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GOING UNDER  作者: 古蔦瑠璃
11/17

-11-

「美奈……」

 どこか呆けた表情のまま、フェンス越しに琴子は手を伸ばした。金網に絡めた美奈子の指に、琴子の冷たい指先が触れる。

 どうしてここにいるの? 不思議そうに見開かれた少女のまなざしに答えるでもなく美奈子は、

「待ってて」

 そう言うと、フェンスを支えている支柱の部分に手をかけ、金網に片足を引っ掛けて、ひらりと乗り越える。上着のすそが一瞬翻って、姉の真由子が貸してくれた携帯が零れ落ちそうになったため、慌てて片手で押さえたけれども、しりもちをつくようなヘマはしない。琴子が慌てた顔で、美奈! 危ない! と小さく叫んだときにはもう、琴子のすぐ横に降り立っていた。


「危ないよぉ、美奈、心臓に悪い……」

 さっきまで呆けていた表情が、何かの呪縛が解けたかのように動く。彼女は美奈子を軽く睨んで、もう、と言いながら、美奈子の両腕をつかんで飛びついてきた。薄明るいふわふわの髪が嗅ぎなれない整髪料の匂いをさせて、美奈子の頬をくすぐった。

「びっくりさせないでよぉ」

 美奈子は笑って、琴子の顔を覗きこんだ。

「そういう琴は、どうやって入ったの?」

 土曜日は小学校がお休みだから、正門も裏手の門も施錠してある。人の背丈ほどもあるフェンスを琴子がよじ登ったとは考えにくい。

「あちらに……」

 そう琴子は振り返って、グラウンドの向こう側を指差した。 野球のホームベースの向こうに、学校全体を囲むフェンスとは別種類のバックネットが中空高く掛けられていたが、その足下にちょうど、子供がかがみこんでくぐれるぐらいの隙間が空いていた。

「小学生の子が何人か来てて、金網の下の隙間をくぐって出入りしてるのを見たの」


 今、校庭には誰も居ない。もとより小学校にナイター設備などなかったから、街中の公園よりもずっと暗く、遊具の置いてある木陰のあたりは特にうっそうとしていた。

 琴子はグラウンドを見まわして、たった今気づいたというようにつぶやいた。

「もう、みんな帰っちゃったんだ……」

「うん。校舎ももう暗いね」

 美奈子は琴子に並んで、琴子の目線の先を追い、そう感想を漏らした。3年前までここに通って、勉強して、友達と遊んでいた。けれども懐かしいはずのその場所は、今はひんやりとした薄闇に沈み込んで、どこか重苦しくそっけない。誰もいない夜の校舎。しんと静まり返ったこの場所で、たった1人、琴子は何をしていたのだろう。


 ぶるっと身震いして琴子が寄り添ってきた。

「なあに、怖いの?」

 琴子は少し俯いたまま、美奈子の言葉にかぶりを振る。

「空っぽで、なんだかさびしいなって」

 美奈子は手を伸ばし、琴子の手を握った。やっぱり冷たい。

「琴、指が冷えきってるよ? ずっとここにいたの?」

「ん……」

 琴子は曖昧に頷いた。

「琴のママから電話があったのよ。美容院から帰ってこないし、どこに行ったかわからないって」

 それを聞いて、琴子の表情が曇る。

 美奈子は隣りを振り返って琴子の顔を覗き込むようにして聞いた。

「髪、少し切った? あまり変わってないね」

 ふわふわの髪の毛先を揃え、綺麗にブロウしてもらった琴子は、信じられないぐらい可憐だ。華やかで愛らしくて、なのに儚げで……。他の誰にも見せたくないぐらい。このまま手を繋いで、明かりの消えた暗い校舎に入っていったら、2人だけで、誰も知らない異次元の世界か何かに飛ばされたりしないだろうか。そうだったらいいのに。頭を掠めたらちもない夢想に、美奈子は苦笑した。

 自分の家と隣りの家の塀で隔てられたお互いの部屋と部屋の10mほどの距離が、美奈子にはもどかしい。何かあったとき、琴子が辛いとき、いつでもそばに居て、真っ先に助けてあげたいのに。支えていてあげたいのに。

