親が厳しいせいで、時間も行動も制限されている琴子には、ほんとうに一緒に行動できる友達がいない。だから好きで琴子といる美奈子と違って、琴子にとって、自分の行動範囲に合わせられる美奈子と一緒にいるのはある意味不可抗力だ。

 そこまで考えて美奈子は、その思考を頭の中から追い払った。

 好きだと言ってくれた琴子の言葉を今は信じよう。それに、琴子がもっと大人になって強くなっても、彼女にとってかけがえのない存在でありつづけるための努力ならできる。そんな風に、少しずつ、少しずつ手を取り合って歩いていけたらいい。


 静かでひそやかな2人だけの時間を破ったのは、琴子に着せかけた上着のポケットの携帯だった。

 琴子はちょっと目を見開いて、けれども案外に落ち着いた仕草でポケットから携帯を取り出すと、美奈子に渡した。

 無意識に姉からだと思い、通話ボタンを押しかけた美奈子の手が止まる。自宅の番号ではない。知らないナンバーだ。

 一瞬のち、美奈子は我に返ってパタンと携帯を折りたたんだ。

 大学の友人かバイト仲間か、相手は当然真由子が電話を携帯していると思っている。いきなり自分が出るのは失礼に当たる。

 姉は留守録につなぐ設定にしていなかったらしい。コール音は20秒ほども鳴り続けた。

 心配そうな顔になる琴子に、美奈子は、お姉ちゃんの知り合いの誰かからだと思う、と説明した。お姉ちゃんのを借りてきただけだから。


 もう6時をとっくにまわっていることを確かめたのち、美奈子は携帯を琴子のポケットに戻した。

 それから、もういちど平均台に座るように琴子を促して、もう一度三つ編みをやり直した。今度はシンプルなおさげをさっさと仕上げてしまう。心を落ち着けて、頭の中で考えをまとめてから、美奈子がここに来るまでのいきさつを、手短に説明した。

 夕方、琴子のママからの電話があったこと。美容院で別れたきり戻ってこないといって、心配していたこと。そのときに聞かれて、梅宮紀行と名乗る高校生に声を掛けられたことを話してしまったこと。

 おとといの晩にも、ちょうど美奈子が琴子の部屋を訪ねている時間に、琴子のママは美奈子に電話をして、梅沢紀行のことを聞き出そうとしていたこと。真由子が機転を聞かせてくれて、美奈子が疲れて寝ていることにしてくれたこと。琴子のママは次の日もう一度電話するから言っていたこと。

 翌日そのことを琴子に告げて相談したかったけれども、琴子が学校を休んでいて会えなかったため、相談できなかったこと。


「わたしは、琴子のママになるべく早く、梅宮さんのことを話したほうがいいと思ったの。でも、琴の了解をとる前に勝手にしゃべってしまったことになって、悪かったわ」

 隣りに腰をおろして琴子の方を向いた美奈に、ううん、と琴子は首を振ってみせた。

「あたしもほんとは迷ってたの。梅宮さんのこと、ほんとは言った方がいいんじゃないかって。隠しても、例えば梅宮さんの方でパパに話したことが、パパからママに伝わっちゃうこともあるかもしれないし、また梅宮さんから電話かかってくるかもしれないし」

「わたしもそう思ったのよ。うんとあとになってわかったら、あのときどうして言わなかったのってことになって、琴とママとの間がこじれちゃうと思う。それにね」

 黙って頷く琴子に、美奈子は続けて言った。

「琴のお兄さんが高校の頃のことだけど、琴のママ、お兄さんを毎日学校に送り迎えしていた時期があったでしょ? 高校2年の秋頃から、3年の1学期のあたりごろまでだったと思うのだけれど。もし、琴のママが今度のことで、琴を送り迎えするって言い出したら、そして本当にそうしたら、ママが梅宮さんとばったり学校で顔を合わせる可能性だってあるわけでしょ。だったら早いうちから、ほんとはできれば琴の口から言ったほうがいいと思ったのだけど……」


「うん、あのね……」

 琴子は小さく頷いて、

「それはもう、ママに言われてたの。美奈子ちゃんが一緒にいてくれたら安心と思っていたけど、そうもいかないようだから、これからはママが学校に送り迎えしていくわ、って」

