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GOING UNDER  作者: 古蔦瑠璃
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 桜井琴子が引っ越してきたのは、美奈子が小学4年の秋だった。

 美奈子の家の東側の大きな空き地だった場所に、夏の始め頃から建築士が出入りを始め、どこかオブジェめいた白黒のツートンカラーの3階建てが完成したのが9月の終わり。最初アパートかと思って見ていたそれは、一戸立ちのビルだった。

 派手な外見の母親の袖に隠れるようにして、ひっそりとこちらを見ていた内気そうな子供。それが琴子に対する美奈子の初対面の印象だった。


 琴子は美奈子の通う小学校に転入した。同じ学年の2人は、クラスは違ったがすぐに打ち解けた。

 近所に同学年の女の子がいなかったこともあって、2人は朝、一緒に登校するようになった。

 小さな頃から活発で、男の子と一緒になって走り回っていた美奈子と違って、琴子はおとなしい少女だった。学校から帰るとピアノのおさらいを済ませて宿題をして、それから美奈子のうちに遊びに来る。2人でマンガのイラストを描いて遊んだり、美奈子が姉の部屋から持ち出したCDを聞いたりしながら、とりとめもなくおしゃべりをした。


 2人は同じ中学に進学した。何も考えずに公立の中学に進んだ美奈子と違って琴子は、とある医大付属の私立中学を受験し、落ちた。

 受験に失敗したことを母親に責められた琴子はやせ細った。ぐずぐずと寝込む琴子を迎えに、美奈子は毎朝隣家に顔を出した。琴子の支度が済むまで玄関のところで待って、時には2人で遅刻して登校した。


 美奈子の両親は共働きで、その出勤時間は朝早い。子供たちはそれぞれに自分で簡単な朝食をつくって食べ、身支度をする。美奈子はハンガーにかけてあったセーラーカラーの制服に袖を通し、洗面所で長い髪をいつものようにポニーテールにくくりあげ、鞄を引っつかんで玄関に向かった。

「毎朝、ごくろうさまなことだわね」

 靴を履いていると、歯を磨いていた姉の真由子が追いかけてきて言った。

「あんた1人なら遅刻しないのに」

「別に、毎日遅刻してるわけじゃないよ。それに、授業には間に合うから」

「学校は知ってるの? あんたが琴子ちゃんにつきあって登校してること」

「そんなこと、別に言うことじゃないでしょ」

 スニーカーの紐を結び終えると、何かまだ言いたそうな様子の姉をそのままにして、美奈子は家を出た。


 その日は珍しく、琴子は用意を済ませ、玄関まで出てきていた。

 細くて小柄な少女は、体に似合わないぶかぶかのセーラー服に包まれて、よりいっそう小さく見えた。

 2つに分けて耳の後ろでヘアーゴムでとめたふわふわの猫っ毛は、やっとショートカットを抜け出たばかりの長さで、頼りない後れ毛が何本も、襟元に落ちかかっている。

 美奈子の姿を見つけ、琴子は嬉しそうににこりと笑った。それは、美奈子が久しぶりに見る明るい表情だった。


 並んで歩きながら、琴子は切り出した。

「ママにね、もう一度頑張ってみるって話したんだ」

 見返す美奈子に、琴子は言い加える。

「進学のこと」

「高校受験で?」

「うん」

「それで、R医大に進むの?」

 琴子は黙ってこくりと頷いた。

 少しためらってから、美奈子は聞いた。

「だけど、保育士になるのが琴の夢じゃなかったの?」

「いいの、それは。だってお兄ちゃんが病院を継がないって決めちゃったから」

 両手で持ったカバンを軽く膝で蹴り上げると、琴子は美奈子の方を向いて笑った。

「子供が好きだから、小児科のお医者さんになるの」

「琴のパパの病院って、小児科だっけ?」

「ん、内科と外科」

「大丈夫なの? それで」

「うん。あたしが一人前になったら、小児科もつくればいいからってママが言ったから」

「あんたがそれでいいならいいけど、ほんとにいいの?」

 それってやっぱりママの言いなりってことじゃん。琴子にはキツく響くであろう言葉を、美奈子はあやうく飲み込んだ。

「うん」

  吹っ切れたような顔で琴子が笑ったから、まあいいや、と美奈子はそれ以上追及するのはやめた。琴子の体調を気遣う余裕もなく、自分の思惑通りに事が運ばなかった悔しさにとらわれている母親。両親と兄の確執をなんとかうまくまとめようと無意識の内に自分を押し殺してしまう琴子。問題は山積しているように感じられたが、今ここでそれを言ってもしょうがない。