 けれども今はともかく、自分が琴子の隣りにいる。一番近くに。美奈子以外はまだ誰も、琴子がここにいることを知らないのだ。非現実的な夢は頭からさっさと追い払って、美奈子は繋いだ琴子の手を少し引いた。


「ゴム貸して。髪を結わえてあげるよ」

「うん」

 木立の間を抜け、ブランコの横の平均台のところまで歩いて行って、美奈子は琴子を座らせた。

「寒くない?」

「平気」

「風邪、引いてるんでしょ?」

「ううん。きのうはちょっと、体調が悪かっただけなの」

 それでも身体が冷えるのはよくないと言って、美奈子は自分の上着を脱いで琴子に着せ掛けた。美奈こそ寒くないの? そう訊ねる琴子に、自転車で走ってきたから暑いぐらいなのと答えた美奈子は、琴子の手首に巻きつけてあった小さなビーズの飾りのついた青いゴムを受け取った。座った彼女の後ろに回って、指で軽く髪を撫で付けて左右に分ける。

「櫛、持ってない?」

 琴子はかぶりを振る。

「持ってない」

「わたしもカバン、持ってこなかったからな」

 言いながら髪を手櫛で梳いて、三つ編みを始めた。

「どうせなら編み込みにしちゃおうか」

 真ん中から分けた左側の髪を、ゴムで仮止めにして、右側の髪から少しずつ手ですくって、編み込みを作っていく。少し面倒な作業だが、なくなったと思っていた琴子の髪に触れられるのが嬉しい。緩くウェーブした柔らかな髪は、クセのない美奈子の髪よりもずいぶん結わえたり結んだりしやすい。真っ直ぐな自分の髪は三つ編みに向いていない。毛先を結わえたゴムやリボンはすぐにするりと抜け落ちて、知らないあいだにほどけてしまう。

 綺麗な編み込みをつくりながら、美奈子はおととい姉と交わした会話のことや、琴子の留守中にママとの電話で梅宮紀行のことを話してしまったことをどう切りだそうかと考えをめぐらせる。せっかく2人きりだけれども、考えればあまり時間はない。琴子のママはまだ琴子を捜しまわっているはずだし、姉の真由子も美奈子からの連絡を待っているはずだ。西の端に一条の微かな青い光を残して空は宵闇に沈み、あたりはそろそろ薄暗がりから夜の闇へと移行し始めていた。


「あのね、美奈……」

 美奈子が考えあぐねていたら、ためらいがちに琴子が切り出した。

「うちに帰るのが怖くて、ここに来て……ぐずぐずしてたの。心配かけてごめんね」

 琴子のママから美奈子が電話で聞いたのと同じ話を、琴子は繰り返した。

 髪を短く切りなさいといわれて、塾のあと、美容院に連れて行かれたこと。待合席で待っていたら、パパから電話があって、ママが急にうちに戻らないといけなくなったこと。ママは琴子にお金を渡して、先に帰ってしまったこと。

「あたし、どうしても髪を切りたくなかったから、美容師さんにどうしますかって聞かれて、毛先を揃えてくださいって……」

 お金を払って店を出た途端に怖くなった。短くしてきなさいってあれほど言ったのに、あなたはまたママの言いつけを破ったの? 怖い顔で、怖い言葉で怒鳴り続けるママの顔が浮かんだ。下を向いて、いつまでも黙ってママの声を聞いているしかない自分の姿も。足がすくんだ。

 お店のスタッフの呼んでくれたタクシーに乗り込むと、行き先を尋ねる運転手に、我知らず駅までと答えていた。駅から電車に乗り、最寄りの駅で降りたが、そこからはどうしても家に足が向かず、気づいたら小学校にいて、鉄棒やキャッチボールをする子供たちを眺めていた。