「それは困るな。琴と一緒の時間が少なくなっちゃう」

「うん。だから美奈がママに話してくれて助かったかも。なんだかんだいって、ママ、美奈のこと信用してるから」

 琴子は伺うように美奈子を見た。

「それで、ママ、なにか言ってた?」

「そういうことなら、琴が梅宮さんのところに行ってないか当たってみるって。ただ、梅宮さんのことは全く想像もしてなかったみたいで、びっくりした様子だったけど」

「そっか」

 琴子は小さく溜息をついた。

「帰らなきゃ、ね。帰ってママに謝らなきゃ」

「謝るって、何を?」

「ん。嘘ついてたことを」

 梅宮紀行の問題は家庭全体の隠し事で、別に琴子だけが嘘をついていたわけではない。けれども琴子の後ろめたさと心地の悪さを知っていた美奈子は、黙って頷いた。


「髪は、どうするの?」

 その質問には琴子は、少し考えて、こう聞き返してきた。

「ねえ、美奈、もう一度聞いてもいい。髪が短くても、あたしのこと、変わらずに好きでいてくれる?」

「あ、あたりまえでしょ?」

 琴子がそんな風に真っ直ぐに聞いてくると思わなかった美奈子は、一瞬気後れしたあと、慌てて答えた。

 琴子はひどく嬉しそうにふうわり笑うと、じゃあね、と、口を開く。

「髪は切る。美奈が短くてもいいって言ってくれたから。たしかにあたしの髪だけど、今はママの気の済むようにしたいの」

 いいよね? そう相槌を求める琴子に、もちろん、と美奈子は頷いた。琴がそれでいいなら。

「でもね、美奈」

 琴子は真剣な顔になって、美奈子を覗き込んできた。

「あたし、ママに振りまわされるのはもうやめる。難しいけど、でも、あたし、わかっちゃったから」

「何が?」

「あたしには美奈がいるけど、ママには誰もいないんだなって」

 琴子は少し首を傾げ、ゆっくりと、自分に言い聞かせるような声で言った。

「ママには信じられる相手が、誰もいないの。だから、あんなになっちゃったんだわ」


「だからっていって──」

 美奈子は反駁した。

「琴や琴のお兄さんを自分の思いどおりにしようとしていいわけじゃないわ」

「うん」

 琴子は頷いて答えた。

「美奈の言うこともわかるよ。ありがと、美奈。あたし、美奈に出会ってなかったら、そんなことすらわかんないままだったと思う」

 ねえ、美奈、聞いてくれる? 琴子は続けて言った。

「ママがなんでも言うことを聞かせようとするのは、あたしのことを信じられないからだと思うの。信じてないから、ずっとずっと試し続けてないと、気が収まらないんだと思う。もしかしたら、なんでも言うことを聞いているうちにどんどんエスカレートして、とんでもないことまで要求してくるようになっちゃうのかもしれない。だから、少しずつ、どうにかして変えていかなきゃいけないんだよね。あたしはママとは別の人間なんだって、わかってもらわなきゃ。でも、あたしには、お兄ちゃんみたいに、ママのこともパパのこともすっぱり切って捨てちゃうことはできないから……あきらめたくないから……その」

 琴子の声が不意に小さくなる。

 彼女は再び涙を溜めて、俯いて、それでもなんとか言葉をつないだ。

「これからもあたしと一緒に……あたしとつきあって……ってくれる?」

「もちろんよ」

 美奈子は琴子の手を引いて、自分の方に引き寄せ、柔らかく抱きしめた。

「たった今、そう言ったところでしょ?」

 琴子が口には出さなかった言葉の意味を汲んで、美奈子は繰り返した。

「口数の多い琴のママとも、あの苗字の違う憎ったしいお兄さんとも、とっつきづらいパパとも、とことんつきあうわよ」

 美奈子の憎まれ口がおかしかったのか、少女は半べそをかきながらも、小さな笑い声をもらした。


 まだまだ話し込んでいたい。2人きりで、そばにいたい。本当はずいぶん後ろ髪を引かれながらも、そろそろ行こうよ、と、美奈子は琴子の手を引いた。

 グラウンドを斜めに突っ切って歩き始めたとき、再び電話が鳴った。ポケットから出して、番号を確認する。さっきと同じ番号で、今度は10秒ほど鳴って切れた。

 自転車まで戻ったところでまた鳴り始めた電話は、今度は、美奈子が自転車を動かして琴子と並んで歩き始めても、しばらく鳴鳴りつづけていた。美奈子は鳴り終わるのを待ってから、一端自転車を道の脇に止め、電話の着信番号を念のためもう一度確認してから、姉の真由子に連絡を入れる。小学校の校庭で琴子を見つけたことを話して、今、家に向かって歩いていること、そして、さっきから電話が鳴りつづけていることを告げた。

 電話のことは、帰ってからでいいわよ。それより、日が暮れちゃったけど大丈夫? そう聞いてきた姉に、日が暮れたっていっても遅い時間じゃないし、まだ人通りもあるからと美奈子は答えた。

 両親が帰ってきて心配しているかもと思っていたが、姉は言った。さっきママから、パパと2人で外食してくるからって電話があったわよ。あんたたちも回転寿司でも食べに行ったら? って言われたから、早く戻ってきなさいね。

 ご飯の用意もしないまま、うちを飛び出してきたんだっけ。ふとそのことを思い出した。

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