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GOING UNDER  作者: 古蔦瑠璃
10/17

-10-

 進学塾の帰り、ママは琴子といつものように外でお昼を食べて、そのあと予約していた美容院に琴子を連れて行ったそうだ。

 少し早く着いたものだから、待合席で予約の時間を待っていたら、パパから電話があって、琴子を置いて家に戻らなければならなくなった。ママはそう説明した。

 知明が友人らしき何人かと軽トラックに引越しの荷物を積み込んでいるところにママが戻ってきたのをちょうど目撃していた美奈子は、パパからの電話というのは知明のことだったのかもしれないと思ったが、琴子のママは詳しい話はしなかったし、直接琴子に関係のないことで、立ち入ったことを聞くこともできない。


 ママは美容院に料金を払って、琴子にタクシー代を渡し、済んだらお店の人に車を呼んでもらって、自分で帰ってくるように言った。

 だが、琴子は戻ってこなかった。


 あまりに帰りが遅いので、心配になったママは美容院に問い合わせたが、とっくに店を出たという。

 タクシーを呼んでくれたというスタッフにタクシー会社を確認して、そちらにも問い合わせた。センターの記録から少女を乗せた運転手はすぐにわかったが、そのタクシーは、彼女を最寄りの駅で降ろしたらしい。

 ええ、間違いないです。センターの係員は答えた。そのタクシーは続けてすぐ、別の客を乗せて賃走しています。ドライバーにも直接確認しましたし、間違いありません。


「一体どうしちゃったのかしら、琴子ちゃんは」

 電話の向こうの琴子のママは、おろおろした声でそう言った。

「おとといの晩から様子が変なの。妙に反抗的だし、美奈子ちゃん、何か心当たりない? 誰かに会いに行ったのかしら? もし何か知っていたら、なんでもいいから教えて」

 切羽詰った調子で聞かれ、黙っている場合ではないと美奈子は判断した。おとといの出来事をごく手短に話す。梅宮紀行と名乗るS高校の制服を着た少年に声を掛けられたこと。琴子も自分もその少年に面識はなかったが、向こうは琴子のことを知っているようだったこと。

「梅宮ですって! まあ、なんてことかしら」

 琴子のママは尖った声でそう言ったあと、不安げに声の調子を落とす。

「わかったわ。そういうことだったのね。でも……だとしたら琴子は……まさか、そんな……」

 琴子が梅宮に会いに行ったということは、多分あり得ないだろうと美奈子は思った。第一彼がどこに住んでいるかなんて、琴子は知らないはずだ。

 琴子のママは、知っている相手だからとりあえず連絡してみると言って、電話を切った。


 居間のカーテンを開けると、西の雲は稜線ぎりぎりのあたりわずかに残して朱の色を失い、空は淡く暮れていくところだった。

 琴子が家に帰っていないという。行き先も告げず、一体どこに行ったのだろう。別に放浪癖のある子でもなかったし、こんなことは始めてだったから、琴子のママの心配は、そのまま美奈子の心配でもある。誰かに会いに行ったのかしらと琴子のママは言ったが、そうではない。多分琴子は、家に帰りづらくてどこかにいるのだ。そんな気がした。


 出かける旨を伝言ボードに短く書いて、戸締りをして外に出て、車庫から自転車を出していると、ちょうど真由子がスクーターで戻ってきた。

「こんな時間にどこにいくつもり? もう日が暮れかけているのに」

「琴子が行方不明なの。お家の人も捜しているんだけど、なんだか気になって落ち着かないから、わたしもその辺を捜してくる」

 美奈子の説明を聞いた真由子は、パンツの後ろポケットから携帯を出して、美奈子に渡してくれた。

「貸してあげる。何かあったら連絡ちょうだい。こちらからも連絡するから。それと、琴子ちゃんが見つからなくても、あんまり遅くならないうちに戻ってくるのよ」

「ありがと、お姉ちゃん」

 持つべきものは、理解のある姉だ。美奈子は感謝しつつ、真由子の携帯をポケットに収めた。


 家に戻りたくないとき、琴子はどこに行くだろう。どこに行こうと考えるだろう。学校? 図書館? 駅? コンビニ?