「あたし、本当は決心したつもりだったんだ。ママに何を言われても、頑張ろうって。あたしの髪だし、伸ばしても誰にも迷惑かけないし、一生懸命勉強して成績下がらないように努力するし、だからこのままでいさせてって言おうって。なのに、怖くて……怖くて……きっとまた叱られる。梅宮さんのことだって、ママ、全然納得してなかったみたいだから、きっとまた聞かれる。そう思うと帰りたくなくて……こんな風にぐずぐずしてても仕方ないのに、どうしてもダメで……」

「琴……」

「美奈が大好きだって言ってくれた髪だから、切りたくなかったの。だから、思いきってママに逆らってみようと思ったの。だけど、気持ちがすくんじゃって、怖い気持ちだけがどんどんふくれていっちゃって。家に向かって歩こうとしても、ドキドキ動悸がして、めまいがして、足が本当に動かないの。どうしたらいいかわからなくなっちゃって……あたし、美奈みたいに強くなりたかったのに、ちょっとならなれるかもって思ったのに、やっぱりダメなままで……ママにも対決できないし……ほんとにどうしたらいいのか……」


 あとはゴムで止めるばかりだった編み込みから手を離し、美奈子は後ろから琴子の頼りなげな肩を抱きしめた。

「ごめん、琴。わたしがおととい、変なこと言ったからだね」

 一度ぐらいママに逆らってみればいい。あのときは本気でそう思った。けれども美奈子の言ったとおり勢いで行動してしまい、その反動で怯えてすくんでいる彼女を見るのはいたたまれない。

「ううん」

 琴子は大きく首を振る。

「美奈の言うとおりだもの。あたしのことだし、あたしの髪だし、あたしの将来だから、もっとあたしがしっかりしなきゃって本当に思う。そう思うのに、怖くて……あたし、意気地なしで……いつまでもこんなで……きっと美奈も、呆れてるよね。あたし、友達って美奈しかいないし、でもこんな弱虫だと、美奈だってきっと離れていってしまう。そうしたらあたしは一人ぼっちだって考えて、それも怖くて……怖くて……」


「馬鹿ね」

 美奈子は琴子を抱きしめる腕に、きゅっと力を込めて、

「どうしてわたしが琴から離れていってしまうって思うのよ」

「だって美奈は友達多いし、しっかりしてて、1人でなんでもできて、クラスで人気もあって、あたし……あたしなんかいなくても、やっていけるし……」

 語尾が震え、琴子は黙り込んだ。

「馬鹿琴」

 美奈子は琴子の前に回り込んで、肩をつかんで覗き込んだ。

「わたしにとって、ほかのクラスメートとあなたがどうして一緒だと思うの? わたしはいつだって琴と居たくて、これからだって琴と居たいから、一緒に高校に行こう、医者を目指そうって言ってたんじゃない」


「だって……」

 大きな目を寂しげに伏せ、琴子は言った。

「ほんとは、美奈、あたしがあんまりぐずぐずしてると腹が立つんでしょ? あたしが優柔不断で、もたもたしてて、はっきりしないから」

 美奈子は驚いて、琴子を見返した。

 感づかれていた? 時に苛立ちに駆られる自分を、うまく隠してきたつもりだったのに。

「お兄ちゃんにもよく言われるの。ちゃんとした意志表示もできなくて、いつでもなんでもママの言いなりで、そんなんでいいと思ってるのかって。パパも……あたしにはいつもイライラさせられるって。はっきりしない、本当にグズな子だって……言われて……美奈だって、我慢してつきあってくれてるけど、あたし、やっぱりちゃんとできないし……少し、少しは強くなんなきゃ……」


「待って! 琴」

 美奈子は両手で琴子の肩を揺さぶった。

「待ってよ、違う。そうじゃないの」

 とっさに言葉が出なくて、それでも何か言わなくてはとあせりながら、美奈子は首を振った。

 自分は琴子に苛立ちを覚えているいるわけではない。腹が立つのは、自分の望みを押しつけてくる琴子のママに対してで、断じて琴子自身に対してではない。はっきり否定したかったが、そう言いきれないものも、自分の中にあった。

 美奈子の苛立ちは多分、琴子がママの横暴を黙って受け入れているところにある。それも、叱られるのが怖くて保身のためだけに嫌々従っているわけじゃなくて、本気でママのことが好きで、ママに受け入れられたいと願っていて、1人で空回りしているのが見ていられなくて辛いのだ。