 琴子のママは、ある意味エキセントリックなタイプだった。琴子の話では、彼女は子供たちの友人関係に平気で口を出すのだ。

 友達は選びなさいというのがその口癖で、けれども思いやりがあって誠実な人を、とかいう意味なんかでは全然なくて、要するに、勉強のよくできる優秀な人を選んでつきあいなさい、ということらしい。

 だから、小6の秋に進学塾の主催した校外模試を一緒に受けたときの美奈子の偏差値を聞いて以来、琴子のママは美奈子に当たりがいい。美奈子はどちらかというと理数系が得意なタイプだったが、そのときのテストではたまたま難易度の高かった算数の答案を全問正解し、そのためかなり上位にランクしてしまったのだった。


 もともと美奈子はスポーツも好きだが、勉強も嫌いではない。小さいときから仲がよかった男子の1人にやたら頭の切れる秀才タイプのやつがいて、そいつに負けたくないとがむしゃらに勉強を続けてきたこともあって、中学に通い始めてからも成績はトップクラスを維持している。

 一方琴子は、そのおっとりのんびりした性格が手伝ってか、成績の方は今一つぱっとしない。いや、そこそこ真面目に頑張っているから悪くはないのだ。ただ、ママの要求するレベルが高過ぎるだけで。


 中学受験は琴子にとっては、突然降って沸いた災難だった。

 6つ年の離れた兄が、大学は医学部ではなく工学部を受けると宣言したためだった。曰く、人体をいじるよりもメカをいじる方が性に合っていると。

 パパは案外あっさりと兄の主張を認めた。工学部なら4年で卒業だ。院に進んでも援助してやれる。病院はなんとかなる。外から後継者を選んでもいい。なんだったら琴子に婿養子をとることもできるしな。

 対照的に、ママは取り乱した。婿養子なんてとんでもない。外部から後継者なんて、ますますとんでもない。それぐらいなら琴子を医者にする。ね、琴子ちゃん、そうしてちょうだい。

 琴子は逆らわなかった。けれども6年になってからいきなり通い始めた進学塾の内容についていけず、受験ではあがりまくって、がちがちになって、しくじった。


「ねえ、琴」

 ふと思いついて、美奈子は言った。

「だったらいっそ、公立大の医学部を目指さない? 一緒に」

 琴子は目を丸くした。

「美奈と?」

「そう。わたしの家はパパもママも全くの庶民だから私立の医大は多分無理だけど、公立だったらそんなにお金がかからないって言うから、多分大丈夫だと思うんだ」

 美奈子と琴子がたまたま同級生であったばかりでなく、美奈子の姉と琴子の兄も同学年で、2人とも今年から大学に通い始めている。美奈子の姉は市内の国立大学に。琴子の兄は都心の有名私立大学に。

「そりゃ……美奈と一緒なら嬉しい……けど」

 不安げに琴子は俯いた。

「国立の医学部ってすごくランクが高いって聞いたの。うんと田舎とかなら別だけど、通学できる範囲には、あたしが受かりそうなところはないからってママが……」

「お医者さんになるんだったら、どのみち国家試験ってのがあるでしょ? だったら最初から頑張っておいた方がよくない?」

「そうだけど……美奈、本気? ツアコンになるとか言ってなかった?」

「ん、いいじゃないよ、そんなの適当だもん」

 なんとなく格好いいから。そんな理由で夢を口にしていた美奈子よりも、保育士さんになりたいと言っていた琴子の夢の方がずっと真剣で、ずっと重みがあったように思う。美奈子の方こそ、それをあきらめるのかと問いたい。

「一緒に勉強しよ」

 そうしたらきっと楽しい。それだけでなく。きっと琴子を守ってあげられる。

「わたし、外科医を目指すからさ。これでも手先が器用な方だし、料理も裁縫も得意。一人前になったら、琴が雇って」

 笑って言うと、琴子は顔をしかめた。

「美奈、その発想グロいよ」

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