 考えをめぐらせながら、美奈子は自転車を走らせる。

 通学に使う私鉄の駅に向けて自転車をこぎながら、ふと思い立った美奈子は、小学校に向けて方向転換した。

 あの頃、琴子はもっと自由だった。ママは知明にかかりきりだったから、琴子は概ね放っておかれていたし、勉強だって適当にしていればよかった。家に戻ってから外で駆け回って遊ぶことがあまり無かった代わりに、学校からの帰り道、美奈子と一緒にいろいろ寄り道もした。花屋さんの軒先に繋がれた大型犬と遊んだり、公園に寄ってドングリを拾ったり、よくハガキを出しに行くコンビニのお姉さんとおしゃべりをしたり。少し遠回りして、琴子の通っていた幼稚園を見にいったこともあった。


 琴子の通っていた園は、幼稚園部と保育園部に分かれていた。保育園部の子供たちが保育士たちと連れ立って午後の園庭で遊ぶ様子を眺めながら、琴子はポツリと言った。幼稚園は楽しかったなあ。

 絵の具を水に溶かしてね、大きな1枚の紙に何人かで1つの絵を描いたりね、小麦粉粘土で工作したり、みんなでバッタになったり魚になったり芋虫の真似をして遊んだり。それからお話の時間っていうのがあって、先生が大きな大きな紙芝居を台車に乗せて運んできて、みんなで紙芝居を囲んで座るの。絵本も読んだな。あたしのクラスの先生は、すごくゆっくりした人で、子供たちがもたもたしてても全然せかさないの。いつもにこにこしてて、優しくて、大好きだった。

 大きくなったらその先生みたいになりたいと思ってた。今でも大好きな人。


 夢見るような顔でそうつぶやいた琴子のうっすら上気した横顔を、美奈子はあざやかに思い出す。

 だったら会っていこうよ。せっかくここまで来たんだから。そう誘った美奈子に、時間が無いもの、遅くなるとママが心配するからと言って、いつもの通学路に向けて走り出した琴子。寄り道して遅れた分を、取り戻そうとするかのように。

 家の前で手を振った少女は、どこか気後れしたようないつもの表情にもどって小さく微笑んだ。


 あのとき以来、美奈子はずっと願いつづけてきた。あの日琴子が幼稚園の庭を懐かしそうに見ていた瞬間のような、無防備な顔で笑ってくれたらいいと。一緒に過ごす時間を楽しいと思ってくれたらいいと。琴子が大好きだった先生みたいに、琴子をくつろがせて安心させて、ただ包み込んでいてあげられたら。

 だから、努力することはちっとも苦ではなかった。宿題を見てあげるとき、琴子が理解するまで根気よく繰り返して説明することも。おっとりした琴子の仕草に合わせて待つことも。騒がしいクラスメートやちょっかいをかけてくる男の子から琴子を守ることも。アクの強い琴子のママに如才なく調子を合わせていくことすらも。


 なのにこの頃、ときおり湧き上がるどうしようもない苛立ちを、隠しきれているかどうかの自信がない。

 美奈子が琴子の気持ちに寄り添いたいとどんなに願っても、琴子はいつだってママにいいように振り回されて、へとへとに疲れて、それなのにいつもママの方ばかり見ている。だから美奈子は、ママの望みや思惑をまるで自分の心が望んでいることであるかのように信じたがっている琴子の、その思い込みの殻を、打ち壊したくて仕方がなくなるのだ。

 夕べ自分は琴子に、キツいことを言ったのではないだろうか。ママに逆らってみたらいいのにという美奈子の言葉は、琴子には重荷だっただろうか。


 今でも通学路になっている路地裏の細い通りを自転車で通り過ぎながら、美奈子は左右に目を走らせる。不動産屋のオフィス、貸し画廊と本屋とインド料理店とスナックが一緒になっているテナントビル。薄暗い人気のない公園。この時間にはもう店じまいを始めている小さな花屋。コンビニは開いていたが、アルバイトの店員は今は入れ替わっていて、あの頃よく構ってくれたお姉さんはもういない。


 小学校は住宅街の奥まったところの小さな丘のふもとにある。土曜日の学校は正門に鍵がかかっていて、誰もいない。

 正門の前に自転車を止め、美奈子は塀にそって歩き、西側の運動場の方に回った。

 薄暗がりの中、しんとしたグラウンドの向こう側で、木陰のブランコのひとつが微かに揺れていた。小柄な少女は、少し俯き加減の放心したような顔で、ブランコに腰掛けていた。

 美奈子は塀につかまって、その遠い人影に呼びかけた。

「琴!」

 一瞬遅れて少女は顔を上げ、ひどく不思議そうな表情になる。

「……美奈? どうして?」

 つぶやくような小さな声が、宵闇に吸い込まれそうになりながらも、美奈子の耳に確かに届く。頼りなげな琴子のその顔は、胸のあたりまである緩やかに波打つ栗色の髪に縁取られている。

 美奈子はフェンス越しに、ブランコに近い場所まで歩いて移動した。琴子はゆっくりと立ちあがり、おぼつかない足取りで美奈子の方に向かって歩いてきた。

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