 でも、それは琴子がグズだから、弱いから、意気地なしだからイライラしているわけでは決してない。叶わぬ望みを抱いて徒労を繰り返している彼女を見るのが辛くてやりきれないのだ。そして、そんな方法ではダメだと、なんでも琴子はママの望みどおりになるのだとママに信じさせることでは、ママに本当の意味で受け入れてもらうことなんて決して出来ないのだと口に出して言いたいのに、言えない。それがもどかしく、腹立たしいのだ。

 もし、口に出して言えば、きっと琴子を傷つけてしまう。だって、本当の意味であの人に受け入れてもらう方法なんて、美奈子にだって皆目見当がつかないのだ。両親の決めた道を歩くことを拒否した兄の知明とママの確執について聞けば、なお怖くなる。ママと分かり合う術などもともとないのだと、琴子に絶望をつきつけることになりはしないか。


「そうじゃないの。聞いて……」

 すぐ間近で自分を見返す少女の見開かれた目に向かって、やっと美奈子は口を開く。

「わたしはただ、琴がママに傷つけられるのを見るのが嫌なの。琴のママは、琴を傷つけることを平気で言ったりしたりするんだもの。それなのに、琴はそれを許してて、ひどいこと言われても怒って言い返したりもしないし……。わかってるの。たった1人の琴のママだもの。だから、できるだけ仲良くしたいって気持ちもわかるし、けど、それでもそばで見ていて辛いの。だから、時々、琴に向かって琴のママの悪口を言いたくて仕方なくなったりするの。でも、それを言うと、琴がいやな気持ちになって、ママとのことをわたしに話してくれなくなるかもしれないと思って、わたし、琴にはなんでも話してほしいから。どんなことでも聞きたいし、知っていたいから。それが……」

 言いながら、美奈子は琴子の肩に置いた両手に力を込め、琴子を引き寄せた。目を見開いた少女は、引き寄せられるまま平均台から立ちあがった。


「我慢してつきあってるなんて、そんな風に思われちゃったのは、わたしも、いえ、わたしが悪かったんだわ。ちゃんと言えばよかった。わたし、本当は琴がどんなでも構わない。髪が長くても短くても、強くなくても、ママの言いなりでも。琴が本当にそれでいいなら、それでいい。だから、わたしが呆れてるとか、離れていくとか、そんな風に思わないで」

 柔らかな前髪に覆われた琴子の丸い額に、こつんと額をくっつけて、内緒話をするような小さな声で、美奈子は言い加えた。

「だって、わたし、琴のことが大好きなんだもの」


「美奈……」

 見開かれた少女の瞳は不意に揺れ、盛り上がった涙が一筋頬を伝う。それを見た美奈子の胸は、ぎゅっと締めつけられるような、切ないような、不思議な気持ちで満たされる。こんな自分の一言で動揺して涙を流す琴子が可愛くて愛しくて、どうしようもなくて。

 ふっくらとあどけないラインを描いた琴子の頬をそっと包み込んで、美奈子は聞いた。

「もしかして、知らなかったの?」


 琴子は泣き笑いのような表情で答えた。

「知らなかった。おうちがお隣同士だし、美奈はいつだって面倒見がいいから、放っとけなくて、仕方なくてあたしの面倒見てくれてるんだと思ってた。でも、あたしがあんまりぐずで弱虫だから腹を立ててるんだって。おととい美奈がむっとしてたのはわかったし、帰ったあとで、もしかしたら美奈は我慢強いから黙ってつきあってくれてるのかもと思ったら、なんだかだんだんそんな風に思えてきて。そうしたら、確かめるのが怖くなって、きのうは起きあがれなくなっちゃって……」

「わたし、琴が風邪気味だって、ママから聞いたのよ」

「頭痛がするってママに言ったら、風邪引いたのねって言われて……」

 真由子から剣突を食らわされた琴子のママは、きのうの朝、美奈子と琴子を会わせるのが嫌だったのかもしれない。だから深く追求することなく、迎えに行った美奈子に風邪だから休ませると告げたのだろう。


「我慢なんてしてないよ。いつだって。わたしは琴といるのが本当に楽しいし、嬉しいし、だから琴にも同じように思ってほしくて。琴が悩んだり落ち込んだりするのはわたしもつらいから、なんとか元気になってほしくて……うっかりキツいこと言ったのだったら、本当にごめんね」

「ううん」

 琴子は涙をいっぱいに溜めた目で美奈子を見返して言った。

「嫌われてるんじゃないってわかったら、安心した。あたし、美奈にそっぽ向かれたら、ほんとうに、どこにも行き場がなくなってしまうから。だから……」


「琴の泣き虫」

 琴子の頬を伝う暖かい涙を手のひらでぬぐうと、美奈子はそっと琴子の髪を撫でる。

「わたしはいつだって、何があったって、琴の味方だって言ったでしょ? そっぽ向いたりなんてしないよ。だから、ごめん。その髪……可愛いけど、とても……」

 自分の言葉が原因で、とても逆らえるはずもないママに琴子が逆らってしまったことに胸が痛んで、それなのにその事実に浮かれている自分もどこかにいる。そのことに、美奈子は戸惑った。琴子が苦しんでいるのに、どこかで喜んでいる自分が利己的なひどい人間に思えて、琴子に悪くて美奈子はもう一度、ごめんと繰り返す。


 琴子は知らないのだ。自分がどんなに琴子のことが好きか。どんなに独占したいと思っているか。2人きりでいられる時間を、どんなに大事に思っているか。

 だから琴子は、追い詰められて、強くならなきゃと思いつめてしまった。安心したと言いながらもなお、どこか寂しそうな顔をして、今も不安をぬぐいきれないでいる。その不安を拭い去りたくて、なんとかして自分の気持ちを伝えたくて、けれどもそうする術が美奈子にはまるでわからない。


「ほんとよ」

 途方に暮れそうになりながらも、美奈子はさっきと同じ言葉を不器用にリピートする。

「今の琴が好きなの。どんな琴でもかまわないの。弱くても、意気地なしでも、ママの言いなりでも。変わらなきゃとか、強くならなきゃ、とか、そんなこと、言いたかったんじゃないの。だから……」

 だから、笑ってほしい。いつものように。いつもの、穏やかな毎日の中での何気ない笑顔で。

「美奈……」

 やっと琴子は微笑みを返してくる。けれども、やっぱりその笑顔はどこか儚げで、それを見る美奈子の胸はぎゅうっと痛んだ。

「ありがと、美奈。でも、ごめんね、あたし、ほんとにこんな……意気地なしで」


 寂しそうな微笑を浮かべた琴子を見返しながら、わけもなく美奈子は焦った。どうしてこうも、うまく伝わらないのだろう。好きだと言っているのに。たったそれだけのことが。


「ねえ、琴」

 言いかけて、やはり美奈子はためらった。これから告げる言葉は、琴子を安定させるどころか、かえって負担をかけるだけかもしれない。悩ませるかもしれない。苦しめるかもしれない。

 けれども、きっと気持ちはうまく伝わる。伝えることで、琴子に今より少し、近づけるかもしれない。ひょっとしたら、足りない何かを、もう少しだけ近づくことで、埋められるかもしれない。

 少しためらったあと、美奈子は思い切ってその言葉を口にした。

「キスしても……いい?」

 琴子の目が、驚きに見開かれる。

「ダメなら、目を開けたままでいて。わたしはただ……琴に失恋するだけだから。それで……約束する。ちゃんと友達として好きでいるし、きっと自分の中で片をつけて、気持ちの整理をつけるから。でも、もしも……」

 途切れ途切れに言葉をつむぎ、そして続く言葉に詰まる美奈子の前で、少女は戸惑いの表情を浮かべ、長いまつげに縁取られた目で美奈子をじっと見つめ返した。彼女はそのあとやっと安堵したように柔らかく微笑むと、ゆっくりと静かに瞳を閉じた。

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